身につけさせるべきことは多いが、そのための時間も手段も限られている①――保護者が「一人もしくは共働き」の場合
こうして「社会で生きて行くために必要なこと」を俯瞰してみると、思った以上にその範囲が広く、雑多であることに気づくことができるかと思う。。
そして、2022年より施行されている改正民法により、成人年齢は20歳から18歳へと引き下げられている。つまり、保護者の名の下に、子どもを「子ども」としてしつけられる期間が、2年間も短縮されてしまったのである。
「大人」として社会に溶け込み、生きていくために覚えなければならぬことは星の数ほどあり、そして、それらを覚えるために用意された「子どもの時間」――しつけ・教育を施すことの可能な時間は、かなり短い。
加えて、「子どもの時間」の間全てをしつけ・教育に使えるかというと――特にしつけのほとんどを保護者が施さなければならない現状においては――ほとんどの場合、そううまくはいかない。
十代前半~後半にかけて、子どもは第二次成長期を迎え、同時に、反抗期となるからだ。
保護者の皆さんはご自身が経験済みだからよくおわかりだろうが、この期間、子どもは――たとえどれほどそれが論理的でまっとうな忠告であろうと――大人、特に保護者のいうことに逆らい、刃向かい、無視するようになる。
友達同士の関係を重要視し、それ以外のあらゆる関係、社会的立場を無視して、やりたい放題の行動を取る場合も多い。
もちろん、この反抗期、やがて保護者の傘の下を離れて自立し、、自分一人で社会と対峙していくための準備行動として、必要な期間である。が、この期間、いくら子どものためを思い、しつけ・教育のためさまざまな社会常識を「理性的に言い聞かせよう」としても、子どもは基本、聞く耳を持たない。
そしてこの反抗期、子どもによって長短はあるが、普通は半年から一年以上、長い場合だと3年以上は続く。
その間の、しつけ・教育は、保護者側がよほど巧妙に立ち回るか――あるいは本気で人間として子どもに対峙しなければ――ただの意味のない繰り言となる。
もちろん、中には反抗期を全く経験せずに成長する子どももいる(昨今のしつけ・教育はこうした「物分かりのよい」子どもを育てることを主眼に置いているようにも思える)。だが、これはこれで、後々深甚な問題を引き起こすことが多い。先ほど述べたように、反抗期とは、保護者の庇護下を脱し、自力で生き抜いていくための「準備期間」ととらえることができる。それを経験しないまま成長するということは、社会で生き抜く自信と技術を自ら体得せず、覚悟も準備もできないまま、いきなり社会に放り出されることを意味する。
これについては第三章で詳しく述べるが、こういった子どもは、社会で出会う大人も、それまで自分の周囲にいた優しく、物分かりのいい大人達と全く同じく、自分に対して無限の忍耐力を発揮しつつ、自分のためを思い全てを取り計らってくれると思い込んでいる場合が多い。そんな子が、基本皆自分のためのみを考えている社会の中でなにを感じ、どのように行動するか、容易に想像できるのではないだろうか。
また、この反抗期と同じく、生まれてから3歳ぐらいまで期間にも、しつけ・教育を施すことは難しい(乳児保育に通っている子どもは別だが)。
この時期は、子どもと揺るぎない絆を築くために、愛情を注ぐこと、生存のための世話をしていくことに注力すべきである。その間、扱い方を知らなければ危険なものばかりが存在するこの世界との正しい接し方を教えるだけで精一杯。それ以外のしつけや教育をどれほど施したところで、さほど意味をなさない場合が多い。
ということで、保護者が子どもに対し、「社会の中で将来独立した大人として生きて行くための」しつけ・教育を施せる時期は、幼稚園入園から小学校高学年にいたるまでの10年ほどと、(あれば)反抗期を抜け出した後の数年のみということになる。
