2-2 妻が襲われた夜
扉が叩かれた。
一度。
二度。
三度目には、ほとんど殴りつけるような音になった。
「旦那様! 旦那様!」
エルンストは飛び起きた。
何時だ。
そんなことを考えるより先に、声の調子でただ事ではないと分かった。
「何だ!」
寝台から降りながら答える。
扉が開いた。
飛び込んできたのは夜番の侍女だった。顔色を失い、息を切らしている。
「奥様が――奥様が襲われて!」
一瞬。
頭の中が真っ白になった。
「は?」
「寝室に不審者が――!」
最後まで聞かなかった。
壁際に置いてあった剣を掴む。
寝巻きのまま廊下へ飛び出した。
「護衛を起こせ! 家令も呼べ!」
叫びながら走る。
何があった。
不審者。
何人だ。
コーネリアは。
怪我は。
生きているのか。
ほんの一か月前。
腕の中へ崩れ落ちてきた身体が浮かんだ。
あの時ですら驚くほど軽かった。
ようやく食べられるようになった。
ようやく顔色が戻った。
まだ夜はよく眠れていないらしいが、それでも少しずつ良くなっている。
昨日だって普通に夕食を食べた。
なのに。
「コーネリア!」
扉を開け放った。
剣を抜く。
そして。
止まった。
「…………は?」
寝室は、ひどい有様だった。
寝台の天蓋は片側が外れかけている。
シーツは裂けている。
椅子が倒れている。
床には血が落ちていた。
そして、その真ん中。
白いネグリジェ姿のコーネリアが立っていた。
裸足だった。
いつもきちんとまとめられている淡い金髪は、寝起きのまま乱れている。
その足元に。
男が二人、転がっていた。
一人はうつ伏せ。
もう一人は横向き。
どちらもシーツを細長く裂いた布で、両手と両足をきっちり縛られている。
一人は意識があるらしく、低く呻いていた。
もう一人は動かない。
死んではいないようだった。
コーネリアが振り返った。
「旦那様」
「…………」
エルンストは剣を持ったまま、状況を理解しようとした。
「ご無事で何よりです」
「いや」
待て。
何だこれ。
「……お前がやったの?」
「はい」
「二人?」
「はい」
「一人で?」
「はい」
コーネリアは少し考えてから付け加えた。
「一名は短剣を所持しております。もう一名も、袖の内側に細い刃物を隠しておりました。そちらは取り上げて、机の上に置いてあります」
見れば、本当に二本並べて置いてある。
「……何でそんな冷静なんだよ」
「騎士でしたので」
「そうだけど!」
思わず声が大きくなった。
コーネリアの肩が跳ねる。
まずい。
そう思った。
だが。
その瞬間、別のものが目に入った。
右腕。
白いネグリジェの袖が、赤い。
肘の上から肩にかけて。
かなり広い範囲が、血に濡れていた。
床にも数滴。
寝台のシーツにも、赤い跡がある。
「お前、腕」
コーネリアが自分の右腕を見る。
「ああ、治癒致しましたので、問題ありません」
まるで今気づいたような反応だった。
その瞬間。
エルンストの頭に血が上った。
「何やってんだお前!!」
部屋中に声が響いた。
コーネリアの身体が、目に見えて固まった。
それでも止まらなかった。
「不審者二人もいる前に、一人で立ち向かう女がいるか!?」
「――」
「人を呼べよ! 逃げろ! 何でお前が捕まえてんだ!」
「……申し訳、ありません」
「怪我までして――!」
そこで。
コーネリアの顔を見た。
真っ白だった。
さっきまで。
少なくともエルンストが部屋へ入った時には、普通に立っていた。
少し息は上がっていたが、受け答えもはっきりしていた。
今は。
血の気が引いている。
視線が落ちている。
肩が小さく縮こまっていた。
「……申し訳ありません」
声まで小さくなった。
「わたくしが、間違えました」
違う。
エルンストの頭が急速に冷えた。
「いや」
「次からは――」
「待て」
「護衛を呼びます。ですから――」
「待てって」
一歩近づいた。
コーネリアがわずかに後ろへ下がった。
胸が痛んだ。
「……悪い」
「いいえ」
「いや、今のは俺が」
廊下から足音がした。
家令と護衛たちが駆け込んでくる。
「旦那様!」
「奥様!」
一気に人が増えた。
護衛たちも、床に転がる二人とコーネリアを見比べて固まる。
「……これは」
「コーネリアがやった」
エルンストが答える。
「お一人で?」
「らしい」
家令は一瞬だけ目を見開いた。
何か言いたそうだった。
だが、先に床の男たちへ視線を向ける。
「まずは侵入者を別室へ。身体を改め、武器、毒物その他を所持していないか確認を。意識のない者は生存を確認して拘束してください。後で尋問します」
