1-7 今は休んでいい
「病人を、具合悪くなったからって追い出すような奴じゃないから」
その言葉を、コーネリアは何度も思い出した。
眠りに落ちる前にも。
夜中に目を覚ました時にも。
朝になって、今日も身体が思うように動かないと分かった時にも。
具合が悪い間は、大丈夫。
少なくとも、今はここにいていい。
ならば、今は休んでいい。
そう考えると、眠ることができた。
初日は、ほとんど一日眠っていた。
時折目を覚まして水を飲み、薄いスープを数口飲んでは、また眠る。
身体強化を使いたくなることは何度もあった。
目が覚めるたび、身体が鉛のように重い。頭は痛い。少し身体を起こすだけで吐き気がする。
これでは何もできない。
そう思うと胸の奥がざわついた。
けれど。
――病人を、具合悪くなったからって追い出すような奴じゃない。
「……大丈夫」
小さく呟く。
今は病人だから。
だから、休んでいていい。
早く治ればいい。
治るために休むのだから、これは必要なことだ。
そう理由をつけると、目を閉じることができた。
二日目には、少しだけ起きている時間が増えた。
朝、侍女に身体を支えてもらって寝台の上へ起き上がり、柔らかく煮た穀物を数口食べた。
昼にはスープを半分ほど飲んだ。
夜には白身魚をほぐしたものも少し食べた。
「もう少しいただきます」
「無理をなさらなくてもよろしいのですよ」
「いえ」
コーネリアは皿を見た。
「早く、戻さなければなりませんので」
侍女が何か言いかけた。
けれど、結局は「ゆっくりお召し上がりくださいませ」とだけ言った。
その頃。
エルンストは自室で、家令から一枚の紙を受け取っていた。
「……何これ」
「奥様のご実家に勤めていた者の一覧でございます」
「こんなにいるのか」
「公爵家でございますので」
すでに辞めた者。
領地へ移った者。
結婚して別家へ移った者。
家格の高い家では使用人が多いのは当然だが、思ったよりも大勢の名前が並んでいる。
「話聞けそうなのは?」
「数名おります。特に、奥様が幼少の頃に勤めていた侍女が一人。それから、騎士団に所属していた者が二名」
「呼べる?」
「すでに手配しております」
エルンストは顔を上げた。
「早いな」
「旦那様がお調べになると仰いましたので」
「……助かる」
調べようと言い出したのはエルンストだった。
あの日。
魔術を切った途端、まともに座っていられなくなったコーネリアを見た。
休めと言えば怯える。
何もしなくていいと言えば、さらに不安そうになる。
追い出さないと繰り返し言って、ようやくほんの少しだけ力が抜けた。
どう考えてもおかしい。
母親を亡くしたばかりの十八歳の娘が、知らない家へ嫁いできて緊張している。
それだけでは説明がつかなかった。
「家庭環境、もう少し調べよう」
そう家令に言った。
その時は、せいぜい夫婦仲が悪かったとか、母親が厳しかったとか、その程度を想像していた。
二日目の午後。
最初に話を聞いた元侍女は、最初なかなか口を開かなかった。
「もう奥様は亡くなっておりますし、旦那様も……」
「責任を問うためじゃない」
エルンストは言った。
「コーネリアが今、うちにいる」
元侍女が顔を上げた。
「今朝まで、具合悪いのを隠して魔術で無理やり動いてた。休めって言ったら、追い出されると思ったらしい」
相手の顔が変わった。
それだけで、嫌な予感がした。
「何か知ってる?」
長い沈黙のあと。
元侍女は、少しずつ話し始めた。
母親は、コーネリアを娘として扱うことがほとんどなかった。
亡き夫ではない。
まだ生きている夫を。
自分から離れていった夫を、娘の中に作ろうとしていた。
髪を短くした。
男児の服を着せた。
剣を持たせた。
騎士としての教育を受けさせた。
「それは報告書にもあった」
エルンストが言う。
元侍女は首を横に振った。
「そういう意味ではございません」
