ただのモフモフ犬だと思って、冷酷皇帝を全力で撫でていた
冷酷無比。血も涙もない氷の暴君。
それが、この広大なガルディア帝国を統べる若き皇帝、ルシウス・ヴァン・ガルディアの呼び名だった。
彼は逆らう者を容赦なく処断し、その冷たい銀色の瞳で見下ろされるだけで、屈強な騎士でさえ恐怖に震え上がると言われている。
そんな恐ろしい皇帝陛下が住まう皇宮の、一番端の端。
ろくに手入れもされていない枯れ庭の隅っこで、下働きメイドである私、リアナは「それ」と出会った。
「……っ! なにこの生き物、すっごくモフモフ……!」
思わず持っていた箒を取り落としそうになった。
そこに横たわっていたのは、大型犬よりもさらに二回りは巨大な、銀黒の毛並みを持つ獣だった。
ピンと立った耳に、立派なふさふさの尻尾。狼のようにも見えるが、全体的に丸みを帯びたそのフォルムと、艶やかな長毛は、どう見ても極上の「大型犬」である。
「どうしたの? 迷子? それとも怪我してるの?」
実家が牧場だった私は、大の動物好きだ。皇宮に出稼ぎに来てから動物に触れられず、深刻なモフモフ不足に陥っていた私の目に、その巨大な犬は、まさに砂漠に現れたオアシスのように見えた。
私が近づくと、巨大犬は伏せていた顔をバッと上げ、鋭い牙を剥き出しにして低い唸り声を上げた。
『グルルルゥゥッ……!』
(気安く触れるな、下賤の者め! 命が惜しくば立ち去れ!)
……犬の目は、確かにそう語っていた。
普通なら悲鳴を上げて逃げ出すほどの威圧感だ。巨大な爪は地面の石畳を易々と削り、周囲には冷たい魔力の余波がバチバチと音を立てている。
しかし、私の目は完全に節穴になっていた。
「あああ〜! 警戒して唸ってるお顔も可愛い! 鼻の上のシワがたまらない! 怖くないよー、よしよしよし!」
『ガウッ!?(なっ、貴様、我の頭を撫で……っ!?)』
私は唸り声など完全に無視して、その巨大犬の首元にダイブした。
両手で顔の横のたっぷりの毛をわしゃわしゃと揉みくちゃにし、眉間を親指で優しく、しかし強めの力で撫で上げる。
実家で気性の荒い牧羊犬を何頭も手懐けてきた私の「ゴッドハンド」の前に、抗える犬など存在しないのだ。
「いい子ねー。毛並みすっごく綺麗! でも、ちょっとだけ毛玉できてるから、ブラッシングさせてね」
私はエプロンのポケットから、常に持ち歩いている愛用の獣用ブラシ(豚毛と猪毛の二段構え)を取り出した。
そして、巨大犬の背中に回り込み、毛並みに沿って滑らかに、かつマッサージするようにブラシを走らせた。
『ガァッ、貴様、何をする、我は皇帝……ひんっ』
「そうそう、そこ気持ちいいよね〜。首の裏、自分じゃ掻けないもんね。はい、次は顎の下ね。お利口さんだね〜」
『……くぅーん。……はふっ、ああっ』
ものの三分だった。
最初は私を食い殺さんばかりに睨みつけていた巨大犬は、私のブラッシングと的確なツボ押しマッサージによって完全に骨抜きにされ、地面に仰向けになって盛大に腹を見せていた。
舌をだらんと出し、私がブラシを動かすたびに、後脚が勝手にパタパタと動いている。
「ふふっ、可愛い! 尻尾も振ってるね。はい、お腹も撫でてあげる。よーしよしよしよし!」
『……っ、……わんっ』
私は巨大犬のふわふわの腹毛に顔を埋め、思う存分深呼吸をした。
太陽の匂いと、少しだけ冷たくて上品な、高級なお香のような香りがする。皇宮の番犬なのだろうか。とにかく、最高の手触りだった。
「ごめんね、私もう仕事に戻らなきゃ。また明日、ここに来るからね。絶対待っててね!」
私は名残惜しく巨大犬の頭にキスを落とし、箒を拾って仕事場へと駆け出した。
取り残された巨大犬――ガルディア帝国第十三代皇帝、ルシウスは、仰向けのままピクピクと後脚を痙攣させ、呆然と空を見上げていた。
(……我は、誇り高き帝国の支配者だぞ。月に一度、魔力の暴走でこの姿になってしまう呪いを抱えているとはいえ……あんな下働きの小娘に、腹を見せて、あまつさえ『わんっ』などと……!)
