第六部「異なる岸の記録」 232 朝のほころび
ほんの少しのわだかまりを、解消するでもなく、何となく誘ってみた朝食
食堂へ向かう途中で、ジュリアはマレーナの背中を見つけた。
マレーナは階段の下で立ち止まり、袖口を折り返していた。
折っても端がひとつ浮くらしく、親指で押さえては離している。
「マレーナさん。一緒に朝食をどうですか」
彼女は振り向いた。
「ええ。お腹、空きましたね」
その返事に、ジュリアも自分が空腹だったことを思い出した。
昨夜あれほど言葉を選んで別れた相手から、朝いちばんに聞くのが食事の話でよかった。
アルシオン号が港を離れて三日目の朝だった。
食堂の窓から差す光が長卓を横切り、船の傾きにつれて腰掛けの縁を上り下りした。
二人は麦の粥とパンを受け取り、向かい合わせに座った。
マレーナがパンを割ると、折った袖がまた落ちてきた。
「さっきから、そこが気になって」
ジュリアが言うと、マレーナは手首を返して見せた。
縫い目が二つ抜け、折り返しの角が小さな口を開けていた。
「人に繕い物を任せてもらおうというのに、自分の袖がこれでしょう」
「私、自分の袖なら、そのまま気にせず着てしまいます」
「私も昨日はそうでした。自分の服は、着ているあいだは直せないし、脱いだころには眠いんです」
ジュリアは匙を口へ運びそこねて笑った。
マレーナもパンを持ったまま笑い、袖の角はそのままにして食べ始めた。
「ヴェリオスでは、どんなものを繕いたいんですか」
昨夜から聞きたかったことを尋ねると、マレーナは少し考えた。
「上着の内側の、物を入れるところ。色々と直すのが好きです」
「外からは見えないところですね」
「ええ。直したところを、持ち主がいちばん先に見つけてくれると嬉しいんです」
前に、小銭を落とすようになった上着を預かったことがあるという。
袋の底を新しい布で継ぎ、元より少し深くした。
これで安心だと思って返したところ、持ち主はその場で上着を着て、手を入れたり出したりした。
「小銭はもう落ちませんよって、私、先に言ってしまって。
そうしたら、小銭に届かなくなった、って」
「深すぎたんですか」
「指の関節が曲がりにくい方でした。
前の深さなら、底の銭を二本の指で挟めたんです」
マレーナは卓の上で人差し指と中指を揃えた。
それから、その二本の先でパン屑をひとつ拾った。
「もう一度ほどいて、その人の手を入れたまま、底にしたい位置を表からつまんでもらいました。
あれは、よく覚えています」
「二度目は、ちょうどよく?」
「ええ。帰りには、そこからお金を出して払ってくれましたから」
話しながら、マレーナはもう半分ほど朝食を済ませていた。
ジュリアの粥の表面には薄い膜が寄っていた。
「ジュリアさん、冷めますよ」
「ああ、ごめんなさい。聞いているのが楽しくて」
昨日なら、あの二本の指の動きを書き留めたくなっただろう。
今は自分の上着の内側へ手を入れてみたくなった。
指先に触れる底の深さを、これまで一度でも気にしたことがあっただろうか。
「昨日のお昼も、そんな話を?」
口に出てから、ジュリアは匙を置いた。
マレーナが片方の眉を少し上げた。
「ヘルマンさんとですか」
「ええ」
聞きたかったことの半分は、繕いの話だった。
残りの半分では、彼が自分より多くを聞いていたか。
答え合わせをしたがっていた。
親しくなれそうだと思った途端に、またこんな聞き方をしてしまう。
「上着の話は、今、ジュリアさんに聞かれて思い出しました」
マレーナはそう言って、器の縁についた粥を匙で集めた。
「ほかのことなら、ヘルマンさんから聞きたいですか?」
声に咎める響きはなかった。
それでジュリアは、はいとも、いいえとも、急いで言わずに済んだ。
「彼に聞きたいことはあります。
でも、今あなたに話してもらって嬉しかったのは、私です」
「私も嬉しかったです。どんな仕事をしたいかと聞かれて、上着の内袋が好きだなんて、初めて人に言いました」
卓の向こうで器を置く音がした。
ヘルマンが食堂に入ってきて、二人に気づいた。
手を挙げた彼にマレーナが会釈した。ジュリアも顔を上げた。
こちらに来てほしい気持ちと、もう少し二人でいたい気持ちが、一緒に動いた。
「おはよう。僕も朝食をもらってくるよ」
「おはよう、ヘルマン」
彼は二人の卓を通り過ぎ、配膳を待つ人の後ろについた。
その間に、ジュリアは残りの粥を食べた。
冷めかけてはいたが、まだ少し温かかった。
マレーナが空いた器を重ねたとき、袖の角がまた浮いた。
今度は二人とも、同じところを見て笑った。
「朝食が済んだら、直します」
「繕うところ、見せてもらってもいいですか」
「私の部屋は散らかっていますよ」
「袖を見るのに、部屋まで片づけることはないでしょう」
「じゃあ、糸を選ぶのを手伝ってください。船窓のそばだと色がよく分かるから」
マレーナと一緒に船室へ行く。朝食のあとの、ほんの短い約束だった。
ジュリアは腰掛けから立ち、器を返しに行った。
入口ですれ違うヘルマンに「またあとで」と声をかけた。
どこへ行くのかとは尋ねられなかったが、
「マレーナの袖に合う糸を選びに」
と答えるつもりであった。




