1-9 もう少し、ここにいたい
三日目の夕食を、コーネリアは半分ほど食べることができた。
柔らかく煮た白身魚と、野菜をよく煮込んだスープ。小さなパンを半分。まだ普段の一人前には遠いらしいが、途中で吐き気に負けることなく、最後まで席についていられた。
食後の薬も飲んだ。熱もほとんど下がっている。身体強化を使わなくても、背中に枕があれば一人で座っていられる。
だから、もう大丈夫だと思った。
「明日から、少しずつ通常の予定へ戻したいと思います」
食器を下げていた侍女の手が止まった。
「奥様。明日もまだ、お休みの予定でございます」
「ですが、熱は下がりました」
「医師からは、まだ数日は無理をなさらないようにと」
「……そうですか」
コーネリアは頷いた。それ以上は言わなかった。
侍女が退出すると、静かになった部屋で膝の上へ視線を落とした。
三日。
三日も何もしていない。
朝起きて、食事をして、眠くなれば眠る。薬を飲んで、身体を拭いてもらって、また食べて、眠る。
最初の日は、それでもよかった。
具合が悪かったから。
旦那様は言った。病人を、具合が悪くなったからといって追い出すようなことはしない、と。
だから大丈夫だった。
二日目も、まだ身体は重かった。起き上がれば眩暈がした。食事も満足には取れなかった。
だから、まだ大丈夫。
けれど今日は。
熱は下がった。食事も半分食べられた。座っていられる。
――では、いつまで?
指先が冷えた。
早く戻らなければ。
まだ覚えていないことがたくさんある。侯爵夫人としての礼儀も、社交も、領地のことも、この家のことも。
失敗したこともある。何度も指摘された。旦那様にも不快な思いをさせた。
そのうえ、三日も寝込んだ。
ちゃんとしなければ。
今度こそ。
次は間違えないように。
そう考え始めると、胸の奥が速くなった。
明日の朝から何をすればいい。
まず起きて、身支度をして、食事をする。今日は半分食べられたのだから、明日はもう少し。
午前中は――。
考えているうちに、胃が縮んだ。先ほど食べたものが重くなる。
吐いてはいけない。
せっかく食べられるようになったのに。
ここでまた吐いたら、まだ病人ということになる。
それなら、まだ何もできなくても許される。
違う。
そんなことを考えてはいけない。
治らなければ。
治って。
ちゃんとしなければ。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせた。
三日前まで、ずっとそうしていた。
大丈夫。
できる。
明日はもっと上手くできる。
そう考えれば身体は動いた。
なのに今は、その言葉を繰り返すほど息が浅くなった。
その時、扉が叩かれた。
肩が跳ねた。
「コーネリア。俺だけど」
心臓が大きく鳴った。
旦那様。
反射的に背筋を伸ばす。
「はい。どうぞ」
声は出た。きちんと出たと思う。
扉が開き、エルンストが一人で入ってきた。
三日前と同じように、寝台の脇へ椅子を持ってくる。
それを見ただけで、指先がさらに冷たくなった。
話をするのだ。
三日前、そう言っていた。
――話はそれからだ。
身体を戻してから。
だから、今日なのだ。
コーネリアは膝の上で手を重ね直した。
「体調どう?」
「もう問題ありません」
エルンストの眉が寄った。
しまった。
何か違ったらしい。
「……熱は?」
「下がっております」
「飯は?」
「夕食は半分ほどいただきました」
「気持ち悪いのは?」
「少しありますが、先ほどの食事は戻しておりません」
エルンストはしばらくコーネリアを見た。
「それ、問題あるんじゃねえの?」
「ですが、昨日よりは良くなっております」
「まあ、それはそうか」
怒られなかった。
胸の奥が少し緩む。
けれど、エルンストは帰らない。
椅子へ腰を下ろしたまま、何か言いづらそうに頭を掻いている。
やはり、話があるのだ。
「旦那様」
