↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
〔1000PV越え:ありがとうございます〕「子どもを守れ」が子どもを不幸にする  作者: 石井 浩史


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/34

補足 どのような「子育て方策」が有効なのか?

 これまで全編を通じて、「優しいしつけ・教育」の法制化により、今現在教育機関の「教育力」ががた落ちしていること、しつけは保護者自身が行うよりほかないこと、しかしそれも現在の法制上は難しいこと、その法制の根拠とされている「体罰は子どもに悪影響を与えることは科学的に証明されている」という主張は、むしろ科学的根拠に乏しいこと、そして、社会の安定のためにも子ども自身の成長後の幸福のためにも「優しいしつけ・教育」は有益だとは言えないこと、などを述べてきた。

 今現在子育てでお悩みになっており、これらの言説に納得いただいた方の中には、当然ながら、「では一体、どのように子どもを育てたらいいのか・どうすればストレス耐性の高い、社会で自立して生きていける子どもを育てられるのか」と切羽詰まった問いを投げかけられる方もいらっしゃるかと思う。

 結論から言えば、全ての子どもに当てはまる「こう育てたらよい」という方法は存在しない。前にも述べたが、子どもは一人一人違っている。それら全てに当てはまるような「解決策」など、あるはずがない。子ども一人一人について、保護者のどのような行動・言動に対してどう反応するかを注意深く観察し、どのような性向をもっているのかを理解した上で「それならこのように導けばいいのではないか」と悩み、試行錯誤しながら育てていくより他ない。

 とはいえ、そのように保護者に丸投げしておしまいでは、あまりに不親切というものだろう。

 なので、この「補足」では、あくまで「私の体験上では」という但し書きをつけた上で、子どもを自立した大人に育て上げていくのに役立つと思われる方法を、いくつか書き記していきたい。


 まず、第1章でも記したが、熟練の講師による家庭教師を依頼するという方法がある。これは経験上、子どもの成績をぐんと伸ばし、ストレス耐性をつけるのにかなり有効である。ただ、本編で述べたように、いくつかの問題があり、経済的に豊かで、かつ信頼に足る講師の当てがあるご家庭にしかお勧めできない。

 では、他に、保護者自身ができる方法としてどのようなものが考えられるのか。

 今現在推奨されている方法でうまくいかないのなら、それ以外の方法を試してみるより他仕方がない。すなわち、「厳しいしつけ・教育」を保護者自らの手で行っていくのである。

 ただし、注意してほしいのは、保護者が自分の気の赴くまま、ひっぱたいたり怒鳴りつけたりしても、しつけの効果はほぼない、ということである。

 子どもが社会的に認められない/非常識な/危険な行動をしたら、まずは止めた後、なぜそんなことをしたのか、どうしてそんなことをしてはいけないのかを教えさとす。その上で、また同じ行動をしたときに軽くひっぱたく。さらにまた同じ行動をしたら、怒鳴りつけた上でひっぱたくなど、まずはなにがいけないかを教えた上で、それを忘れて同じ行動をくり返したとき、段階的に強度を強めて叱るのが効果的である。

 この時に大事なのが、「子どもを叩いてしまった」「怒鳴りつけてしまった」などという罪悪感を持たないこと――たとえ持ったとしても、それを表に出さないようにすることである。

 悪いことをしたときに罰せられるのは当然であり、あなたは今その「悪いこと」をした、だからひどい目に遭って当然なのだ、という毅然とした態度を取ることによって、子どもははじめて「ああ、こういうことをしてはいけないんだ」と悟るのである。これがもし、叩いた保護者本人がはっとした顔になり、涙ぐみながら「ごめんね、ごめんね」などといって子どもを抱きしめたりすれば、子どもは「ああ、なんだ、今のはただ、あっちの感情が爆発しただけなんだな」「どんな悪いことをしても、普通はこんな風にひどい目に遭うことはないんだな」と思わせてしまう可能性があるのだ。

 そして、その一方で、教えたことを教えたとおりにきちんとできたときには、しっかり褒めることも大切である。そうすることで、子どもは「言われたことをきちんと守れば、褒めてもらえるんだ」と思うようになり、自らをきちんと律しようという気になる。