その10~12年ほどで、社会で生きて行くための基本ルールと、勉強・学習についての基本姿勢、人との付き合い方、自分で考えて問題を解決していく自主性、積極性、努力の大切さ等を全て身につけさせなければならないのである。
はっきり言うが、これは相当に難しいことだ。
なにしろ、時間がない。
過去の経済的に恵まれていた時代とは違い、日本の経済全体が停滞し、高齢化しているその負担を強いられている若い世代――子育て世帯のほとんどは、共働き必須、それも、両親ともにフルタイムで働かなくてはならない状況であろうと思われる。
つまり、「夫は外で働き、妻は家を守る」のが当然であった頃とは違い、ご両親共に忙しく、子どもと向き合う時間が減っている。まして、離婚や死別、その他さまざまな理由により、保護者が一人で子育てをしなければならない家庭は、共働き家庭に増して忙しい。
保護者はその忙しい合間を縫って、子どもに数多くのしつけ・教育を施さなければならないのだ。
それほど忙しく時間がないのであれば、それら子どものしつけの一部分だけでも「外注」することはできないのか。子どもの成育に全面的な責任を追う立場の保護者だけにしつけを任せるのではなく、例えば教師や講師、祖父母、親戚といった人たちや、政府のお役人がいうように地域の大人達に、しつけ・教育を部分的にでも担ってもらえないものか。そんなふうに考える方もいらっしゃるかもしれない。だが、これはほぼ不可能である。
まず、何度も言うが、学校等の教育機関によるしつけは一切当てにならない。教師・講師は一人で数多くの児童たちの世話をしなければならない上、きつい叱責や罰等を改正児童福祉法により一切禁止されてしまったため、いかなる意味でも「子どもに強制」することが不可能となった。その結果、教師・講師は子どもたちのご機嫌を伺いつつ、授業を授業として成立させること、どうにか最低限必要な知識のみを教えることだけで精一杯。それ以上のしつけ・教育はよほど優秀な教え手でも難しいのが現状である(第一章で述べたように、強い信頼関係を取り結んだプロ家庭教師ならば、ある程度のしつけは可能であるが、これはあくまで例外的なものである)。
その上、核家族化の進行、個人主義の浸透、家族間の話し合いの減少により、例えば祖父母や伯父伯母のような、保護者以外でしつけ・教育を担当できる人を頼る、というのも難しくなっている。
いや、うちの両親はきちんと子どもの面倒を見てくれている、というご家庭もあるかもしれないが、「きちんとした大人に成長させる」という明確な目標を持たず、ペット感覚で子どもをただかわいがり、甘やかすだけの祖父母であれば、子どもの成長にとって「百害あって一利なし」である。そのような方に世話を任せれば、「しつけのなっていない子ども」になる可能性がますます上がるばかりとなる。
まして、政府や地方自治体が言うような「地域全体で子育てを」などというスローガンなど夢のまた夢、単なる絵に描いた餅にしか過ぎない。
なにしろ、改正児童福祉法のせいで、少しでも「子どものためにならない」と見なされる行為をしでかそうものなら、即座に追放、逮捕されることとなってしまったのだ。
例えば、わざと道路に飛び出して遊んでいる子どもを見たとしても、許されるのは「そっとその行動を制止する」ことのみ。あわてるあまり、「やめろ、危ない!」などと子どもを怒鳴りつけたりすればもちろん、強く手を引っ張って引き戻しただけであっても、「精神的ショックを受けた」「腕を引っ張られて痛めた」などと子ども本人や保護者から訴えられれば、おそらく警察に事情聴取される羽目になる。
よかれと思ってしたことで、警察にしょっ引かれ、長く拘束され、下手をすれば逮捕されてしまう。自分とまるきり関係のない他人の子どもを救うために、一体誰が好き好んで、そんな危険な行為に手を出そうとするだろうか。