「ん?」
先に言わなければ。
「このたびは、大変ご迷惑をおかけいたしました」
エルンストが露骨に嫌そうな顔をした。
胸が縮む。
「……申し訳ありません」
「いや、だから何で謝るんだよ」
声は大きくなかった。それでも身体が固くなる。
エルンストはそれに気づいたらしい。一度口を閉じた。
「……悪い」
「いえ」
「いや、今のは俺が悪い」
三日前にも聞いた言葉だった。
まだ、よく分からない。
旦那様が何かを言う。
自分が間違える。
それなのに、旦那様が謝る。
どう受け取ればいいのだろう。
「その」
エルンストは珍しく、言葉を選ぶように間を置いた。
「お前の実家のこと、少し調べた」
身体から、すっと熱が引いた。
母のこと。
父のこと。
何を。
どこまで。
「……はい」
「勝手に調べたのは悪かったと思ってる」
「いいえ。わたくしについて確認なさるのは、旦那様として当然のことかと」
「……そういうところなんだろうな」
聞き取れないほど小さく呟いて、エルンストは息を吐いた。
「別に、責めるようなことが出てきたわけじゃない」
顔を上げる。
「むしろ、今までお前が何でああだったのか、少し分かった」
ああだった。
それが何を指すのか分からず、コーネリアは黙っていた。
「具合悪くても身体強化使って、動けるようにして。怪我したら治して、また訓練に戻って。ずっとそうしてきたんだって?」
「はい」
「熱があっても?」
「必要でしたら」
「飯が食えなくても?」
「身体が動く程度でしたら」
エルンストが額を押さえた。
「……旦那様?」
「いや。これからは、具合悪い時にそれやって誤魔化すのはやめろ」
騎士として動くな、ということだろうか。
「承知しました」
「……何を?」
思わず瞬いた。
「何を、と申しますと」
「今、何をやめろって理解した?」
問われて、少し迷う。
「身体強化を用いて、無理に活動することを」
「具合悪い時はな」
「はい」
「普段使うなって言ってるわけじゃない。怪我したら治すなって意味でもない」
「はい」
「……本当に分かってる?」
「はい」
エルンストが何とも言えない顔をした。
何か言いかけて、やめる。
「……その話は、また今度でいい」
コーネリアは瞬いた。
終わり。
そう言われたわけではない。
ただ、今は話さなくていい。
それだけだった。
「昔、お前の母親がよく言ってたんだってな。『もういい』って」
呼吸が止まった。
「……はい」
「俺も言ったよな」
一番初めの日。
何度説明しても、何度謝っても、何を直せばいいのか分からなくなった頃。
――もういい。
「はい」
「あれ、出ていけって意味じゃなかった」
コーネリアは黙った。
「話を終わらせたかっただけ。腹は立ってたけど、それだけ」
「……はい」
「俺が怒ってても、お前が何か失敗してても、それでこの家から出ていけって意味にはならないから」
すぐには意味が分からなかった。
朝倒れた時にも、似たようなことを言われた。
病人だから。
具合が悪いから。
だから、その間はここにいていい。
そう理解した。
けれど。
「朝倒れたから追い出さないってだけじゃない」
まるで考えていたことを読んだように、エルンストが続けた。
「……病気でなくても、ですか?」
「当たり前だろ」
思ったより強い声が返ってきて、肩が揺れた。
エルンストが「あ」と口を閉じる。
「……悪い。怒ってない」
「はい」
「とにかく、病気じゃなくても追い出さない」
「……はい」
「仕事で失敗しても」
「はい」
「礼儀間違えても」
「……はい」
「騎士みたいな喋り方しても」
思わず顔を上げた。
エルンストは少しだけ笑っていた。
「最初の頃、何回かあったんだろ」
「……申し訳ありません」
「それも謝らなくていい」
「ですが、侯爵夫人として――」
「今すぐ完璧にできなくていいって話してんの」
言葉が止まった。
今すぐ。
完璧に。
できなくても。