「……どういう意味?」
「奥様は、コーネリア様を……コルネリウス様と、お呼びになることがございました」
エルンストは黙った。
家令も何も言わなかった。
「……父親の名前だよな」
「はい」
「娘を?」
「はい」
話は続いた。
夫は丈夫だった。
だから熱を出す娘を責めた。
夫は強かった。
だから小さな身体で訓練についていけなければ責めた。
夫ならできた。
夫ならそんな失敗はしなかった。
夫はそんな弱音を吐かなかった。
コーネリアが何かをできるたび、母親は喜んだ。
父親に似ていると褒めた。
できなければ、失望した。
「もういい」と言った。
時には、そのまま何日も娘へ関心を向けなかった。
「……待て」
エルンストが止めた。
頭が痛くなってきた。
「それ、何歳くらいの話?」
「物心つかれた頃からでございます」
「物心って」
「私がお仕えした時には、コーネリア様は六歳でいらっしゃいました。その頃にはすでに」
「六歳」
思わず繰り返した。
今朝の姿が浮かぶ。
寝台の上で青ざめながら、「体調管理もお役目のうちと承知しております」と言った十八歳。
六歳。
全く結びつかなかった。
「……続けて」
聞かなければならない。
そう思った。
聞けば聞くほど、気分は悪くなった。
熱があっても、立てるなら訓練へ出た。
食欲がなくても、決められた食事は取ろうとした。
身体が小さいことを本人はひどく気にしていた。
騎士として男たちと同じ訓練をするため、幼い頃から身体強化を覚えた。
成長するにつれ、鎧を着ている間はほとんど常時使うようになった。
「……待て。だからあいつ、あれを普通だと思ってんのか」
元侍女は答えられなかった。
「身体強化を使えばできるなら、できることになる?」
「……おそらく」
「具合悪くても?」
「奥様は、コルネリウス様ならその程度では休まなかった、と」
「父親本人は?」
今度は、さらに沈黙が長かった。
「……ほとんど、お嬢様とは」
「関わってない?」
「はい」
エルンストは両手で顔を覆った。
何だそれ。
母親は夫を娘に求める。
当の父親は娘を見ない。
娘は存在しない父親の代わりになるために、身体に合わない騎士の訓練を続ける。
それで。
母親が死んだら。
「……父親に嫁に出された」
「はい」
頭の中で、嫌な形に全部が繋がった。
家令が静かに尋ねた。
「コーネリア様が失敗された際、奥様が『もういい』と仰ったとのことですが」
「はい」
「その後、具体的にはどのように?」
元侍女は少し躊躇した。
「お声をかけても、お返事をなさらなくなりました」
「どの程度?」
「長ければ、数日」
エルンストは顔を上げた。
「六歳の子供に?」
「……はい」
何も言えなかった。
その夜。
コーネリアの部屋では、侍女が温めたミルクを用意していた。
「ありがとうございます」
両手でカップを持つ。
今日は吐かなかった。
昼も少し食べられた。
夜も昨日より食べられた。
良くなっている。
それが嬉しかった。
「明日は、もう少しいただけると思います」
「焦らなくてよろしいのですよ」
「はい」
そう答えながら、コーネリアは思った。
早く治ろう。
旦那様は、病人なら追い出さないと言った。
ならば。
病人でなくなった後もここにいられるように、ちゃんとしなければならない。
まだ、そこまでは約束されていない。
だから今は休む。
休んで。
食べて。
早く元へ戻る。
そうすれば、また頑張れる。
三日目。
朝食の粥を半分ほど食べた。
吐き気はあったが、吐かなかった。
昼にはスープと柔らかいパン。
夜には、白身魚を少し。
一人前には遠い。
それでも三食、ある程度決まった量を食べられたのは、侯爵家へ来てから初めてだった。
熱も下がっている。
身体強化を使わなくても、枕へ背を預けていればしばらく座っていられる。
「……もう、大丈夫かもしれません」
コーネリアは少し嬉しくなった。