セルフディフェンスを考えれば、子どもがどれほど危険な真似をしていようと、どれほどむごいいじめの場面を目撃しようと、大人は見て見ぬふりをして通り過ぎるのが、現在の法制では正解なのである。
これが、子どもの周囲を取り巻く「大人達」の現状である。
結局、保護者は教育機関も、親類も、そして世間も頼らず、独力で、仕事の合間の時間をさらに削り、子どもに多大なしつけ・教育を施さなくてはならないことになる。
だが、ここでまたもや、改正児童福祉法が立ちはだかるのだ。
改正児童福祉法は、家庭内のしつけ・教育にも基本的に「冷静に教えさとす」という方法のみしか認めていない。子どもを出産し、さあこれから子育てだ、と思っている新米保護者の皆さんが手に取るであろう育児書、あるいは育児セミナーや政府交付の冊子などでも、「絶対子どもを叩いてはいけない」「怒鳴ったり、声を荒げたり、暴言を吐いたりしてはいけない」と何度もくどいほど聞かされる。結果、真面目で教育熱心な保護者であればあるほど、この「マニュアル」に忠実にしつけ・教育を行うようになる。
が、少しでも子育て経験のある方なら分かっていただけると思うが、この「冷静に、論理的に言い聞かせる」という教育法、やたらと時間を必要とするのである。
それも当然だ。
論理的に相手を説得しようとする場合、
「あなた(子ども)のした行為は、社会において禁じられている/あまり好意的には受け取られない行為である。というのも、この社会は基本的にこのような原則の下に動いており、あなたの行為はその原則に抵触するからである。あなたの周囲の人間が「迷惑行為である」と認識するであろうその行為をさらに続ければ、あなたは周囲の人間から排除され、社会的に不利益をこうむる可能性がかなり高くなる。よって、あなたは自分のやったことは社会的に許されない行為であると認識し、反省すると共に、今後そのような行為を無意識にでも行うことのないよう、注意して行動すべきである。」
と、最低限これぐらいの内容を含む言葉を、その時その時の子どもの年齢にふさわしい言葉に置き換え、説明してやる必要があるからだ。
子どもと接する時間がただでさえ減っている中、子どもに社会の中で生きて行くにふさわしくないことを行うたび、これだけの時間をかけて言い聞かせなければならないのである。
その上、一度しっかり言い聞かせたのだから、これで子どもはしっかり心から反省し、同じ過ちを二度とくり返さなくなるかというと、なかなかそうはいかない。
などというと、「子どもは生まれつきいい子ばかりだ」などと信じている理想主義者たちから「人間なんだから、きちんと話せば分かる」「言葉を尽くし、心を尽くして説明すれば、絶対にその気持ちは通じる」などといった反論が山ほど帰ってくるに違いない。
だが、よく考えてほしい。理想と現実は違うのだ。
もちろん中には、一度言い聞かせただけで、保護者のいうことを理解・納得し、二度と同じことをくり返さないようになる「素直で聞き分けのいい」子どももいる。だが、子どものほとんどは、いくら言葉を尽くし、気持ちを込めたところで、同じことをしでかす。特に、その行動が子どもにとって魅力的で、興味をひきつけるものである場合、何度も何度もくり返しくり返し、同じことを言い聞かせても、多くの子どもは全く懲りることなく、保護者の隙を見つけては、その「甘美で魅力的なアソビ」を繰り返し行う。
なぜ、こうなってしまうのか。つまり、どうして何度も何度も叱ったにもかかわらず、子どもは懲りずに同じ行動をくり返すのか。
その理由は簡単。子どもを叱る際、「理性的に言い聞かせる」というたったひとつの手段だけをバカ正直に使うだけでは、早晩子どもは慣れてしまい、小言を聞き流すようになるからである。