護衛たちが動き出す。
「旦那様」
「ああ」
「剣を」
言われて初めて、自分がまだ抜き身の剣を握っていることに気づいた。
「あ」
鞘へ戻す。
「奥様」
家令がコーネリアを見る。
「お怪我を拝見しても?」
「すでに治癒しております」
「は?」
エルンストがまた声を上げた。
コーネリアがびくりとする。
今度はすぐに声を落とした。
「……本当に治ってるのか?」
「はい。深い傷ではありませんでしたので」
「じゃあ、その血は」
「傷を塞ぐ前に流れたものです」
「医者呼べ」
「ですが、もう傷は」
「呼べ」
コーネリアが口を閉じる。
エルンストも一度息を吸った。
怒鳴らない。
怒鳴らない。
「……治ってても、診てもらう。いいな?」
「……はい」
「あと着替えろ。そのままじゃ寒いだろ」
そこで初めて、コーネリアが自分の姿を見下ろした。
血に濡れた薄い寝間着。
裸足。
乱れた髪。
さすがに少し気まずそうな顔になった。
「……失礼いたしました」
「そこ謝るとこじゃねえよ」
また強くなりかけた声を、どうにか途中で抑えた。
家令がこちらを見ている。
何だ。
言いたいことがあるなら言え。
そんな気分になったが、今はやめた。
侍女たちも到着した。
コーネリアを任せる。
医師も呼ばせる。
侵入者は護衛へ引き渡す。
現場を保存させる。
窓と扉、侵入経路を確認させる。
やるべきことが次々と出てきた。
その間にも、コーネリアは何度か「わたくしも」と言いかけた。
全部止めた。
「お前は着替えて医者に診てもらえ」
「ですが、侵入者の――」
「後で聞く」
「わたくしが直接確認した方が」
「後で!」
また声が大きくなった。
コーネリアが黙る。
エルンストも黙った。
「……後で、聞くから」
言い直した。
「今は着替えて。頼む」
少し間があった。
「……承知しました」
今度はそれで、侍女についていった。
侵入者二人が運び出される。
医師がコーネリアの部屋へ入る。
護衛が窓を調べ始める。
やがて、エルンストは家令に半ば引きずられるようにして自室へ戻った。
時計を見れば、まだ三時を少し回ったところだった。
眠気など完全に消えていた。
椅子へ座る。
両手で頭を抱えた。
「……何なんだよ」
返事はない。
「何で俺、怒鳴ったんだよ」
家令が水差しからグラスへ水を注いだ。
「どうぞ」
「酒がいい」
「水になさいませ」
「はい」
素直に受け取った。
一気に半分ほど飲む。
少しだけ喉が楽になった。
「俺さ」
「はい」
「妻が襲われたって起こされたんだぞ」
「はい」
「死ぬほど焦って走ってったら」
「はい」
「襲った奴が二人ともシーツで簀巻きにされて床に転がってんの」
「正確には、簀巻きではございません」
「そこどうでもいいだろ」
「手足を拘束されていただけですので」
「もっとどうでもいいよ」
エルンストはまた頭を抱えた。
「で、本人は寝間着で立ってんの。『ご無事で何よりです』って」
「奥様らしいかと」
「どこがだよ」
「元騎士でいらっしゃいますので」
「そうなんだけどさあ……」
それは分かっている。
分かっていたはずなのだ。
コーネリアは騎士だった。
しかも話を聞く限り、魔術に関しては相当に優秀だった。
一か月前まで具合を悪くしていたからといって、剣の扱いまで忘れたわけではない。
「……俺、あいつのこと弱いと思いすぎてた?」
家令は少し考えた。
「身体が丈夫ではないことと、戦闘能力が低いことは、別の話かと」
「だよな」
それも分かっている。
分かっているのに。
腕が真っ赤なのを見た瞬間。
何も考えられなくなった。
「だって血まみれだったんだぞ」
「はい」
「白い寝間着だったから、余計にすげえ赤くて」
「はい」
「こいつらにやられたって思ったら、腹立って」
「それで奥様をお叱りになった、と」
「……そう」
口に出すと、ものすごく馬鹿なことをした気がした。
「俺、誰に怒ってんだよ」
家令は答えなかった。
「襲った奴に怒れよ」
「左様でございますね」
「お前ちょっとは庇えよ」
「何をでございましょう」
「俺を」
「難しいかと」
エルンストはグラスの残りを飲み干した。
「……またあの顔させた」
それには家令も何も言わなかった。
一か月。
ようやく。
少しずつ。
コーネリアは普通に食べるようになった。
眠れるようになった。
身体強化も必要な時だけ使うようになった。
自分が声を荒らげてしまった夜には食事が減ることもある。
それでも翌朝、「昨日は悪かった」と言えば、少なくとも以前のように何日も引きずることはなくなった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
