1-8 大変結構な目標
「……父上って、まともだったんだな」
ぽつりと零すと、向かいに立つ家令が一度瞬いた。
「先代様にお聞かせしたかったお言葉でございますね」
「うるさい」
「生前に一度でも仰っていれば、さぞお喜びになったことでしょう」
「絶対言わねえよ。調子乗るだろ」
「その点につきましては同意いたします」
エルンストは顔を上げた。
さらりと先代侯爵をけなした男は、何食わぬ顔で立っている。
「……お前、父上の家令だった頃から時々そういうこと言ってたよな」
「記憶にございません」
「嘘つけ」
少しだけ、昔のことを思い出した。
父に叱られたあと、面白くない顔で庭を歩いていると、いつの間にか隣にいた男。父の命令には忠実なくせに、「先代様はあれで言葉が足りませんので」と本人のいないところでは平然と言っていた。
もっと昔。
まだ父に反抗するという発想すらなかった頃には、もっと当たり前にそばにいた。
「……母上も、あんな感じじゃなかったよな」
その言葉に、家令の表情が少し変わった。
ほんのわずかだった。
けれど、エルンストには分かった。
「奥様は、もっと素晴らしい方でございましたよ」
懐かしい言い方だった。
エルンストは目を細める。
「ルート。お前、それ言うの久しぶりだな」
家令――ルートヴィヒが、わずかに目を伏せた。
「そうでしょうか」
「昔は口癖みたいに言ってただろ。母上の話になるたびに」
「事実でございますので」
「それも言ってた」
エルンストは少し笑った。
四歳で亡くした母の記憶は、もうずいぶん薄い。
細い手。柔らかい声。寝台の上にいることが多かったこと。部屋へ入ると、こちらを見て笑ってくれたこと。
それから。
その傍らには、たいていルートヴィヒがいた。
エルンストが物心ついた頃には、すでに屋敷にいた。十歳も年上だったから、幼い自分にとってはほとんど大人だった。
父親が同じだということも知っていた。
だから一度、兄なのかと聞いたことがある。
――では、ルートは兄上なのか?
――いいえ。違いますよ、エルンスト様。
――でも、父上は同じだろう?
――それでも、私は兄上ではございません。
幼い自分には、その理屈がよく分からなかった。
――じゃあ、ルートはルート?
そう聞いたら、少し困ったように笑っていた。
――はい。それで結構でございます。
だから、それ以来ずっとルートだった。
成人しても。侯爵になっても。
人前では家令と当主として振る舞っていても、二人きりになれば時折、昔の呼び名がそのまま出る。
「お前、母上のこと好きだったもんな」
「……ええ」
珍しく、ルートヴィヒは否定しなかった。
「母上って呼んでいいって言われてたんだろ?」
「よく覚えていらっしゃいますね」
「なんとなく。お前、結局一回も呼ばなかったけど」
ルートヴィヒは少し黙った。
その沈黙は、コーネリアの話を聞いていた時のものとは違った。
「私の母は、侯爵家に仕えていた使用人でございました」
「知ってる」
「私が五歳の頃に亡くなりました。行き場のなくなった私を、この屋敷へ引き取ってくださったのがエリーザベト様です」
エルンストも、話としては知っていた。
父が結婚する前に使用人との間にもうけた子供。
当初は認知もされず、母親と二人で暮らしていた。母親の死後、父の正妻であるエリーザベトが引き取った。
それだけなら、家の事情として何度か聞いている。
けれど、ルートヴィヒ本人の口から聞くことはほとんどなかった。
「本来なら、私をお嫌いになっても不思議ではなかったでしょう」
「結婚前だろ」
「五歳の子供にとって、その違いはあまり重要ではございません」
「……まあ、そうか」
「知らない屋敷へ連れてこられました。父親だと言われても、ほとんど会ったことのない方です。使用人たちからも、どのように扱えばよいのか分からないという空気は感じておりました」
五歳だった。
そう考えると、今まで聞いていた家の事情が、少し違って見えた。
「その中で、エリーザベト様だけは最初から私を子供として扱ってくださいました」