 つまり「信賞必罰」である。私情を挟まず公平・厳正に賞罰を行うことで、子どもは保護者を「この人はきちんと『社会の理』を理解し、それを教えてくれているんだ」と思うようになる。それが信頼を生み、子どもに「素直にいうことを聞こう」という気を起こさせるのである。

 この「信賞必罰」を実際に適用する上で気をつけてほしいのは、適用するのならば子どもだけではなく、自分たちにもきちんと当てはめるようにすることである。

 保護者も人間である。間違いを犯すことだって当然ある。子どもは、そういった「過ち」をしっかり見ているものだ。それを子どもから指摘された際に、「大人としての沽券を守ろう」などと思い、「これぐらいはいいのよ」とか「大人はしても構わないんだ」とか「急いでいたから仕方ないんだ」などとごまかしたりするのはよくない。もちろん、「大人に向かって偉そうな口を利くな!」など逆ギレするのはもってのほかのである。そういう行動をすればするほど、子どもは「この人は自分もきちんとできないことを、子どもである自分にだけ押しつけようとしているのだな」「大人である自分は別だと思ってるんだ。ずるいよな」などと思うようになる。そして次第に、保護者のいうことを軽んじるようになっていく。

 子どもに「してはいけない」と言ったことを自分がしてしまった場合、「ああ、そうだったね、忘れていた。ごめん」とか「ああ、そうだね。言ってくれてありがとう」などときちんと謝罪し、あるいは感謝を伝えるようにする。そうすることで、「この人は、自分の間違いを認め、謝ることができるんだ」と、かえって子どものからの信頼を得ることができるのである。


 また、「厳しいしつけ/教育」を行うのをためらう保護者の心中には、「こんな風にきついことを言ったり叩いたりしたら、子どもから嫌われるのではないか」という恐怖感があるように見受けられる。

 確かに、きのうは「やっても構わない」と言われたのに、今日同じことをしたら激怒して怒鳴られたとか、保護者の行動に対して意見したら激怒されたなどといった理不尽な怒り方・しつけ方をする保護者に対し、子どもは嫌悪感を持つことが多いように思われる。だが、保護者自身がきちんとした規準を設定し、それを越えて悪ふざけをしたり、やってはいけないこと・してはならないことをした場合にのみ厳しく叱る・叩くことを徹底し、さらに、「なぜ怒鳴られたのか、叩かれたのか」を本人にきちんと理解させるようにすれば、子どもは素直にその叱責を受け入れる。そして、そういう態度を堅持していくと、いつしか子どもは親をただ「好き」なのではなく、「尊敬」するようになっていく。

 「この人はその場限りの感情や自分の体裁を守るために怒っているのではなく、自分を本気で心配し、「大人のルール」をきちんと教えようとしてくれているのだ」と(小学校高学年以上の子どもであれば)きちんと理解し、「大人としての手本」として、保護者を見るようになるのである。

 意外にも思われるかもしれないが、厳しいしつけ・教育は、かえって子どもからの信頼を深めることも多いのだ。

 もちろん、子どもによっては、このような流れにならない場合もある。

 自信過剰で、自分のやりたいことをやりたいようにやってなにが悪いのか、と素で思っているような子どもの場合、「自分のやりたいこと」を妨げる者は全て敵となる。こういう傾向の強い子どもは、厳しく叱られれば叱られるほど――それがたとえ、自分の行動が原因であったとしても――その相手に対し敵愾心を抱き、どうかすると憎しみまで抱くこともあるようである。

「ほら、やっぱり厳しいしつけや教育は、子どものためにならないんだよ。あくまで子どもの気持ちを傷つけないよう、優しく言い聞かすのが正解なんだよ」などと、リベラル派の方々なら鼻高々でご高説を述べられるかもしれない。