良くなっていた。
それなのに。
「……『不審者の前に立ち向かう女がいるか』って言った」
「聞いておりました」
「聞いてたの?」
「途中から」
「じゃあ止めろよ」
「到着前のことでございますので」
「使えねえな」
「申し訳ございません」
全く申し訳なさそうではなかった。
エルンストは机へ額をつけた。
「あいつ、どう聞いたと思う?」
今度は、家令が少し間を置いた。
「おそらくは」
「うん」
「侯爵夫人として、また間違えた、と」
「だよなあ……」
頭を抱えたまま呻く。
それが一番まずい。
一か月かけて、ようやく。
失敗しても翌日がある。
少しくらい間違えても、この家にいていい。
そう思い始めたところだった。
そこへ。
夜中に自分を殺しに来た男を二人返り討ちにして。
夫が駆けつけて。
最初に言われたのが。
――不審者二人もいる前に、一人で立ち向かう女がいるか。
「最悪じゃん」
「はい」
「そこは否定しろよ」
「旦那様」
家令は静かに言った。
「お気持ちは理解できます」
エルンストは顔を上げた。
「奥様のお怪我をご覧になって、動揺されたのでしょう」
「……うん」
「奥様に傷ついてほしくなかった。危険なことをしてほしくなかった。それ自体は、奥様を案じてのことでございます」
「そう」
まさにそれだった。
「そうなんだよ。別に戦えないと思ってるわけじゃなくて。いや、ちょっと思ってたけど」
「はい」
「でもそうじゃなくてさ」
言葉が上手くまとまらない。
「妻が寝てるところ襲われて、怪我してんだぞ。そりゃ俺がいたら俺が前出るし、護衛だっているし、何でお前が怪我しなきゃいけないんだって」
「それを、そのままお伝えになればよろしかったのでは」
エルンストは黙った。
「……今度からそうする」
「ぜひ」
「でもさ」
少し考える。
「寝てるところ襲われたんだよな」
「はい」
「逃げろって言っても」
「逃げるためにも、まず攻撃を回避する必要はあったでしょう」
「……だよな」
「夜中の寝室に、刃物を持った男が二名おりますので」
「……そうだよな」
「護衛を呼ぶまで、何もせず刺されていろというわけにも参りません」
エルンストは両手で顔を覆った。
「俺、めちゃくちゃなこと言ってない?」
「かなり」
「お前今日容赦ないな」
「旦那様が反省なさっているようですので」
「反省してるよ」
ものすごくしている。
その時、扉が叩かれた。
エルンストは勢いよく顔を上げた。
「入れ!」
侍女だった。
「奥様の診察が終わりました」
「どうだった?」
立ち上がる。
「右上腕に切創がございますが、奥様ご自身で治癒なさっており、傷はすでに閉じております。医師からも、出血量を含め、命に関わるようなものではないと」
全身から力が抜けた。
「……よかった」
「念のため今夜は安静にとのことです」
「寝てる?」
「いえ」
嫌な予感がした。
「何してる?」
「侵入者について、旦那様へご報告する内容を整理すると」
「何でだよ!」
声を上げてから。
エルンストは止まった。
家令を見る。
家令もこちらを見ていた。
「……怒ってない」
誰にともなく言った。
「とりあえず」
大きく息を吐く。
「寝ろって言って」
侍女が頷く。
「俺が朝聞くから。今は寝ていいって」
「かしこまりました」
侍女が退出する。
エルンストは椅子へ座り直した。
しばらく黙って。
「……朝、謝る」
「それがよろしいかと」
「それから話聞く」
「はい」
「怒鳴らない」
家令は黙った。
「何だよ」
「いえ」
「今度は怒鳴らないから」
「期待しております」
「絶対信じてねえだろ」
家令は答えなかった。
エルンストは空になったグラスを見た。
妻が襲われた。
怪我をした。
怖かった。
だから腹が立った。
その腹立ちを、なぜか怪我をした本人へぶつけた。
我ながらひどい。
けれど。
もう一つ。
どうしても頭から離れない光景があった。
寝巻き姿で。
裸足で。
髪もぐしゃぐしゃのまま。
自分を殺しに来た男を二人とも床へ転がし、シーツを裂いてきっちり拘束していた妻。
「……強くない?」
思わず呟いた。
家令が答えた。
「騎士でいらっしゃいましたので」
「いや、知ってるけど」
一か月前。
魔術を切っただけでまともに座れなくなった女と。
さっき見た女が。
どうにも頭の中で同じ人物にならない。
エルンストはもう一度、頭を抱えた。
「……あいつ、何なんだよ」
家令が静かに答えた。
「旦那様の奥様でございます」
「それは知ってるよ」