その頃。
エルンストは、二人目の証言を聞いていた。
今度は、公爵家の騎士だった。
コーネリアが十二歳の頃から訓練を見ていたという。
「強かったですよ」
男は言った。
「魔術の扱いは特に。身体強化も治癒も、あの年齢では見たことがないほどでした」
エルンストは少しだけ安心しかけた。
「じゃあ騎士として育てられたこと自体は、本人も――」
「ただ、身体は向いておりませんでした」
安心は一瞬で消えた。
「……どのくらい?」
「成人男性と同じ訓練をしておりましたので」
「なんで?」
「奥方様のご意向です」
「止めろよ」
思わず言った。
男が黙った。
エルンストも黙った。
今さらこの男一人を責めても仕方がない。
「……悪い。続けて」
鎧を着れば肩を痛めた。
剣を振り続ければ手首を痛めた。
装備を付けて走れば足を痛めた。
そのたびに治癒を使った。
治して、戻った。
また痛めた。
また治した。
「本人は?」
「やめるとは、一度も」
「そりゃそうだろ」
エルンストは低く言った。
やめたらどうなるのか。
もう知っている。
母親に失望される。
「……熱出してた時は?」
「身体強化を」
「もういい」
聞きたくなくなった。
だが、家令が止めなかった。
「もう一点、確認を」
エルンストは横目で睨んだ。
家令は平然としている。
「コーネリア様は、ご自身から休養を申し出ることはございましたか?」
騎士は考えた。
「……記憶にはございません」
「周囲から休むよう言われた際は?」
「奥方様の許可があれば」
「許可がなければ?」
沈黙。
それが答えだった。
男が帰ったあと。
エルンストは机に突っ伏した。
「……何なんだよ」
返事はない。
「俺さ」
顔を上げないまま言う。
「母親が厳しかったとか、夫婦仲悪くて娘に当たってたとか、そのくらいだと思ってた」
「私も、概ねそのように想定しておりました」
「全然違うじゃん」
「はい」
「五倍くらい酷いじゃん」
「数字にするものではございませんが、お気持ちは分かります」
エルンストは顔を上げた。
「じゃあ何であいつ、あんな普通なんだよ」
家令は答えなかった。
「普通に喋るし。仕事覚えるし。礼儀も覚えたし。怒りもしねえし」
そこまで言って、自分で気づいた。
「……だからか」
怒らないのではない。
怒るという選択肢を、自分に許していないのかもしれない。
休まないのではない。
休んでいいという発想がない。
具合が悪いのを隠したのではない。
動けるようにすれば、それで問題が解決したと思っていた。
そして。
「……俺が怒ると、あんな顔すんのも?」
「可能性は高いかと」
「俺、『もういい』って言った」
「仰っておられましたね」
「初めの頃」
「はい」
「何回か」
「存じております」
エルンストはまた机へ突っ伏した。
「最悪じゃん……」
家令は否定しなかった。
エルンストはしばらく机に突っ伏したまま動かなかった。
コーネリアの母親が娘に向けていたものを、愛情と呼んでいいのかは分からない。少なくとも、エルンストが知っている親子とはあまりにも違っていた。
自分も父親とはよく衝突した。
父のヴィルヘルムは厳しい男だった。声を荒らげることこそ少なかったが、一度叱られれば逃げ場がなく、剣の稽古で手を抜けばやり直し、勉学を怠れば遊びの予定など容赦なく取り上げられた。
十代の頃には、それが嫌で何度屋敷を抜け出したか分からない。
父親に反発して、口答えもした。扉を乱暴に閉めたこともある。顔も見たくないと思った夜だって、一度や二度ではない。
けれど。
翌朝になれば、朝食の席には自分の椅子があった。
熱を出せば医師を呼ばれた。訓練で怪我をすれば休めと言われた。叱られた翌日に顔を合わせても、父はいつも通り「昨日言ったことは終わったか」と聞いてきた。
できなかったからといって、息子でなくなったことは一度もない。