 だが、ちょっと待ってほしい。

 もしこのような自信過剰で独善的な子どもが、その鼻っ柱を折られることなく成長し、そのまま社会へ出たら、どうなるのか。

 社会では、当然その社会独自の「システム」にある程度従わなくてはならない。いくらその「システム」が気にくわないからと言って身勝手な行動をすれば、当然糾弾される。自信過剰な独善主義者は、これに耐えられない。「自分は(自分なりに)正しいことをしているのに、どうしてそれを認めないのか」と横車を押し、いさめた他人を攻撃し、トラブルを巻き起こす。しかも、そういった行動を反省することもないので、同様のことで他人と何回もぶつかっては、次第に疎まれるようになっていく。

 結局、自分と関わる者に迷惑をかけ通し、自分自身も他人から認められない不満をずっと抱えて生きていく「トラブルメーカー」そのものと化していくのである。

 実は、こういった子どもにこそ、徹底的な「厳しいしつけ・教育」が必要なのである。子どもの反抗心まで根こそぎ折るほどの体罰を加えることで「世の中には逆らってはいけないものがあるのだ」ということを心底分からしめ、その相手の姿を見ただけで萎縮し、縮こまってしまうような怖ろしい存在となることで、ようやくこの種の子どもの「身勝手」はコントロールできるようになる。

 その後、「あの時期徹底的に叱ってもらってよかった、そうじゃなければ自分は犯罪者になっていた」と過去を省みて保護者と融和するか、あるいは「昔ひどい目に遭わせたこと、今でもしっかり覚えてるぞ。誰が親の面倒なんか見るものか」と恨む気持ちだけを抱き続けるのかは、保護者と子どもの関係性や子どもの素質による、としか言えない。しかし、たとえ子どもから生涯恨まれたとしても「独善的で身勝手」という、犯罪へ手を染める可能性がかなり高い素質を持った子どもの行動を幾分たりとも制限し、曲がりなりにも社会に溶け込んで生きていけるようにするためには、厳しいしつけ・教育を施すのもやむを得ないのではないだろうか(「たとえ子どもが犯罪者になろうと、子どもから好かれる保護者でありたい」と思われるのであれば別だが)。


 さらに、「厳しいしつけ/教育」を施しても子どものとの関係が良好に保たれるようにする、その方策の一つとして、子どもとの信頼関係を元から高めておく、ということが挙げられる。

 はじめから強い絆と信頼で結びついていれば、多少怒鳴られたり叩かれたりしても、関係は揺るぎもしないし、そもそも子どもが「自分は親に信頼されている」という確信があれば、そうそうその信頼を裏切るような行動は取らないし、その信頼に応えようと努力したりする、というわけである。

 では、どのようにすればその「強い信頼関係」が構築できるのか。

 もちろん「お前を信頼しているぞ」「あなたのことを心から信じているからね」などと口先だけで言ってみたところで、信頼関係が構築されることはない。むしろ、「なにをいきなりつまらないことを言い出すんだ、さてはそうやって、僕/私をコントロールするつもりだな」と不信感をつのらせてしまうのが関の山である。

 大切なのは言動ではなくて、行動である。つまり、相手に対する信頼を身をもって示すようにするのである。

 といっても、子どもの言うことを全て丸呑みにし、子どもの要求を全て聞いてやる、ということではない(政府やリベラル派のお偉い教師陣は、それを推奨しているが)。それは確かに、子どもに「この人は何でも自分の言うとおりにしてくれる」という「ある種の確信」を得られる行動ではある。だがそれは子どもから保護者に対する一方的な――それも、子どもを上位とする――信念に過ぎない。いわば、殿と家臣、王と臣下の関係に近い、一方的な主従関係であって、対等の者同士が互いに感じ合う信頼関係とは似て非なるものである。

 その証拠に、「コイツはオレの言うことをなんでも聞く」と思った子どもはどんどんワガママな行動を取るようになり、それに振り回される保護者は、ワガママな子どもを心配し、さらに世話を焼くようになる。「世話を焼く」とはつまり、「相手がそれをできるとは思えないので先回りしてやってあげる」ことだから、これは結局、「保護者が子どもにどんどん信頼を置かないようになっている」ことを、なにより雄弁に物語っている。

 保護者と子どもが互いに相手を信頼する関係を構築するのに必要なのは、こういった「一方的な奉仕」ではない。それは――意外に思われるかもしれないが――「時間と場所を共有する」ことによって生まれてくる。