「……よろしいのですか」
「俺だって侯爵として完璧なんて、到底言えねえよ」
エルンストはぶっきらぼうに言った。
「父上が死んで二年経ったけど、分かんねえことなんていくらでもある。間違えるし、ルートにも毎日のように何か言われてる」
「家令殿が、旦那様に?」
「言うよ。めちゃくちゃ言う」
少し意外だった。
家令はいつも落ち着いていて、旦那様の指示に従っているように見える。
「それでも俺は侯爵やってる」
「……はい」
「だから、お前だって最初から何もかもできる必要はないだろ」
コーネリアは答えなかった。
理屈は分かる。
けれど、自分も同じなのだろうか。
旦那様はこの家の当主だ。
多少間違えても、旦那様であることは変わらない。
自分は違う。
役に立つためにここへ来た。
今度こそ、求められたものにならなければならない。
それができなければ。
「お前さ」
エルンストが言った。
「ここにいたいんだろ?」
コーネリアは、答えようとして止まった。
何を尋ねられたのか、すぐには分からなかった。
ここにいられるか。
そうではない。
侯爵夫人として相応しいか。
それでもない。
ここに、いたいか。
そんなことを考えたことがなかった。
父に嫁げと言われた。
だから嫁いだ。
侯爵夫人になるのが、次の役目なのだと理解した。
母が亡くなって。
もう、父のようになることを求められなくなって。
代わりに与えられた役目なのだから、今度こそきちんと果たさなければならないと思った。
失敗してはいけない。
役に立たなければならない。
そればかり考えていた。
けれど。
ここにいたいか。
コーネリアは、初めて自分へ問い直した。
実家へ帰りたいとは思わなかった。
父のところへ戻りたいとも思わない。
戻ったところで、もう自分の役目はない。
では、それだけなのだろうか。
行くところがないから。
ここで役に立てなければ、次に何をすればいいのか分からないから。
だから、ここにいたいのか。
三日前のことを思い出した。
倒れた自分を寝台へ運んでくれた。
具合が悪いなら休めと言われた。
食べられなければ、食べられるものを用意してもらえた。
眠っても、次に目を覚ました時、まだ自分の部屋だった。
今日も侍女は、熱が下がった自分へ、もう少し休んでいいと言った。
旦那様は怒った。
それでも、また話をしに来た。
間違えた時には、自分が悪かったと言った。
食事を残しても、次の食事が出てきた。
自分が三日も何もできなかったのに、咎められる使用人がいた様子もなかった。
「……分かりません」
しばらく考えて、ようやく出たのは、そんな言葉だった。
エルンストが瞬いた。
「分かんない?」
「はい」
こんな答えではいけない気がした。
けれど、分からないものを分かると言うこともできなかった。
「考えたことが、ありませんでした」
「……そっか」
叱られなかった。
エルンストは少しだけ困った顔をしたものの、それ以上は何も言わずに待っている。
だからコーネリアは、もう少しだけ考えた。
ここにいたいか。
まだ、分からない。
ここが自分の場所なのかも分からない。
旦那様が何を望んでいるのかも、まだ上手く分からない。
それでも。
明日になったら、また食事が運ばれてくるのだろう。
侍女は熱を聞くだろう。
旦那様も、また来るかもしれない。
失敗しても。
具合が悪くても。
その次がある。
それは。
少しだけ。
「……もう少し」
声が小さくなった。
エルンストが待っている。
「もう少し、ここにいたいと……思います」
口にしてから、自分で驚いた。
誰かに命じられたことではなかった。
母が望んだことでもない。
父から与えられた役目でもない。
侯爵夫人として正しい答えなのかさえ分からない。
ただ。
もう少し、この家で。
明日の朝も、同じ部屋で目を覚ましてみたい。
「そうか」
エルンストは、それだけ言った。
