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第二部 沈黙する記録 41 祈りの不発

祈りが届いたと記された帳面の隣にも、誰かの一日は残っている。

そこに書かれなかった祈りを、エリゼーは考え始める

挿絵(By みてみん)

 仮保管室の窓に、朝の光が細く差していた。

 屋根の修理が終わっても、帳面をすぐに戻すことはできない。乾いたように見える板の内側に湿り気が残っていないか、確かめる必要がある。


 エリゼーは指で棚の縁をなぞり、手袋のまま匂いを確かめた。


「今日は何から始めますか」

 若い書記が小さな台車を押してきた。


「帳面を戻す準備。それから、申請のあった礼拝所の記録を出しましょう」

「奇跡の記録ですか」


「いいえ。祈りの記録よ」

 書記は少し考えてから、頷いた。


 * * *


 礼拝所の記録には、祈りが行われた日と、立ち会った人の名が並んでいた。

 奇跡が起きた日の報告とは違い、結果についてはほとんど書かれていない。


 雨のために家から出られない人への祈り。

 戻らない親族の無事を願う祈り。

 治療を受ける前に、手を握って唱えられた祈り。


 エリゼーは何度か同じ頁を行き来した。


「どうしてこの帳面には、魔法が起きたかどうか書かれていないんでしょう」

 書記が尋ねた。


「祈りを捧げたこと自体が、この帳面に残したかったことだからかもしれないわ」

「では、魔法が起きなかった日は?」

「ここには……分からない」


 答えながら、エリゼーは少し恥ずかしくなった。

 これまで自分は、起きた奇跡を記したものを先に探してきた。何も起こらなかった日の祈りは、そもそも数えるべき出来事として考えていなかったのではないか。


 * * *


 昼前、礼拝所から申し出のあった女性が訪ねてきた。


 母親が亡くなる前に残した寄進の控えを確かめたいという。家族の名前が複雑に書き分けられているため、礼拝所で使った呼び名を確かめに来たのだった。

 エリゼーは閲覧できる写しを準備した。

 女性は頁をめくりながら、急に指を止めた。


「この日、母がここに来ています」

「お知り合いの方のお名前ですか」

「ええ。私も一緒でした」


 女性は帳面の余白に書かれた、小さな印を見ていた。


「母は、あのとき祈り手に何度もお願いしたんです。身体を楽にしてほしいと。でも、何も起きませんでした」

 エリゼーは次の言葉を待った。


「腹が立ったんですよ。祈り手にじゃなくて、母がまた謝ったことに。自分の信仰が足りないからだって」

 女性の声は、怒りを思い出しているというより、古い布を畳み直すように静かだった。


「母はね、礼拝所を出てからも怒らなかったんです。私ばかりが怒っていました」

 女性は笑おうとして、うまく笑えなかった。

「椅子に座っている間、ずっと、窓から通る人を見ていたんですよ。向こうで荷を運ぶ人が転んだら、母は立ち上がろうとした。自分の足だって痛いのに」


 エリゼーには、まだ会ったこともないその母親が、両手で椅子の縁を握る様子が見える気がした。

「人を気にかけることと、力があることは違うんですね」

「違うでしょうね。母は何も変えられなかったって言いましたけど、私は、あの人から受け取ったものがあるんです」


 女性は帳面を閉じずに、母の名の横へ目を落とした。


「だから、今日は名を探しに来ました。祈りが失敗した日のことも、母がそこにいたことも、なかったことにはしたくなくて」

「その方は、どうされましたか」

「椅子を持って来てくれました。母が座れるように。それから、帰るまで手を握っていてくれた」


 エリゼーは頁の印を見つめた。


 そこに座った椅子のことは、何も書かれていない。

「私はその祈りが無駄だったとは思いません。でも、効いたことにされるのは嫌なんです」


「ええ」

 エリゼーはようやく答えた。

「その違いは、残しておくべきことだと思います」


 女性に許可を得て、家族の申出があったという事実だけを閲覧の対応記録に残した。昔の礼拝所の原本へ、誰かの記憶を勝手に書き足すことはしなかった。


 * * *


 夕方、窓辺で手を温めながら、エリゼーは自分の掌を見た。

 幼い頃から、正しい言葉を口にしても何も起こらなかった手だった。

 祈りが叶わないことを、本人の欠けたものとして扱われる苦しみなら、少し分かる。


 しかし、自分が分かると言ってしまえば、先ほどの女性の母親の時間を奪う気もした。

 手のひらを返すと、爪の下に今日の帳面の黒い粉が残っていた。


 昔の自分は、魔法を使える人の手を何度も見た。指先に特別な印があるのか、掌の線が自分と違うのか、子どもなりに必死で比べた。

 大人になってからは、そんなことをしなくなった。


 今日、母親の話をした女性は、奇跡よりも椅子のことを覚えていた。

 エリゼーはその記憶を、安易に「奇跡より尊い」と呼びたくなかった。椅子でも癒えない痛みがあったことも、事実だったからだ。


 彼女は小さな紙に、これまでの調査とは別の見出しを書いた。

 ――結果が記されていない祈り。


 そこへ数字を入れようとはしなかった。

 祈りの数が分かったとしても、願った人の夜の長さまでは分からない。


 灯りを消す前に、彼女は礼拝所の帳面をそっと閉じた。

 閉じた頁の中にも、誰かが待ち続けた時間があった。

祈りの不発を、信仰の不足や奇跡の反証として片づけません。

残った言葉と、残らなかった行いの双方を描きます。

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