「え、それって、子どもの一緒に過ごせってこと?そんなことでいいの?それなら、いつもやっているよ。アミューズメントパークとか、よく連れて行ってやっているし」

などと感じられる方もいらっしゃるかもしれない。だが、「時間と場所を共有する」とは、そういった「イベントを共に楽しむ」などといった経験とはちょっと違う。

 例えば、休日の夕刻、洗濯物を取り込んだ後にアイロンがけをしている時、そばに子どもがやってきて、じっとその手元を見ている。あなたが襟元に洗濯のりを吹きかけているのを見て、子どもが「それはなに?」と尋ねる。「これは、襟をきちんとしたカッコイイ形にするためにつけるものだよ」と教えてやると、子どもが「ふうん」といって、再び手元をのぞき込む。そのうちに、「やってみてもいい?」と子どもが言い出す。あなたは「いいよ、服のこの部分にこういう風に近づけて、シューッとしてみて」などといいつつ、子どもにやり方を教える。子どもは慎重にシューッとスプレーを吹きかける。それを見て「うまくできたね、ありがとう」とあなたが言う。子どもはにっこり笑う。そしてまた、あなたはアイロンかけに戻り、子どもは再びその手元をじっと眺める。

 あるいは、やはり休日の夕方、あなたがサンダルを履いて出かけようとする。「ちょっと出てくるね」と声をかけると、「どこ行くの?」と子どもが聞いてくる。「散歩がてら、買い物。一緒に行く?」と聞くと「うん!」と子どもがついてくる。手をつないで一緒に歩いているうち、あなたはふと思いついて、いつもの道ではなく、ちょっと遠回りをする。畑の中の道だ。夕暮れの中で、ぱたぱたとコウモリが忙しそうに飛んでいるのを、あなたは立ち止まって眺める。「あれはなに?」と尋ねる子どもに対し「あれは、コウモリだね。エサをとってるんだ」と答え、ゆっくり日が暮れていく中、そのまま再びコウモリの飛び回る姿に、子どもと一緒に見入る。

 こういった状況こそが、「場所と時間を共有する」ことである。

 激しい刺激や、ワクワクするような体験は不要。むしろ、邪魔になる。大人からのくだくだしい説明や説教も不要。もちろん、子どもの叫び声、はしゃいだ声も不要(というか、保護者が静かにじっと集中していれば、その雰囲気を感じ取り、たいがいの子どもは自然と静かになる)。ただ同じ場所に保護者と子どもが存在し、保護者が静かな心でいるところへ、子どもがおそるおそる寄り添う(大人が子どもに寄り添う、のではなく、子どもが大人に寄り添うことに、注意してほしい)。そして保護者のその「大人の世界」を感じ取り、共有することで「ああ、今、私たちは同じ時間を生きているんだな」と無意識のうちに実感する。それはいわば「相手を自分とは違う生物であると認識し、しかも、その違う生物同士が、同じ瞬間、同じなにかを共有している」ことを実感するという体験である。これにより、子どもは保護者を自分とは違う存在であり、自分に知らない世界を持ち、それを惜しげもなく共有してくれる寛大な存在だと認知する。そこから信頼が生まれてくるのである。

「なんだ、そんなことでいいの?それなら毎日やっているよ」と言う方もいらっしゃるかもしれない。

 だが、よく考えてほしい。あなたが「毎日やっている」のは、生活に忙殺され、ばたばたと家事をこなし、子どもを追い立てることではないか?自分の都合に合わせ、子どもを自分から誘い出しては、自分の知っているウンチクを得意げに話すことではないか?