「ちょっとそこに座りなさい」から始まる、保護者の「最高水準の叱責」であっても、それが何度もくり返されれば、子どもはうんざりした思いを抱くばかりとなる。そして「ああ、また始まった。面倒だなあ。今度はなにを言うつもりなんだろ。まあいいや、適当にうなだれてうんうんうなずいてりゃ、そのうち終わるし」などと思いながら、保護者の思いや必死の訴えをただただ聞き流す。はじめのうちは確かに心に響いていた叱責は単なる雑音と化し、罪悪感をかき立てていたはずの涙や号泣も、繰り返し使えば「安っぽいパフォーマンスだ」としか感じなくなる。もちろん、叱られている最中は神妙な表情こそ浮かべているが、その心の内では好きなテレビの今週の内容や今日学校であった楽しいあれこれについてぼんやり反芻することに費やし、叱責が終われば、「なにについての叱責だったか」さえきれいさっぱり忘れ去り、テレビやゲーム、ネットにかじりつく。
そして、数日後には同じ過ちを同じようにくり返すことになるのだ。
さらに悪いことに、人間には「冒険心」という、充実した生を生きるのに絶対必要だが、その反面、厄介きわまりないものがある。
保護者に叱責されるような「悪いこと」は、たいがい刺激やスリルに満ちた、楽しいものである。そして、それらの娯楽は、保護者に禁止されることをあえて行うというワクワクした気持ちが加わることで、より刺激的で、おもしろいものと化す。この効果により、子どもは叱られれば叱られるほど、よりそれらの「禁止事項」に抵触する行動を、あえて行おうとする場合すら生じるのである。
「きちんと話せば分かる」という理想は、確かに美しい。だが、現実はそれが通用するほど単純な世界ではない。保護者の言う理屈をふむふむと頭にしまい込む「理解」と、骨身にしみて自分がどれほどバカな真似をしでかしたかと思い、二度とくり返すまいと心に刻む「納得」は、全く違う心の動きなのである。
「しつけ・教育」は、当然この後者、本人の心からの「納得」あってこそ、効力を発揮する。だが、人生経験が浅く、なにごとも自分の浅薄で近視眼的な思考で理解しがちな子どもは、今現在、直接自分の利害に関わらぬ「しつけ・教育」の多くは、心に響かない。それらの禁止事項を子どもに植えつけようと思えば、「それをしたら、今現在ここにいる自分がひどい目にあう」ということを身をもって理解させるのがもっとも効率的かつ効果的な手段となる。どれほど懲りない子どもであっても、身が縮むほどの大声で怒鳴りつけられたり、ゲンコツを落とされたりなどといった「自分に対する直接の不利益」には敏感に反応し、それらの罰が厳しければ厳しいほど、注意深くそれらを避けようとするからである。
ところが、最初に述べたように、これらの行為は家庭内の「しつけ・教育」であっても「虐待」であるとして、法的に禁じられてしまっているのである。
その結果、保護者はさして効果の上がらぬ方法であると分かっていながら、理性的に言い聞かせることのみに頼らざるを得ず、いくら言い聞かせても同じことをくり返す子どもに失望し、悩み、イライラしながら、なおもこれにすがろうとする――すがらざるを得ない。。
そして、いつしか、社会に生きていくためのさまざまなルールを一渡り教え込むことを諦め、「これだけは絶対に守らせなければ」という禁止事項のみに限って、くり返しくり返し子どもに教えさとすことになる。
その結果、子どもは社会で生きて行くのに必要な知識のうち、ほんのわずかな部分を手に入れただけの状況で、学校や社会の中に放り込まれることになる。
そして、これは見落とされがちなことだが、これらの「これだけは絶対に守らせたい」というルール――すなわち「社会常識」は、保護者それぞれの生育歴や生活環境、属する地域社会の文化等により、千差万別である。ところが子どもは、「それだけしか教えられない」がため、その「特化した社会常識」こそ、この社会全体に通用する「生き方マニュアル」であると思い込み、それ以外のルールに従う必要などまるで感じないばかりか、自分の「常識」以外に社会的ルールが存在することなど頭から考えもしない状態のまま、成長していくことになるのである。




