↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/199

第二部 沈黙する記録 33 畑の数字

収穫量を書いた帳面にも、食卓を囲んだ人の数だけ時間がある。

数字は何を示し、何を示せないのだろう。



 挿絵(By みてみん)

教会の中庭で、作業着の人々が小さな袋を分け合っていた。

 補修用の麻紐と、種を入れるための布袋だった。

 その一人が、脇へ退けた袋からこぼれた粒を拾っている。


 エリゼーが通りかかると、男は笑った。


「一粒なら、なくしても分からんでしょうがね」

「そう思って拾わなければ、いくつもなくなります」

 口にしてから、彼女は少し恥ずかしくなった。


 数えることが身についているせいで、どんな場面にも帳面の理屈を持ち込んでしまう。

 男は気にする様子もなく、粒を袋へ戻した。


「よく数えている人には、溢れた数がよく見えるんでしょう」

 彼女は答えられず、軽く頭を下げた。


 * * *


 その日の仕事には、収穫を記した古い帳面の写しが含まれていた。

 救済記録と同じ地域のものだ。

 畑ごとに作物の種類と受け渡した量が記され、一見すると何の変哲もない。

 けれども、ある期間の欄には収穫ではなく、種として残した量が細かく書き込まれていた。


 災いが起きてから人々が備えたのか。

 災いが来る前から、その年の畑は何かを恐れていたのか。


 エリゼーは問いを急がず、欄外に添えられた短い覚え書きを読んだ。

 誰の畑で、どれほど収穫したのかではなく、何人に分け、翌年のために何を残すのか。

 そこには、量と一緒に生き方の選択が記録されていた。


 若い書記が、机の上へ新しい保護紙を置いた。


「数が合いませんか?」

「合わないというより、数え方が違うのかもしれない」


「そんなことがあるんですか」

「食べるための穀物と、種のための穀物は、同じ重さでも同じ意味ではないでしょう」


 書記は手元の袋を見た。


「では、残した分は『足りなかった』とは限りませんね」

「そうね。それを確かめたかったの」


 今度は、自分が尋ねられたことに答えられたと思った。


 * * *


 昼食は、持ってきた固いパンと薄い汁だった。

 エリゼーは中庭の端で食べた。


 外仕事の人が水桶を運び、厨房の若者が熱い器を片付ける。

 人の口へ入るものは、帳面に記されるまでに多くの手を通る。

 彼女は自分のパンの半分を手で割った。


 正しく二つに分かれはしない。

 片方が大きくなり、もう片方が少しだけ小さくなる。

 誰かと分けるなら、どちらを渡しただろう。

 昔、エランが同じようにパンを割ったことがあった。


 彼は大きい方を彼女へ差し出した。


 エリゼーは平等にしようとさらに割り直したが、エランは困ったように笑った。


「君に食べてほしかったんだよ」


 その言葉を、当時の彼女はうまく受け取れなかった。

 正しい量に直すことと、人が何を望んだかを聞くことは、違う。

 紙の数字を前にしたときにも、同じ間違いをするのではないか。


 エリゼーは最後の一口を飲み込み、席を立った。


 * * *


 午後の作業を始める前、厨房の係が穀物の受け渡し票を持ってやってきた。

 表に記した量と、袋に残っている量が少し違うのだという。


 若い書記は帳面を開き、数を合わせようとした。


「少ない分は、どこかで使ったのでしょうか」

 厨房の係は首を振った。


「粉を挽くとき、どうしても袋の底に残るんです。全部が椀へ入るわけじゃない」


「でも、記録は同じ量になっています」

「入れた量を書いたからね。出来上がりを量ったわけじゃないよ」


 エリゼーは二人の会話を聞いていた。


 同じ穀物についての数字でも、袋に入れるとき、挽いた後、食卓へ出すときでは意味が変わる。

 彼女は書記に、受け渡し票の記入欄を確認するよう促した。

 間違いはなかった。

 違うものを数えていたのだ。

 厨房の係はほっと息を吐き、票を胸に抱えた。


「数字だけ見られると、怠けたと思われそうでね」

 エリゼーは首を振った。


「話を聞かないまま決めることはしません」

 その約束が自分へ向けた言葉でもあると、彼女は分かっていた。


 午後、彼女は帳面の末尾にある名前を一つ見つけた。

 収穫の受け渡しを確かめた者の名だった。

 そこには、帳面の中で唯一、数字の横へ短い言葉が添えてある。


『次の年まで残す』


 それは、奇跡を讃える文章ではない。

 誰かの希望を証明する文章でもない。

 生きて来年を迎えるための、ごく普通の仕事の記録だった。

 彼女はその欄に紙片を挟まず、所在だけを書き留めた。


 何度も同じ頁へ戻れば、折り目が傷む。

 写しがあり、そこに必要なことが読めるなら、原本へ触れる回数は少ない方がよい。


 保管人として身につけたその判断が、今日は妙に重く感じられた。

 人が残す種を決めたように、自分も次の人へ何を残すかを決めている。

 決めていることを、忘れてはならない。


 帰り際、中庭で出会った男がまた袋を抱えていた。

「落ちた粒は、全部見つかりましたか」


 エリゼーが訊くと、男は首を振った。

「全部かどうかは、誰にも分からん。ただ、拾った分は手の中にある」


 彼女は小さく笑った。

 見つからないものがあるからこそ、見つけたものを大事にする。


 その答えを帳面には書かなかったが、しばらく忘れられそうになかった。

数字が生活を奪うのではなく、数字だけでは生活を語りきれない。

その両方を、エリゼーは仕事の中で学び直します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。