 子どもを引き寄せ、「なにもない時間」をともに過ごすために必要なのは、保護者の「静かな、開かれた心」である。もっと具体的にいうと、目の前の「なにか」に向き合い、作業なり光景なりに心の焦点を合わせつつ、周囲にも目の配る余裕のある状態である。

 例えば家事をしていたとしても、適当につまらなさそうにやっていては、子どもの注意を惹かないのでダメ。かといって、時間に追われ、必死に集中してがんがんやっていても、今度は子どもが話しかける隙がないのでダメ。あくまで――例えば、自分の手際により部屋が徐々にきれいになっていくのを確認し、「いつも通りうまく言っている」とうっすら満足しながら――静かで落ち着いた心で、しかも集中しすぎないようにしなければならない。当然、たとえ子どもが隣に座っていたとしても、スマホのゲームやSNSでのやりとりに夢中になっているような状態ではダメである。

 お風呂の湯船に浸かり、ふう、と一息ついた心地よさ、ほのかな満足感にも似た心持ちを、日々の節々、雑事の端々に感じ、毎日を生きていくようにする。そういった心がけを意識して行うことが肝要なのだ。

 ちなみに、この「静かな、開かれた心」でもって世界と接することは、それをしている本人にも、自己実現とは違った充実感を与えてくれる。

 自己実現が、渇いたのどに冷たい飲み物を思い切り流し込むような達成感、満足感であるとすれば、この「静かに世界と接する」ことは、結露した水滴がいつの間にかグラスを満たしているような、落ち着いた達成感、満足感を与えてくれる。自己実現の機会はなかなか訪れないが、それに代わる次善の手段として、社会に生きる人間の幸福度を上げることができるのだ。

 心の持ちよう一つで、日々の生活から充実感を得られるようになるこの方策は、そういう意味で、子育て中の保護者だけではなく、あらゆる人の「幸福感への近道」になりうる。日々の生活が辛く、乾いているように感じられる方は、ぜひ試して見ていただきたい。


 さて、「静かな、開かれた心」でもって世界や物事に対峙することで、子どもと「場所と時間を共有する」下地ができるのだが、この時に気をつけるべきことがもう一つある。

 この「場所と時間を共有する」体験の主役は、あくまで子どもだということである。

 子どもが興味ありげに寄ってきたとしても、自分から「興味ある?これはね、こういう作業でね、ここをこうするとうまくいくんだよ!」などと自分から語ってはいけない。あくまで淡々と作業をこなし、子どもが「それどうやってるの?」などと質問してきたときにだけ、「こうするんだよ」と言葉少なに答えるようにする。

 主体的に興味関心を持ち、尋ね、関わってくるのはあくまで子ども。保護者はただ、その子どもの介入を受けて行動するように心がけるのだ。

 そうすることによって、子どもは「自らの意志で大人の世界に足を踏み入れ、探索している」と実感でき、思うさまそれを「楽しむ」ことができるのである。

 だが、心してほしい。

 「静かな、開かれた心」を持つこともかなり困難だが、多くの大人――保護者にとって、あくまでも受け身な案内役に徹する、というこの行動規準も、それに輪をかけて困難である。

 というのも、一般的に、人は相手に向かって話すこと――すなわち「自己表現」を好み、それらを「聞く」こと、ただ受け止めることを好まないからだ。


 人は基本的に「自分を他人に伝えたくて仕方がない」生物である。

 これによって、大人――保護者と子どもとの関係は、一方的なものになってしまうことが非常に多い。

 子どもは、語彙が少なく、さまざまな表現も未熟で、うまく口が回らないことが多い。そのため、子どもが保護者に向かってなにかを話そうとするときにも、口調がたどたどしく内容が分かりにくいか、あるいはその逆に、伝えたい内容が(保護者にとって)自明のことであり、子どもが話している途中で既に言いたいことが大体分かってしまうことが多い。そうなると、保護者はこれら子どもの話の「伝わらなさ・冗長さ」にイライラし――毎日の生活のせわしなさを考えると、ある程度仕方ないことではあるのだが――子どもがまだ話しているうちにその言葉を遮り、「よく分からないから、もう少しちゃんと話して」「あなたが言いたいのはこういうことでしょ?だとしたら……」などと、話している内容を否定したり、その内容を先取りして、早く話を終わらせようとしてしまいがちだ。 

 これらの行動、子どもの立場からすると、どちらも保護者に失望を感じるものでしかない。

 それはそうだ。せっかく自分が一生懸命「自己表現」しようとしていたのに、それを否定され、拒否され、挙げ句の果てには勝手にその機会を奪い取られ、相手の――保護者の自己表現の場にされてしまうのだから。