ルートヴィヒの声は穏やかだった。
「食事は足りているか。夜は眠れているか。寒くはないか。文字はどこまで読めるのか。何が好きなのか。……そのようなことを、よく尋ねてくださいました」
「母上らしいな」
おぼろげな記憶の中の母と、不思議なくらい一致した。
「身体がお弱い方でしたので、私と遊び回るようなことはできませんでしたが。よくお部屋へ呼んでくださいました。私が本を読むこともございました」
「お前が?」
「当時から読み書きくらいはできました」
「五歳で?」
「エルンスト様とは違いますので」
「おい」
ルートヴィヒの口元が、ごくわずかに緩んだ。
その顔を見て、エルンストもなんとなく笑った。
「……それで五年後に俺が生まれたんだよな」
「はい」
「嫌じゃなかった?」
聞いてから、少し遅れて、妙な質問だったと思った。
けれどルートヴィヒは笑わなかった。
「嬉しかったですよ」
即答だった。
「エリーザベト様は、長くお子に恵まれませんでしたから」
その言い方に、エルンストは少しだけ目を伏せた。
「私を引き取ってくださった頃にも、すでにお身体は丈夫ではありませんでした。それでもずっと、先代様とのお子を望んでおられました」
「……うん」
「ですから、あなたがお生まれになった時は、本当に嬉しかった」
ルートヴィヒはそう言ってから、ほんの少し目を細めた。
「とても小さかったですが」
「赤ん坊はみんな小さいだろ」
「よく泣いておられました」
「赤ん坊は泣くだろ」
「なかなか眠らず」
「それも普通だろ」
「抱いて歩かなければ泣き止まないので、夜中に廊下を何往復したことか」
エルンストは黙った。
「……お前が?」
「エリーザベト様は産後もお身体が優れませんでしたので」
「父上は?」
「三往復ほどで音を上げられました」
「父上……」
少しだけ、ヴィルヘルムへの評価を下方修正した。
ルートヴィヒが小さく息を漏らした。
笑ったのだと気づくまで、一瞬かかった。
「ですから、私にとってエルンスト様は――」
そこで、言葉が止まった。
「何」
「いえ」
「言えよ」
「エリーザベト様の、大切なご子息です」
「……弟じゃなくて?」
ルートヴィヒは答えなかった。
エルンストは少し眉を寄せた。
昔からそうだった。
父親が同じなのだから兄弟だろうと言っても、ルートヴィヒは決して「兄」とは名乗らなかった。
自分が子供の頃、「兄上」と呼んでみようとした時ですら、穏やかに否定された。
けれど。
剣の稽古で手を傷めれば薬を持ってきたのはルートだった。
父と喧嘩して夕食を抜いた時、夜中に厨房からパンを持ってきたのもルートだった。
十六の頃、父親と大喧嘩をして本気で屋敷から出ていきたいと言った時。
――では、少し出てみますか。
そう言ったのも、この男だった。
「……十分兄貴みたいなことしてるくせに」
思わず言うと、ルートヴィヒは涼しい顔をした。
「存じません」
「俺を町に連れ出したの誰だよ」
「若い方には適度な息抜きも必要かと」
「酒教えたのは?」
「いずれ覚えることですので、安全な場所で経験された方がよろしいでしょう」
「賭け事」
「金額の上限は決めておりました」
「父上に見つからない抜け道」
「非常時の避難経路をお教えしたまでです」
「よく家令になれたなお前」
「私もそう思います」
エルンストは吹き出した。
久しぶりだった。
父が死んでから。
自分が侯爵になってから。
こうして昔のように、ルートヴィヒとくだらない話をしたのは。
ひとしきり笑ってから、ふと机の上の紙へ目を落とした。
そこには、コーネリアの実家に仕えていた者たちの名前が並んでいる。
六歳の少女が熱を出しても訓練へ行った。
失敗すれば母親から無視された。
休みたいと言った記録は、一度もない。
「……母上だったら、あいつ見たら何て言うかな」
何気なく口にした。
ルートヴィヒも、紙へ視線を落とした。
「まず、食事をさせるでしょうね」
「だろうな」
「それから寝かせます」
「絶対そうだな」
「起きてきたら、もう一度食事をさせます」
「食わせすぎじゃね?」
