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第二部 沈黙する記録 32 災厄より前に

奇跡があったとされる日と、人々が災いに気づいた日。

ふたつの記述は簡単には重ならなかった。

 挿絵(By みてみん)

朝の礼拝が終わるころ、廊下へ濡れた靴の音が近づいた。

 教会の裏手の道を使う運搬人が、修繕された帳面を届けに来たのだ。

 若い書記が受領印を押す間、エリゼーは脇に立ち、荷の状態を確かめた。


「この道は、昨夜ずいぶん水が出たそうですよ」

 運搬人が言った。


「この辺りでは大丈夫でした。でも、川寄りの石段は滑る」

 エリゼーは礼を言った。


 運搬人が去ってからも、その言葉が頭に残った。

 同じ夜の雨を知っていても、川に近い人と離れた人では、覚えている出来事が違う。

 災いの始まりという言葉も、そういうものなのかもしれなかった。


 * * *


 彼女は旧い文書の写しを三つ並べた。

 一つには、祈りによって町に救いが与えられたと書かれている。

 別の記録には、人々が川沿いの住まいから移動を始めた日が記されていた。

 さらに別の帳面では、危険を知らせるための鐘が鳴らされた時刻が、もっと遅く残されている。


 これだけなら、それぞれ別の出来事を記したにすぎない。

 けれども、救いを語る文書の言い回しには、災いの知らせを受けて祈りが始まったと読むほかない箇所があった。

 そこだけが、どうしても収まりにくい。


 救いの記載の方が、知らせの記載よりも前に置かれているからだ。

 彼女はそれぞれの紙に、出所の分かる符号を付けた。


 本文に直接触れないよう、別紙の上で順序を入れ替える。

 紙の端を揃えるたび、物語が違って見えた。


 誰かが先に危険を察していたのかもしれない。

 報告を後からまとめたため、日付の意味が違うのかもしれない。


 あるいは、別の町の出来事を、同じ名で呼んでいる可能性もある。

 彼女は考えられることを列記し、どれにも丸を付けなかった。


 * * *


 昼過ぎ、ジャック・ランスロが保管室の戸口に現れた。

 祈りを司る者として、彼は礼拝に必要な古い式文の所在を尋ねに来たのだった。


「いま少し、よろしいでしょうか」

「ええ。写しなら、すぐに確認できます」

 エリゼーは棚を示し、閲覧できる式文を台の上へ運んだ。


 ジャックは表紙を撫でるようには触れなかった。

 指先を紙の縁から離し、文字を目で追っている。


「このようなものを、よく長い間残してきましたね」

「残せなかったものも多いと思います」

「そうでしょうね」


 短い答えだった。

 彼女は思い切って訊いてみた。


「同じ祈りの記録でも、後から書かれた文章には、違う順序が残ることがありますか」


 ジャックは少し考えた。

「人は、自分が助かったと感じた瞬間を、災いの始まりより先に話すこともあるでしょう」

「その日の順序まで変わるでしょうか」

「書き手が何を『始まり』と呼ぶかによります。ただ、その答えは、私が決められることではない」


 その慎重な返事に、エリゼーはむしろ安堵した。

 ジャックは式文の写しを受け取り、署名を済ませた。


 書類の違いを教義で埋めることも、記録の違いだけで祈りを否定することもなかった。


 * * *


 帰り支度をしていると、書記が小さな紙束を持ってきた。

 鐘楼の見張り役が使っていた、時刻の目安を記した古い一覧だった。


「これなら、鐘の時間が分かるでしょうか」

「ありがとう。でも、まずこの一覧がいつのものか確かめましょう」


 書記は残念そうに肩を落とした。


「役に立たないですか」

「いいえ。とても役に立つわ。ただ、今すぐ答えを出せないだけ」


 エリゼーは紙束を受け取り、表の端へ書かれた修繕日を読んだ。

 記録が作られてから何度か、時刻の呼び方は変わっていたらしい。

 今の鐘が一度鳴る時刻を、そのまま昔に当てはめれば、間違いが起きるかもしれない。


 書記は口元を引き結んだ。


「ひとつ確かめると、もっと確かめることが増えますね」

「そういう仕事もあるのよ」


 エリゼーは言い、相手の落胆が消えるのを待った。

「でも、知らなかったことが一つ減った。鐘の呼び方が変わったかもしれない、と分かったでしょう」


 書記は少し顔を上げた。

 解けない謎があるのではなく、今日の仕事には今日の終わりがおとづれる。

 その考え方を、エリゼーも忘れがちだった。


 夕刻、彼女は川の方角へ歩いた。

 石段は、運搬人の言うとおり滑りやすかった。

 水面の高さは、見る場所によって違って見える。

 橋から眺める流れと、下の道から見上げる水際の線とは、同じ川でも別の顔をしている。


 エリゼーは立ち止まり、自分の足元の濡れた土を見る。

 古い記録の人々も、こんな地面を踏んだのだろうか。


 そのことまでは、紙には書かれていない。


 戻る道で、一人の子どもが桶を抱えて走っていった。

 母親らしい人が、転ぶよと声をかける。


 子どもは返事だけして、少しも速度を緩めなかった。

 災いの始まりは、後から振り返れば一つの日付になる。

 だが、その日の朝にも、桶を運ぶ子どもはいただろう。


 彼女は明日、文書の順序だけでなく、誰が何を見ていたかを、もう一度考えようと決めた。


 順序の違いが何かを示しているのかは分からない。

 分からないまま、次の仕事へ進むことはできた。

三種類の記載は異なる目的で作られています。

日付の矛盾は残りますが、その原因を一つに決める段階ではありません。



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