 こういうことが続くと、次第に子どもは「どうせ話しても満足に聞いてもらえない」とあきらめ、次第に「無口」になっていく。保護者がいくら話しかけたところで「ああ」「うん」と生返事ばかりが返ってくるようになり、それでますます、保護者は一方的に子どもに話しかけるばかりという悪循環を生じる。

 こういった状況に陥るのを防ぐためにも、保護者は子どもが自発的に話し出した時に、できる限りその話を遮らず、言葉を差し挟まず、ただ相づちを打つだけで、最後まで話させてやる方がよい。その上で「そうなんだ。それは大変だったね。それで、途中ちょっと分からなかったんだけど……」などと言った形で改めて質問するようにする。こうすることで、「この人はきちんと自分の話を聞いてくれる」という信頼を得ることができるのである。


 子どもから信頼され、尊敬の念を得るための方策として、「場所と時間を共有すること」、その準備段階として「静かな、開かれた心」で世界と対峙すること、そして、「できる限り子どもの自己表現を遮らないようにすること」を挙げた。

 どれも、日常のほんのちょっとした心構えで実現可能な方法である。が、それ故に、常にこれらのことに心を配り、生活するのはかなり難しい。

 だが、「子どものどんなワガママであってもかなえてあげるように努力する」「子どもがどれほど非常識な行動をしたとしても起こらず、努めて冷静に言い聞かせる」などといった「(あまり子どもの成長の役に立たない)無駄な忍耐と努力」をするぐらいならば、これら相互の信頼関係を強化する行動を選んだ方が、よほど合目的的ではないかと思われる。もし興味を抱かれたならば、ぜひともご自分の「意識改革」に挑戦していただきたい。


 つらつらと「子育てにとって有効な(一般的に有効だと思われる)方策」について述べてきたが、それら全てに共通して言えることは、ただ一つ。

 子どもを社会で自立して生きていける大人に育てようと思えば、まず保護者自身が――少なくとも子どもの前では――「自立した大人」となり、身をもってその姿を示すべきだ、ということである。

 いくらマニュアルに沿って「正しい」子育てを実施したところで、その実施している本人が「きちんとした大人としての姿」を子どもに示さなければ、まるで説得力がない。子どもが――特に小学校高学年以上の年齢に達した子どもが、そのような「しつけ/教育」を受け入れるはずがない。

 とはいえ、「子どもをきちんと育てよう」と奮い立つあまり、「非の打ち所がない立派な大人」を演じる必要はない。そんな四角四面で息苦しく、自らの欲望を殺して子どもに尽くす存在を、子どもが「自分の将来の姿」として憧れるはずがないからだ。

 自分なりの規準を持って社会の中で生活し、よいことはよい、悪いことは悪いと、子どもにもきちんと教え導いていく。そういった「大人」としての役割をこなしつつ、自身も「大人」の娯楽を見出し、それを楽しむ。だが、家族や寝食を忘れるほどにその楽しみに没入することなく、子どもに求められれば手ほどきする余裕を持つ。

 「おはよう」「ただいま」「いただきます」「ごちそうさま」「ありがとう」「ごめんなさい」等の挨拶をおろそかにせず、たとえ相手が子どもであっても、その話をきちんと聞く。

 つまりは、「自分が社会でどう生きているか」省みることはそっちのけで「子どもをきちんと育てよう」と躍起になるのではなく、「大人ってすごい」「大人って偉い」「大人って楽しそう」と子どもに思われることを目指し、生活するのである。

 それだけで、子どもがあなたを見る目もかなり変わり……大人になることを怖れなくなるはずだ。


 本編でも述べたが、子どもを自立した、一人前の大人に育て上げることは大変な苦労と忍耐、責任がともなう作業である。だが、同時にそれは、自らの遺伝子だけではなく、「生き様」までをもある程度継承してくれる者を世に送り出すという、喜びに満ちた行動でもある。ぜひ、子どもの日々の成長を楽しみつつ、優しく、そして時に厳しく子どもに(そして自分にも)接してほしい。

ご意見、ご感想等いただけましたら幸いです。個人的なご相談がございましたら、「メッセージ」か、あるいはfacebookの「石井浩史」までご連絡お願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。