2-1 深夜の来訪者
それから一か月ほどかけて、コーネリアはゆっくりと元の生活へ戻っていった。
順調だった、とは言い難い。
少し良くなったとはいえ、最初の一週間は、そもそも一日の半分ほどしか起きていられなかった。朝食を摂って少し休み、午前中に一つだけ予定をこなせば昼食の頃には疲れている。午後に眠り、夕食を食べ、夜もまた眠る。
こんなに眠れるものなのかと、自分でも驚いた。
身体強化を切っていると、階段を上がるだけで息が切れる。重い扉を開ける時には両手を使うこともあった。
それを見つけたエルンストは、最初こそひどく難しい顔をした。
「……お前、今までこれ全部、魔術で誤魔化してたの?」
「誤魔化していたわけではありません。補助しておりました」
「同じじゃねえの?」
「違います」
そこだけは譲れずに答えると、なぜかエルンストが少し笑った。
結局、身体強化そのものを禁じられることはなくなった。
ドレスは騎士服より裾が長い。靴も違う。階段や長い廊下を歩く時、わずかに身体を補助した方がずっと楽だった。
「それくらいならいい」
エルンストは言った。
「でも朝起きてから寝るまでずっとはやめろ」
「必要がある場合は?」
「その時は使え」
「承知しました」
「あと、具合悪いのを感じなくするために感覚鈍化使うのもなし」
「……必要がある場合は?」
「何の必要があるんだよ」
それには答えられなかった。
二週目になると、食事もずいぶん戻った。
侯爵家へ来た頃より明らかに量が多い。
最初は食べ切れるとは思えなかった皿も、気づけばほとんど空になるようになった。
それでも侍女たちから見れば、同年代の令嬢より少し少ないらしい。
「もう少し召し上がりますか?」
と聞かれ、コーネリアは自分の腹具合を確かめた。
以前なら、出された量を基準にしていた。
食べるべきなら食べる。
食べられなければ、食べられるようにする。
だが最近は、侍女が何度も「無理に召し上がらなくてもよろしいのですよ」と言う。
だから少し考えて。
「……今日は、これで十分です」
そう答えてみた。
「かしこまりました」
それだけだった。
叱られなかった。
翌日の食事も、普通に用意された。
三週目には、日中の予定もほぼ通常に戻った。
まだ学ぶことは多い。
礼儀作法も、社交も、侯爵家の人間関係も、知らないことばかりだった。
間違えることもあった。
けれど、間違えた翌日にも同じ教師が来た。
昨日できなかったことを、もう一度教えてくれた。
それが少しずつ、不思議ではなくなっていった。
もちろん。
全部が上手くいったわけではない。
ある日の夕食前。
エルンストが書類を探していた。
「ここに置いといたやつ、知らない?」
「どの書類でしょうか」
「東部の街道整備の――ああ、もう! 何でねえんだよ!」
突然響いた大声に、身体が固まった。
自分へ向けられたものではない。
分かっている。
エルンストは机の上を探している。
自分を見てもいない。
それでも心臓が速くなった。
「コーネリア、そっちに――」
振り返ったエルンストと目が合った。
「……いや」
声が少し小さくなった。
「悪い。何でもない。俺が探す」
「はい」
その日の夕食は、半分ほどしか入らなかった。
吐きはしなかった。
けれど、いつもならもう少し食べられるはずの魚を残した。
夜も何度か目が覚めた。
眠るたび、何かを間違えたような気がした。
何だったのか考えようとして、目が冴える。
大丈夫。
自分に言い聞かせる。
怒られたわけではない。
それでも身体はなかなか納得しなかった。
翌朝。
食堂へ入ると、すでにエルンストがいた。
顔を見ると、少しだけ足が止まりそうになった。
それでもいつもの席へ向かう。
「おはようございます」
「おう。……あのさ」
椅子へ座る前に呼び止められた。
身体が強張った。
エルンストはそれを見て、眉間に皺を寄せた。
「昨日、悪かった」
思っていなかった言葉だった。
「……何がでしょうか」
「でかい声出しただろ」
「ですが、わたくしに向けられたものではありませんでした」
「そうだけど」
エルンストは少し困ったように頭を掻いた。
「びっくりしただろ」
答えに迷った。
「……少し」
「うん。悪かった」
それだけ言って、自分の席へ戻っていった。
コーネリアも座った。
目の前に朝食が置かれる。
温かいパンと卵料理。野菜のスープ。それに果物。
食べられるだろうかと思った。
一口食べる。
もう一口。
気づけば、いつもと同じだけ食べていた。
昨日の夜は、確かに怖かった。
食事も入らなかった。
眠れなかった。
それでも朝になった。
旦那様はまだいた。
自分もまだここにいた。
昨日のことを、旦那様の方から謝った。
その日も予定通り、教師が来た。
昼食も普通に用意された。
何もなくならなかった。
そんなことを、何度か繰り返した。
調子のいい日もあった。
少し頭痛がする日もあった。
食事が進まない日もあった。
エルンストが声を荒らげて、コーネリアが黙り込み、後になってエルンストが「悪かった」と言いに来ることもあった。
一度は、眠れない夜が二日続いた。
それでも三日目には眠れた。
一度食事を半分残しても、次の食事まで食べられなくなることはなくなった。
身体強化も、必要な時だけ使えるようになった。
朝、魔術をかける。
階段を下りる。
用事が終われば切る。
午後に疲れたら、少し座る。
そんなことができるようになった。
一か月が過ぎる頃には。
コーネリアは、ほとんど元気になっていた。
顔色も戻った。
食事もほぼ一人前取れる。
眠りはまだ浅い。
小さな音で目を覚ますことも多い。
けれど、一晩中眠れないことはなくなった。
日中はきちんと侯爵夫人として動ける。
必要なら身体強化も使う。
使わなくても生活できる。
以前なら当たり前だと思っていたことと。
今なら当たり前だと思えることは、今では少しだけ、違っていた。
その夜も、コーネリアはいつも通り寝台へ入った。
特に変わったことはなかった。
夕食も食べた。
入浴も済ませた。
翌日の予定を確認して、日付が変わる前には灯りを消した。
夜中に一度目を覚ました。
時計を見る。
まだ二時前だった。
水を少し飲み、もう一度横になる。
次に意識が浮かんだ時には、どれくらい時間が経っていたのか分からなかった。
深く眠ってはいなかった。
うとうとと、意識が沈んでは浮かぶ。
そんな浅い眠りの中で。
何か。
音がした気がした。
コーネリアは目を閉じたまま耳を澄ませた。
衣擦れ。
違う。
もっと小さい。
床板が、ごくわずかに軋む音。
眠気が引いた。
目を開ける。
暗闇の中。
寝台のすぐ脇に。
黒い人影が立っていた。
息を呑んだ。
考えるより先に、身体が動いた。
寝台の上で身をかわす。
直後。
鋭い熱が、右腕を走った。




