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第一部 灰の記憶 6 遠い辺境

記録を読むエリゼーには、紙に書き残せない故郷の匂いや音があった。

挿絵(By みてみん)

幼いころの土地には、季節の変わり目を知らせる特別な音や匂いがあった。


遠くの山に雲がかかる朝、風が痩せた草を一斉に薙ぎ倒していく。


乾いた地面に最初の雨粒が落ちると、家々の戸が次々に閉まり、代わりに器が水を受ける音がした。


エリゼーが育ったのは、豊かな村ではなかった。

畑の土は薄く、冬を越すための薪も早くから蓄えなければならない。

物が足りない日には、何が無いかを数えるより、あるものをどう分けるかを考えた。


幼い彼女は、その工夫を当たり前のものとして覚えた。


一つの器に残った穀物で、何人が腹を満たせるか。

濡れた上着をどこへ掛ければ早く乾くか。

破れた袋を繕うとき、どの糸から先に使うか。


祈りは、そうした暮らしのそばにあった。


仕事へ出る前に短く唱える人もいれば、夜、眠る前に手を合わせる人もいる。


神の名を口にしないまま、パンを分ける人もいた。


どれが正しいのか、大人たちは必ずしも同じ答えを持っていなかった。


畑の端には低い木が並んでいた。

雨の後だけ緑が濃くなり、乾いた風が吹く季節には細い葉が丸まる。


子どもたちはそこを隠れ場所にした。

木の間を抜けていくと、ほんの少し遠くまで景色が見える。

家々が小さくなり、煙が屋根の上で横へ流れる。


自分の暮らす村が世界のすべてではないと初めて知ったのは、あの小さな高みからだったのかもしれない。


村から少し離れると、土地は別の顔を見せた。

道の脇には、使われなくなった囲いが残り、境を示す石がところどころに立っていた。


石には長い年月の風雨が刻まれている。

ただの石なのに、大人たちはその前で声を低くした。


エリゼーには不思議だった。

道はこちらから向こうへ続いている。


空も途切れていない。

それなのに、石の向こうへ行ってはいけないという。


「どうして」

と尋ねると、大人は言葉を選んだ。


「向こうには、違う人たちがいるから」


違う人たち。


その違いが何なのか、幼いエリゼーには分からなかった。


顔も手も同じように見えたし、遠くを歩く人影は、こちらの村人と区別がつかなかった。


時おり、荷を運ぶ人が村を通った。


遠い土地のことを話す者もいたが、大人たちは子どもの前で話を止めることがあった。

止められたところにこそ大切なことがあるように思えて、彼女は余計に耳を澄ませた。


誰かが山から戻ると、家々の戸口で声を掛けられた。


何を見たか。道は通れるか。水は汲めるか。

その返事で翌日の仕事が変わる。


遠い場所で起きた出来事が自分の中にまで届くことを、エリゼーhs少しずつ知った。

まだ地図を描けなかったころから、地形や道の名前には暮らしの重さがあった。


争いについて最初に覚えたのは、勝ち負けではない。

食卓に、遅れて帰る人の器が置かれていたことだった。


誰かが戸口を見る。

誰かが、まだ暗くないから大丈夫だと言う。

それでも誰も器を片づけない。


ある夕方、家の外に人が集まり、低い声で道の先について話した。

エリゼーが近づくと、一人が優しく背を押して家へ戻した。


「ここにいて。何かあれば呼ぶから」


何か、とは何だろう。

分からないまま、彼女は竈の火のそばに座った。


湯気の立つ器を見つめていると、外のざわめきが一度だけ大きくなった。


それから

静かになった。


夜、外へ出ると空には星があった。


何も変わっていないように見えた。

だが、遠くの暗い斜面に、いつもとは違う小さな明かりがいくつか並んでいた。

家々の灯りではないことだけは、子どもの目にも分かった。


翌朝、村の大人たちはいつもより早く働き始めた。

畑を見に行く者、道を確かめる者、水を汲み置く者。

その間にも子どもたちは、空腹になり、遊びたくなり、眠たくなった。


エリゼーには、それが少し申し訳なかった。

大人たちが心配しているのに、自分は温かいものを食べれば嬉しくなる。

友だちが笑えば、いっしょに笑う。


争いのある土地で育つというのは、いつでも恐れていることではなかった。


怖さのすぐ隣に、何の変哲もない一日があった。

その一日が明日も続くと信じることで、村の人々は暮らしていた。


季節が巡るたび、村の人々は少しずつ違う仕事をした。

春には畑の端を直し、夏には水を分け、冬の前には屋根を確かめる。

エリゼーはその手伝いをしながら、大きな決断の連続ではなく、小さな判断を何度も重ねることが暮らしていく事なのだと身体で覚えた。


ずっと後になって、記録保管人となった彼女は、あの土地について書かれた報告を何度も読んだ。


そこには日付があり、人数があり、移動した方角が書かれていた。


けれども、雨を受ける器の音も、帰りを待つ夕食の匂いもない。


過去を思い出すたび、彼女はどちらが本当の故郷なのだろうと考える。


紙に残った故郷か。


自分の身体の中で、なお風が吹いている故郷か。


どちらも失いたくないと思う、その気持ちだけは、年月が過ぎても変わらなかった。

幼い日の記憶へ移ります。

故郷の戦いの場ではなく、そこで続いていた暮らしを描きます。

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