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13/23

2-3 新しい名前

朝食には、まだ少し早い時間だった。


エルンストは一度自室へ戻ったものの、結局ほとんど眠れなかった。


侵入者についての報告は夜明けまでにある程度まとまった。屋敷の警備には明らかな穴があり、どうやって入り込んだのかもおおよその見当がついている。捕らえた二人の尋問はこれからだが、少なくとも昨夜と同じようなことを二度と起こさないため、警備体制そのものを見直す必要がある。


それはそれとして。


もう一つ、やらなければならないことがあった。


「……行くか」


自分に言い聞かせるように呟いて、エルンストは妻の部屋へ向かった。


家令も後ろについてくる。


「お前も来るの?」


「念のため」


「何の念だよ」


「さまざまな意味でございます」


何となく腹が立ったが、昨夜のことを考えると追い返す気にもなれなかった。


侍女に取り次いでもらい、部屋へ入る。


そしてエルンストは、ため息をついた。


コーネリアはすでに身支度を終えていた。


昨夜の血まみれのネグリジェではない。きちんと朝用のドレスを着て、淡い金髪も整えられている。


どう見ても、これから普段通り一日を始める人間の姿だった。


「……何で着替えてんの」


コーネリアの肩がわずかに跳ねた。


「朝ですので」


「そうだけど」


「医師からも、傷そのものには問題ないと伺っております」


「そうだけどさあ……」


またため息が出る。


その反応をどう受け取ったのか、コーネリアの背筋が少し伸びた。


「申し訳ありません」


「いや」


すぐに止めた。


「怒ってない」


「……はい」


「昨日のことも」


言いながら、できるだけ声を落ち着かせる。


「怒ってるわけじゃない。いや、昨日は怒ったけど、お前が何か間違えたから怒ったわけじゃない」


コーネリアは黙っている。


「だから、その……コーネリア」


びくり、と。


本当に小さくだが、肩が揺れた。


エルンストは口を止めた。


また何かまずいことを言っただろうか。


「……とりあえず座ろう」


「はい」


二人で卓を挟んで座る。


家令は少し離れた場所に立った。


エルンストは昨夜から考えていたことを、頭の中でもう一度並べる。


怒鳴らない。


責めない。


ちゃんと説明する。


今度こそ、変な伝わり方をしないようにする。


「昨日のことなんだけど」


「はい」


「まず、怪我は?」


「問題ありません。治癒後に医師にも診ていただきました」


「痛くない?」


「わずかに違和感はありますが、日常動作には支障ありません」


「そう」


そこは素直に安心した。


「よかった」


コーネリアが少しだけ目を上げる。


「それで」


エルンストは続けた。


「昨日、俺が言ったことなんだけど」


また身体が固くなった。


分かりやすい。


分かりやすすぎて、昨日の自分を殴りたくなる。


「不審者の前に立ち向かうなって言っただろ」


「はい」


「……あれ、言い方が悪かった」


コーネリアは黙っている。


「俺が部屋に入った時、お前の腕が真っ赤だったから」


思い出すだけで腹の底がざわついた。


白い寝間着。


その右腕を染めていた血。


「びっくりしたんだよ」


コーネリアが瞬いた。


「……はい」


「それで、腹立って。怒鳴った」


「はい」


「でも、お前が侯爵夫人として何か間違えたとか、そういう意味じゃない」


返事が少し遅れた。


「……承知しました」


たぶん、半分も伝わっていない。


エルンストは困って家令を見た。


昨夜あれほど、今度はちゃんと話すと言った手前、助けを求めるのは癪だった。


しかし、どうにも自分の言葉が目の前の妻に伝わっている気がしない。


家令は、しばらく黙って二人を見たあと、静かに口を開いた。


「奥様」


「はい」


「旦那様は、奥様をお叱りになりたかったのではございません」


コーネリアが家令を見る。


「昨夜、奥様が襲われたと聞いた時、旦那様は大変心配なさっておいででした」


「おい」


「事実でございます」


「そうだけど」


家令は構わず続けた。


「お部屋へ駆けつけて、奥様がご無事でいらっしゃることを確認なさった。ところが、今度はお召し物が血に濡れているのをご覧になった」


コーネリアが、自分の右腕へ目を落とす。


「旦那様は、奥様がお怪我をなさったことに驚かれたのでございます」


「……はい」


「そして、驚かれた時の旦那様は、残念ながらあまり言葉を選ぶことがお上手ではございません」


「お前さあ」


「旦那様」


「何」


「昨夜の反省をお忘れなく」


エルンストは口を閉じた。


コーネリアがほんの少し目を丸くした。


家令は何事もなかったように続ける。


「ですから、昨夜の旦那様のお言葉は、奥様が侯爵夫人として相応しくないという意味ではございません。奥様が危険な目に遭われ、お怪我までなさったことを心配された結果でございます」


