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第一部 灰の記憶 5 失われた名前

名の一部が欠けるだけで、そこに生きた人の姿が見えなくなることがある。


挿絵(By みてみん)

午後の閲覧を終えた書記が、困った顔で保管室へ戻ってきた。


「この名を、見ていただけますか」


差し出されたのは、古い救援記録の写しだった。

布袋の配分、食料の受け渡し、避難者の移動。


その間に、人名がいくつも並んでいる。

書記が指した一箇所だけ、字の下半分が欠けていた。


「写したときに消えたのかしら」

「私には、最初から無かったようにも見えます」


エリゼーは写しを机に置き、原本の所在を確かめた。


すぐに原本を開けばよい、と言われればその通りだった。

だが原本の頁は脆く、必要のない出し入れを重ねることはできない。


閲覧された記録と同じものを、別の場所に残された古い転記からも確認することにした。


二つの写しでは、姓に当たる部分の形がわずかに違っていた。

どちらかが誤っているのか、同じ名の別人なのか。


エリゼーには分からない。

けれども、字が欠けたままの写しだけが使われれば、その名前はやがて誰のものでもなくなってしまう。


「読みやすい方に合わせますか」

書記が尋ねた。


エリゼーは首を振った。


「読みやすさで決めてはいけないわ」

「でも、このままでは調べる人が困ります」


「そうね。だから違う形が二つあることを残しましょう。どちらか一つへ直してしまわないで」


書記は、紙の端に注記用の小さな欄を作った。


エリゼーはそこへ、確かめた資料の位置だけを記した。

正しい名を知っている者がどこかにいるかもしれない。

いないかもしれない。


知らないことを、知っているふりで覆わずに残す。

今できるのは、そこまでだった。


古い帳面を運び戻す途中、エリゼーは棚の一段を手で支えた。


木材がわずかに沈み、重さが掌へ伝わった。

いま自分が持っているのは紙の束だ。

けれども、そこに収められた時間はそのまま重さとして量ることはできない。


ひとつの姓を残すために、何人の手が働いたのか。

書いた者、運んだ者、束ねた者、火や雨から守った者。


その誰か一人が欠けていたら、いま机にある文字も残らなかったのかもしれなかった。


書記が去った後も、その文字が気になった。


名を失うとは、どういうことだろう。


幼いころ、村では多くの人を顔で呼んだ。

畑の隣の家に住む者。

いつも薪を束ねて運ぶ者。

冬に咳をする者。

名前を知らなくても、暮らしの中には居場所があった。


けれども争いが始まり、人々が離れて暮らすようになると、どこに誰がいるのかを言葉で残さなければならなくなった。


そのころの記憶には、呼びかけても返事のなかった人がいる。

それが誰だったのか、年月が経つにつれて曖昧になった。

声の調子だけが残り、顔は何度思い出しても定まらない。


忘れてしまうのは、人間の弱さだ。

だからこそ、紙に頼る。

彼女はそう考えてきた。

だが紙もまた、人の手を離れれば破れ、濡れ、誤って写される。


昼過ぎ、救援の記録を閲覧していた人が再び窓口に姿を見せた。


探していたのは遠い昔の親族に当たる人物だという。

書記が欠けた名について説明する。


その人は「そうですか」と答え、長く黙った。

大きな失望を表すことも、怒りを向けることもなかった。


エリゼーは席を立ち、窓口へ出た。


「すぐには正しい綴りを確定できません」

相手は頷いた。


「残っているだけで、ありがたいと思わなければいけないのかもしれませんね」


エリゼーはその言葉に返事ができなかった。

ありがたく思うべきだと、誰が決められるのだろう。


名前を知りたいと思った人が、正しく書かれた一行を求めるのは、ごく自然なことだった。


「調べた場所は残してあります。次に確認するとき、そこから続けられます」

彼女はそう伝えた。


できないことを、できると約束しないために。

それでも、まだ終わっていないと伝えるために。


帰り際、その人は一度振り返った。


「次に来るときも、ここで尋ねればよいのでしょうか」

エリゼーは答えた。


「はい。こちらに調べた経過を残しております」


「何年も探しているんです」

「そうでしたか」


その人は少し笑い、礼を言った。


探している年月に比べれば、今交わした言葉などわずかなものだった。

それでも、その声はエリゼーの胸に長く留まった。


相手が帰った後、窓口には柔らかな日差しが残った。


書記がそっと言った。

「一文字だけなのに、大きいですね」


「そうね」


彼女は机に戻り、欠けた文字の上へ目を落とした。


先ほどまで、形の整わない墨の跡に見えていたものが、もうそうは見えなかった。


その名前を待っている人がいる。


たとえいつの日か誰も待たなくなっても、その人が確かに生きたことまで消えるわけではない。


いつか、自分がいなくなった後にもこの書類を開く人がいるだろう。

その人は今日の迷いを知らない。

欠けた文字を見て別の読み方を思いつくかもしれない。

彼女は、その可能性を自分の手で閉じたくはなかった。


記録が守れるのは、過去のすべてではない。

ただ、残ることのできた小さな断片だけだ。

彼女は指で紙の縁を揃え、注意深く箱の中へ戻した。

記録は人を救い直せません。

それでも、人がいたという事実を失わせないために、できる事があります。

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