良いとも悪いとも言わなかった。
けれど、少しだけ笑った。
「だったら、すぐ完璧にならなくていいだろ」
あまりにも簡単に言われた。
コーネリアは目を瞬いた。
「……よろしいのですか」
「いいよ」
「ですが、わたくしは旦那様の妻ですので」
「そうだな」
「侯爵夫人として、お役目を」
「やってもらうよ」
やはり。
そう思った瞬間。
「でも明日全部できるようになれとは言ってない」
続きが来た。
「分かんねえことは覚えればいいし、できないことは練習すればいい。俺だって間違えるんだから、お前だけ最初から全部できる必要ないだろ」
「……はい」
「何年かかるかなんて知らん」
「何年」
「俺だっていつ完璧な侯爵になれるか知らねえし」
「旦那様でも、ですか」
「お前、俺を何だと思ってんの?」
侯爵様。
そう答えかけて、やめた。
エルンストが頭を掻く。
「だから、まあ……ぼちぼちやれ」
「……ぼちぼち」
「一気に全部やろうとすんなってこと」
「はい」
「あと明日はまだ寝てろ」
「ですが」
「医者が言ってる」
「……はい」
反論できなかった。
医師の指示なら仕方がない。
「明後日は?」
「明日見て決める」
「その次は?」
「だから先の予定組むなよ」
少しだけ声が大きくなる。
身体が反応するより先に、エルンストが自分で気づいた。
「……怒ってない」
「はい」
「今のも怒ってない」
「はい」
「ほんとに」
「……はい」
少しだけ。
本当に少しだけ、おかしく思った。
笑うほどではなかった。
ただ、胸の奥に張りつめていたものが、ほんのわずかに緩んだ。
エルンストが立ち上がる。
「じゃ、今日は寝ろ」
「はい」
「飯食えたのは偉い」
コーネリアは顔を上げた。
褒められた。
何を。
食事をしたことを。
そんなことで。
「明日も食えるだけ食って、寝ろ。それがお前の仕事」
仕事。
その言葉なら分かった。
「……承知しました」
「うん」
エルンストが扉へ向かう。
「あの」
思わず呼び止めた。
振り返った。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
しばらく迷って。
「……ありがとうございます」
それだけ言った。
エルンストは一瞬、少し驚いた顔をした。
「おう」
そして出ていった。
部屋が静かになる。
コーネリアは枕へ身体を預けた。
まだ分からないことばかりだった。
本当に失敗してもいいのか。
どの程度までなら許されるのか。
いつまでに侯爵夫人としてきちんとできるようになればいいのか。
旦那様が怒った時、自分はどうすればいいのか。
もう少し、とは、どのくらいなのか。
考えれば、いくらでも不安は出てくる。
それでも。
ここにいたい。
自分がそんなことを考えた。
そのことの方が、不思議だった。
明日は休んでいい。
食事をして、眠っていい。
明後日のことは、明日決める。
少なくとも明日の朝、目を覚ました時にも、自分の部屋はここにある。
そして、それを。
少しだけ嬉しいと思っている。
それだけは、分かる気がした。
その夜も、コーネリアは一度、夜中に目を覚ました。
いつものように、胸がざわついている。
何かしなければ。
明日のために。
ちゃんとしなければ。
けれど。
――明日はまだ寝てろ。
思い出した。
――それがお前の仕事。
ならば。
眠ることは、何もしないことではない。
「……承知しました」
誰もいない暗い部屋で、小さく答えた。
目を閉じる。
いつもなら、そこから何時間も眠れない。
母の声や、父の顔。
今日失敗したこと。
明日失敗するかもしれないこと。
それらが次々と頭に浮かぶ。
けれど、その夜は。
明日しなければならないことが、一つしかなかった。
だからコーネリアは、もう一度眠った。
朝までにもう一度目を覚ましたが、それでも侯爵家へ来てから初めて。
眠った時間の方が、起きていた時間より長い夜になった。