コーネリアはしばらく黙っていた。


それからエルンストを見た。


「……そう、なのですか?」


「そうだよ」


今度は即答した。


「だから最初からそう言ってるだろ」


家令が咳払いをした。


「ああ、いや。……悪い」


危ない。


また余計な言葉を足すところだった。


「そう。心配した」


言い直す。


「お前が怪我してたから」


「……はい」


コーネリアの返事はまだ硬い。


けれど、先ほどよりは少しだけ表情が緩んだようにも見えた。


エルンストは続ける。


「それで、警備のことなんだけど」


「はい」


「今日から見直す。夜番も増やすし、窓も確認させる。そもそも寝室まで入られた時点で、屋敷側の問題だから」


「承知しました」


「あと、何かあった時にすぐ人を呼べるようにする。呼び鈴の位置もそうだし、夜間の護衛への伝達方法も考え直す」


「はい」


「だから、万が一また何かあったら、まず人を呼んでほしい」


コーネリアは少し考えた。


「……承知しました」


「うん」


それでいい。


少なくとも昨夜のように、気づいた時には全部終わっている、ということにはならないだろう。


「コーネリア」


また。


ほんのわずかに、彼女の肩が上がった。


エルンストは眉を寄せた。


さっきから何だ。


話そのものに怯えているのだと思っていた。


確かにそれもあるだろう。


けれど。


家令が話している間は、比較的落ち着いていた。


自分が話している時だって、ずっと怯えているわけではない。


なのに。


「コーネリア」と呼びかけるたびに、身体が固くなる。


エルンストが何か言うより先に、家令が口を開いた。


「旦那様。少し、よろしいでしょうか」


「……何?」


家令はコーネリアへ向き直った。


「奥様」


「はい」


呼ばれたコーネリアが顔を上げる。


やはり。


今は自然だった。


家令はそれを確認するように少し間を置いてから尋ねた。


「奥様は、もしかして『コーネリア』というお名前がお嫌いでいらっしゃいますか?」


エルンストは家令を見た。


コーネリアは動かなかった。


ただ、返事もしなかった。


「……おい」


「少々お待ちください」


家令に止められる。


しばらくして、コーネリアが口を開いた。


「嫌い、ということは」


そこで止まる。


「……考えたことがありません」


否定ではなかった。


家令は静かに頷いた。


「左様でございますか」


エルンストにも、家令が何を考えたのかは分かった。


調べた中にあった。


母親は、娘をしばしば夫の名で呼んでいた。


コルネリウス。


コーネリアではなく。


夫の代わりとして。


理想の騎士として、その名を与えられていた。


それ以上のことまでは分からない。


どんな時にどちらの名前で呼ばれていたのか。


本人が、それをどう感じていたのか。


そこまでは、調べても出てこなかった。


「奥様」


家令が続ける。


「もし違うお名前で呼ばれるとすれば、それはお嫌でしょうか」


コーネリアはまた少し考えた。


「……何でも構いません」


エルンストは顔をしかめた。


何でもいい、というのも、それはそれで何か違う気がする。


家令はなぜかこちらを向いた。


嫌な予感がした。


「では旦那様」


「何」


「奥様を何か愛称でお呼びになってはいかがでしょう」


「……俺が?」


「旦那様以外に、どなたが」


「今?」


「今がよろしいかと」


「急すぎない?」


家令は答えなかった。


コーネリアもこちらを見ている。


やめてほしい。


そんな顔で見られても困る。


愛称。


コーネリア。


何がある。


コニー。


違う気がする。


リア。


もっと違う。


エルンストは眉間に皺を寄せたまま、頭の中で名前を何度か転がした。


コーネリア。


ネリア。


コーネル。


「……ネル」


口から出た。


コーネリアが瞬いた。


「はい?」


「いや」


エルンスト自身も少し戸惑った。


「ネル。……とか」


家令は何も言わない。


コーネリアも黙っている。


「嫌なら別にいいけど」


「……わたくしを、ですか?」


「他に誰がいるんだよ」


「……ネル」


自分で確かめるように、小さく繰り返す。


不思議そうだった。


ただ、嫌そうではない。


「どう?」


「……旦那様がおっしゃるのでしたら」


またそれか。


エルンストは少しだけ肩を落とした。


「お前が嫌じゃないなら、って聞いてるんだけど」


コーネリアは困ったように黙った。


やがて。


「嫌では、ありません」


「じゃあ、それで」


「はい」


何だか、とんでもなく大事なことをものすごく雑に決めた気がする。


エルンストは疲れて息を吐いた。


昨夜から何度ため息をついただろう。


「とりあえず、ネル」


呼んでみる。


目の前の少女が顔を上げた。


身をすくめなかった。


それだけで、家令がこちらを見たのが分かった。


「今日は朝飯食って、休んどけ」


「ですが」


反論は来た。


けれど。


さっきまでのように、身体は固くなっていない。


ただ純粋に、休む必要がないと思っている顔だった。


家令の口元が、ごくわずかに緩んだ。


「奥様」


「はい」


「旦那様を安心させるためと思って、本日はお休みいただけませんでしょうか」


コーネリアは目を瞬いた。


「旦那様を?」


「はい。昨夜から、たいそうご心配なさっておりますので」


「お前、それもういいだろ」


「奥様には必要な情報かと」


「そうだけどさあ……」


コーネリアがこちらを見る。


しばらく見て。


「……旦那様は、わたくしが休んだ方が安心なさいますか?」


「する」


そこだけは即答できた。


「今日はお前が普通に歩き回ってるの見たら、たぶん落ち着かない」


コーネリアは少し考えた。


そして。


「承知しました」


素直に頷いた。


「本日は休ませていただきます」


「うん」


ようやく終わった。


エルンストは椅子の背へ身体を預けた。


疲れた。


夜中に叩き起こされてから、ずっと気が張っていた。


けれど、目の前の妻は。


少なくとも部屋へ入った時よりは、少しだけ肩の力が抜けているように見えた。


「……ネル」


もう一度、試すように呼んだ。


「はい」


今度も。


コーネリアは身をすくめなかった。


ただ、まだ馴染まない呼び名に少し戸惑うように。


静かに、エルンストを見返した。


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