「奥様は、細い子供を見るとすぐに何か食べさせようとなさる方でしたので」
エルンストは笑いかけた。
けれど。
途中で、少しだけ笑えなくなった。
「……ルートも、そうされたんだ」
ルートヴィヒがこちらを見る。
五歳で母親を亡くした。
父親から認知もされていなかった。
正妻の屋敷へ引き取られた、使用人の子供。
何の役にも立たなかっただろう。
跡取りでもなかった。
むしろ普通なら、いるだけで面倒な立場だったはずだ。
それでもエリーザベトは、その子供に食事をさせ、眠れているか尋ね、寒くないかと気にかけた。
「はい」
ルートヴィヒは静かに答えた。
「ですから申し上げたでしょう」
「何を」
「奥様は、素晴らしい方でした」
エルンストはしばらく黙って、それから小さく笑った。
「ほんと、昔からそればっかだな」
「事実でございますので」
その返事まで、昔と同じだった。
エルンストは椅子へ深くもたれた。
父は厳しかった。
母は早くに亡くなった。
決して、何もかも恵まれた家庭だったとは思わない。
それでも。
怒られても、翌朝には自分の椅子があった。
病気になれば寝かされた。
何もできない赤ん坊の頃から、自分を抱いて歩いてくれた人がいた。
そしてその人自身も、何もできない五歳の時に、母から居場所を与えられていた。
そんなことを、今まで考えたこともなかった。
当たり前だったからだ。
「……コーネリアには、それがなかったんだな」
ルートヴィヒは、すぐには答えなかった。
「少なくとも、我々が調べた範囲では」
「そっか」
だから。
病人なら追い出さない。
たったそれだけの言葉で、あれほど安心したのか。
エルンストは両手で顔を擦った。
「なあ、ルート」
「はい」
「これ、どこまで本人に聞いていいと思う?」
「少なくとも、今すぐ全てをお尋ねになることはお勧めいたしません」
「だよな」
「まずは奥様ご自身に、ここで休んでも問題がないと理解していただくことが先かと」
「それが一番難しくない?」
「旦那様のお働き次第でございます」
「俺?」
「旦那様以外の誰が、奥様をこの家から追い出さないと証明できるのでしょう」
エルンストは黙った。
それは。
そうなのだろう。
母親は死んだ。
父親は娘を手放した。
今、コーネリアが所属しているのはこの家だ。
その主人は自分だ。
「……責任重くね?」
「侯爵閣下でいらっしゃいますので」
「そっちじゃねえよ」
家令は答えなかった。
エルンストは椅子へ深くもたれた。
三日前。
腕の中へ落ちてきた身体を思い出す。
軽かった。
驚くほど。
それでも、あの身体で十八年間、立ち続けてきたらしい。
「……とりあえず」
エルンストは呟いた。
「もう怒鳴らないようにする」
家令がエルンストを見た。
「何だよ」
「大変結構な目標かと」
「お前、絶対無理だと思ってるだろ」
「そのようなことは」
「顔に書いてある」
家令は否定しなかった。
エルンストはため息をついた。
それから立ち上がる。
「コーネリアの様子見てくる」
「先ほど、夕食をある程度召し上がれたとのことです」
「へえ」
少しだけ気持ちが軽くなった。
「じゃあ、ちょっとは良くなったのか」
「はい。身体強化を使用せずとも、短時間でしたら起きていられるそうです」
三日前、自分が言ったことを思い出した。
――まずは魔術なしでも座ってられるくらいには身体戻せ。
「……ちゃんとやったんだ」
言ってから。
エルンストは微妙な顔になった。
これも「言われたからやった」だけなのではないか。
「……まあいいか」
今は。
寝た。
食べた。
少し回復した。
まずはそれでいい。
「行ってくる」
扉へ向かいながら、エルンストはもう一度だけ思った。
三日前までは。
少し変わった、可愛げのない女だと思っていた。
今はもう、そんなふうには見えなかった。
だからといって。
何に見えるのかと聞かれても、まだ答えられない。
ただ。
思っていたよりずっと小さくて。
思っていたよりずっと若くて。
思っていたより、はるかに酷いところから一人でここへ来た。
それだけは、もう分かっていた。