ルシウスは羞恥と屈辱で顔から火が出そうだった。
彼のこの姿は絶対の機密事項であり、本来なら姿を見た者は一族郎党処刑される。あの小娘も、直ちに捕らえて首を刎ねるべきだ。
そう、頭では分かっているのに。
(……だが、あの手……。あの絶妙な力加減のブラシ……。思い出しただけで、尻尾が……っ)
冷酷無比な氷の皇帝の心に、抗いがたい『快感』が刻み込まれてしまった瞬間だった。
***
翌日。
メイド長から「リアナ! 陛下が至急お前をお呼びだ!」と血相を変えて怒鳴られた時、私はついに何かの粗相がバレて処刑されるのだと覚悟した。
震える足で豪奢な謁見の間に入ると、玉座には、噂通りの冷たく美しい銀髪の皇帝陛下が座っていた。
室内の温度が数度下がっているように感じるほどの、鋭く凍てつくような眼差し。
「……面を上げよ」
低く、氷のように冷たい声。
私は恐る恐る顔を上げた。
「お前がリアナか。下働きの分際で、不敬にも……んんっ」
ルシウス陛下は私を冷酷に見下ろしながら何かを言いかけたが、突如、手で口元を覆い、小さく咳払いをした。
(あれ……?)
気のせいだろうか。氷の皇帝陛下の銀色の瞳が、私を見た瞬間、ほんの少しだけ潤んだように見えたのは。
それに、気のせいだろうか。皇帝陛下の後ろの空間で、見えない立派な尻尾が、バッタンバッタンと千切れんばかりに振られている幻覚が見えるのは。
「へ、陛下……? あの、私、何か粗相を……」
「……いや。何でもない」
ルシウス陛下は玉座の肘掛けを強く握りしめ、必死に何か(おそらく尻尾を振りたい衝動)を耐えるようにプルプルと震えていた。
そして、顔を真っ赤にしながら、そっぽを向いて言った。
「その、なんだ。お前を、本日から余の『専属侍女』に任命する。……主に、余の寝室での、その……いや、とにかく専属だ! 逆らいは許さん!」
「ええええっ!?」
処刑されると思っていたら、いきなり皇帝陛下の専属侍女への大出世。
訳が分からずパニックになる私だったが、この時の私はまだ知らなかった。
毎晩、夜中になると皇帝陛下の寝室にあの巨大モフモフ犬が現れ、私が朝まで「全身全力ブラッシング」を要求されることになるという、恐ろしくも幸せな事実を。
皇帝の専属侍女。それは表向きの役職であり、私の本当の仕事は「深夜のモフモフ接待」だった。
毎晩、日付が変わる頃。ルシウス陛下の広大な寝室に、あの巨大なモフモフ犬がどこからともなく現れるのだ。
私は彼を「ルル」と名付け(ルシウス陛下に似た銀色の目だったからだ)、夜な夜な極上のブラッシングとマッサージを施した。
「はい、ルル。今日は高級な猪毛のブラシだよ。首の後ろ、いくよー」
『……くぅ〜ん、ふんすっ』
ルルは巨大な体を私の膝にすり寄せ、喉をゴロゴロと鳴らす(犬なのに)。昼間の冷酷な皇帝陛下とは打って変わって、甘えん坊で素直なこの時間は、私にとって至福のモフモフタイムだった。
ルルを思う存分撫で回している間、なぜかいつもルシウス陛下は寝室から姿を消しているのだが、「陛下も犬が苦手なのかな?」くらいにしか考えていなかった。私の目はモフモフで完全に曇っていたのだ。
そんな奇妙な二重生活が続いた、ある夜のこと。
その日の私は昼間の慣れない侍女仕事で疲れ果てており、ルルの温かくてフワフワなお腹に顔を埋めたまま、うっかり寝落ちしてしまったのだ。
「んん……ルル、あったかい……」
翌朝。目を覚ました私の顔の横には、ルルの最高の毛並み……ではなく。
鍛え上げられた、美しい男の胸板があった。
「……よく眠れたか、リアナ」
「ひゃあっ!?」
そこには、はだけた寝間着姿のルシウス陛下が、私をすっぽりと腕の中に抱きしめてベッドに横たわっていた。
しかも、陛下の頭にはまだ、昨夜のルルの名残である「銀色の犬耳」と「ふさふさの尻尾」がポンッと生えたままだったのだ。
「へ、陛下!? わ、私、不敬にも陛下のベッドで……それにそのお耳と尻尾は!?」
私がパニックになって飛び起きると、陛下は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……気づかなかったのか。ルルとは、魔力の暴走による呪いで獣化した、余の姿だ。……お前が毎晩、その、我の腹を撫で回していたのだぞ」
「ええええええっ!?」
あの、私に腹を見せて「わんっ」と鳴いていたモフモフ犬が、冷酷無比な氷の皇帝陛下!?
