第二部 沈黙する記録 39 消してはならない
夜半の雨が、保管室の天井から一滴だけ落ちた。
一滴では終わらないと分かったとき、エリゼーは誰かを頼る。
雨が強まったのは、夜半だった。
エリゼーが異変に気づいたのは、朝、保管室の鍵を開けたときである。
床の石に、暗い点があった。
靴の底から落ちた水ではない。
棚の前まで続く細い跡を、彼女は見つけた。
顔を上げる。
天井の継ぎ目から、わずかに水が滲んでいた。
そして、もう一滴が落ちた。
紙の上ではなく、棚板の端へ。
それだけで、十分だった。
エリゼーはその場の扉を閉め、近くの書記を呼んだ。
「濡れたものを勝手に動かさないで。まず台と乾いた布をお願いします」
自分も走りたい気持ちを抑え、棚の位置を確かめる。
水が落ちたすぐ下には、古い地誌と救済記録が並んでいた。
いずれも、別の場所へ移すには受け渡しの記録が必要なものだ。
守るためであっても、手順を失ってはならない。
* * *
書記が戻り、修繕係を呼んだ。
二人で棚の手前に受け皿を置き、湿った空気が溜まらないよう扉を開ける。
濡れたのは棚の外側だけだった。
幸い、帳面の表紙までは水が届いていない。
しかし、一冊ずつ確かめる必要がある。
書記が言った。
「全部、ここから出しましょうか」
エリゼーは首を振りかけ、やめた。
普段なら守るべき位置が、今は危険な場所になっている。
「順番に出しましょう。所在と状態を書いて、乾いた部屋へ移す許可を取ります」
「許可が間に合いますか」
「緊急の移動として連絡する方法があるの。私一人ではなく、責任者に立ち会ってもらいます」
エリゼーは急いで必要な手続きを整えた。
修繕係が屋根へ回るころ、管理責任者が来た。
帳面を何冊移すかを共に確認し、仮の保管場所を定める。
書記は台帳へ移動時刻を書き、エリゼーは帳面の状態を記した。
重い本を持ち上げると、腕に痛みが走った。
書記が片側を支える。
「無理しないでください」
「ありがとう。次は二人で持ちましょう」
その言葉を口にするのに、以前ほど抵抗はなかった。
* * *
移動を終える少し前、一冊の底に小さな染みが見つかった。
書記が青ざめた。
「私が運ぶとき、濡らしたのでしょうか」
エリゼーは本を受け取らず、まず置いてある台の表面を確かめた。
「いつ付いた染みか分からないわ。いま誰かを責めても、本は乾かない」
管理責任者に状態を知らせ、修繕係の意見を聞いた。
染みはすでに乾いていて、今回の水漏れによるものかどうかは確かめられなかった。
そのため、仮の棚では他の本と離して置き、後日あらためて点検することになった。
「私のせいじゃないんでしょうか」
書記が小声で言った。
「分からない。けれども、あなたが気づいてくれたことは確かよ」
書記はしばらく黙っていた。
エリゼーも急いで慰める言葉を探さなかった。
責任を負うことと、証拠のない罪を負わせることは違う。
しばらくして書記が、「次からもっと気をつけます」と言った。
「私も」
エリゼーは答えた。
昼過ぎに雨脚が弱まった。
保管室の一部には、縄を張って人の出入りを止めた。
屋根の修繕が終わるまでは、元の棚へ戻せない。
書記は仮の棚に札を付け、順番を間違えないよう何度も確認していた。
「こんなことで、一日が終わってしまいますね」
疲れた声だった。
「こういうことをするための一日も、中にはあるのよ」
エリゼーは乾いた布を折り直した。
「何も読めなかった」
「失わずに済んだものはあるでしょう」
書記は棚を振り返り、しばらくして頷いた。
* * *
夕方、ジャック・ランスロが来た。
修繕係の話を聞き、濡れた場所へ近づかぬようにしながら様子を見に来た。
「大事なものは無事でしたか」
「いまのところは。けれども、数日かけて状態を確かめます」
「何か私にできることがあれば」
エリゼーは礼を言い、すぐに「大丈夫です」とは答えなかった。
「修繕中、廊下の通行を少し変えることになります。礼拝に来る人へ知らせてもらえますか」
「承知しました」
ジャックはそれだけ言って、作業の邪魔をせず去った。
エリゼーは背中を見送り、自分が人を頼ることを少し覚えたのだと思った。
* * *
帰り際、彼女は仮の棚を一列ずつ確かめた。
奇跡を記した帳面も、出生簿も、避難者の名簿も、乾いた布に包まれていた。
紙を救うための祈りがあれば、と願わなかったわけではない。
しかし今日、それらを守ったのは、屋根へ上がった修繕係と、重い本を運んだ書記と、移動を認めてくれた責任者の仕事だった。
彼女自身もその中にいた。
誰も奇跡を起こしたわけではない。
そのことを、少しも寂しいとは思わなかった。
保管室の元の棚は、まだ濡れたままだ。
けれども、名簿の名は消えずに済んだ。
彼女は灯りを落とし、仮保管室の鍵を掛けた
原本を守るための緊急移動です。恣意的な持ち出しや閲覧制限解除ではなく、複数人の立会いと記録を伴う措置として描きました。