私が言葉を失っていると、陛下の頭の上の犬耳が、しゅんと力なく垂れ下がった。
「……やはり、気味が悪いか。恐ろしい獣の呪いを持った皇帝など」
冷たい瞳の奥に見えた、怯えたような色。
それを見た瞬間、私の体は勝手に動いていた。
「気味が悪いなんて、とんでもない!」
私は無意識のうちに、垂れ下がった陛下の犬耳を両手でわしゃわしゃと揉み込んでいた。
「こんなに可愛くて最高の手触りなのに、気味が悪いわけありません! むしろ、昼間の冷たい陛下よりずっと素直で……あっ」
不敬発言に気づいてハッと手を離そうとしたが、陛下はその大きな手で私の両手を包み込み、自らの頬に押し当てた。
背中の後ろで、銀色の尻尾がパタパタと嬉しそうに揺れている。
「……お前がそう言うなら、我はこの呪いも悪くないと思える。リアナ……お前のその手が、お前自身が、もう我には手放せない」
「へ、陛下……っ」
「ルシウスと呼べ。……もっと撫でろ、リアナ」
氷の皇帝の、熱を帯びた甘い声。
私は完全に顔を真っ赤にしながら、陛下の耳を優しく撫で続けた。
***
それからの陛下は、私に対する執着と溺愛を一切隠さなくなった。
ある日、私の存在を疎ましく思った高位貴族の令嬢が、私に嫌がらせをしようと廊下で待ち伏せしていたことがあった。
「下働きのくせに、陛下の寵愛を笠に着て……! その顔に傷でもつけてやりましょう!」
「きゃっ……!」
令嬢が平手打ちをしようと手を振り上げた瞬間。
「我の所有物に触れるな」
絶対零度の声と共に、ルシウス陛下が現れた。その瞳は文字通り氷のように冷たく、圧倒的な殺気に当てられた令嬢は恐怖でその場にへたり込み、泡を吹いて気絶してしまった。
「リアナの髪の毛一本でも傷つければ、貴様の家門ごと消し去る。……リアナ、怪我はないか?」
私を振り返った瞬間、氷の皇帝の顔は、まるでご主人様に褒められたい大型犬のように不安げで甘いものに変わった。他人の目には見えないだろうが、私には彼の手を引いて「大丈夫だよ」と撫でてあげるまで、見えない尻尾が垂れ下がっているのが分かった。
***
数ヶ月後。
ガルディア帝国は、新たな皇后を迎え入れた。身分差を覆して下働きから皇后の座に就いたリアナのシンデレラストーリーは、国民の間で長く語り継がれることになる。
しかし、彼らには決して知る由もない秘密があった。
「リアナ。今日の公務はすべて終わった。さあ、ブラッシングの時間だ」
皇帝の私室。
冷酷皇帝の仮面を脱ぎ捨て、私の膝に嬉しそうに頭を乗せてくるルシウス陛下。
「はいはい、ルシウス様。今日はどこから撫でましょうか?」
「……首の後ろだ。それから、顎の下も頼む。お前がいないと、もう一日たりとも生きていけそうにない」
そう言ってすり寄ってくる極上の毛並みを撫でながら、私は幸せに微笑んだ。
氷の皇帝の心は、ただのモフモフ犬として、完全に私に手懐けられているのだった。




