2-3 新しい名前
朝食には、まだ少し早い時間だった。
エルンストは一度自室へ戻ったものの、結局ほとんど眠れなかった。
侵入者についての報告は夜明けまでにある程度まとまった。屋敷の警備には明らかな穴があり、どうやって入り込んだのかもおおよその見当がついている。捕らえた二人の尋問はこれからだが、少なくとも昨夜と同じようなことを二度と起こさないため、警備体制そのものを見直す必要がある。
それはそれとして。
もう一つ、やらなければならないことがあった。
「……行くか」
自分に言い聞かせるように呟いて、エルンストは妻の部屋へ向かった。
家令も後ろについてくる。
「お前も来るの?」
「念のため」
「何の念だよ」
「さまざまな意味でございます」
何となく腹が立ったが、昨夜のことを考えると追い返す気にもなれなかった。
侍女に取り次いでもらい、部屋へ入る。
そしてエルンストは、ため息をついた。
コーネリアはすでに身支度を終えていた。
昨夜の血まみれのネグリジェではない。きちんと朝用のドレスを着て、淡い金髪も整えられている。
どう見ても、これから普段通り一日を始める人間の姿だった。
「……何で着替えてんの」
コーネリアの肩がわずかに跳ねた。
「朝ですので」
「そうだけど」
「医師からも、傷そのものには問題ないと伺っております」
「そうだけどさあ……」
またため息が出る。
その反応をどう受け取ったのか、コーネリアの背筋が少し伸びた。
「申し訳ありません」
「いや」
すぐに止めた。
「怒ってない」
「……はい」
「昨日のことも」
言いながら、できるだけ声を落ち着かせる。
「怒ってるわけじゃない。いや、昨日は怒ったけど、お前が何か間違えたから怒ったわけじゃない」
コーネリアは黙っている。
「だから、その……コーネリア」
びくり、と。
本当に小さくだが、肩が揺れた。
エルンストは口を止めた。
また何かまずいことを言っただろうか。
「……とりあえず座ろう」
「はい」
二人で卓を挟んで座る。
家令は少し離れた場所に立った。
エルンストは昨夜から考えていたことを、頭の中でもう一度並べる。
怒鳴らない。
責めない。
ちゃんと説明する。
今度こそ、変な伝わり方をしないようにする。
「昨日のことなんだけど」
「はい」
「まず、怪我は?」
「問題ありません。治癒後に医師にも診ていただきました」
「痛くない?」
「わずかに違和感はありますが、日常動作には支障ありません」
「そう」
そこは素直に安心した。
「よかった」
コーネリアが少しだけ目を上げる。
「それで」
エルンストは続けた。
「昨日、俺が言ったことなんだけど」
また身体が固くなった。
分かりやすい。
分かりやすすぎて、昨日の自分を殴りたくなる。
「不審者の前に立ち向かうなって言っただろ」
「はい」
「……あれ、言い方が悪かった」
コーネリアは黙っている。
「俺が部屋に入った時、お前の腕が真っ赤だったから」
思い出すだけで腹の底がざわついた。
白い寝間着。
その右腕を染めていた血。
「びっくりしたんだよ」
コーネリアが瞬いた。
「……はい」
「それで、腹立って。怒鳴った」
「はい」
「でも、お前が侯爵夫人として何か間違えたとか、そういう意味じゃない」
返事が少し遅れた。
「……承知しました」
たぶん、半分も伝わっていない。
エルンストは困って家令を見た。
昨夜あれほど、今度はちゃんと話すと言った手前、助けを求めるのは癪だった。
しかし、どうにも自分の言葉が目の前の妻に伝わっている気がしない。
家令は、しばらく黙って二人を見たあと、静かに口を開いた。
「奥様」
「はい」
「旦那様は、奥様をお叱りになりたかったのではございません」
コーネリアが家令を見る。
「昨夜、奥様が襲われたと聞いた時、旦那様は大変心配なさっておいででした」
「おい」
「事実でございます」
「そうだけど」
家令は構わず続けた。
「お部屋へ駆けつけて、奥様がご無事でいらっしゃることを確認なさった。ところが、今度はお召し物が血に濡れているのをご覧になった」
コーネリアが、自分の右腕へ目を落とす。
「旦那様は、奥様がお怪我をなさったことに驚かれたのでございます」
「……はい」
「そして、驚かれた時の旦那様は、残念ながらあまり言葉を選ぶことがお上手ではございません」
「お前さあ」
「旦那様」
「何」
「昨夜の反省をお忘れなく」
エルンストは口を閉じた。
コーネリアがほんの少し目を丸くした。
家令は何事もなかったように続ける。
「ですから、昨夜の旦那様のお言葉は、奥様が侯爵夫人として相応しくないという意味ではございません。奥様が危険な目に遭われ、お怪我までなさったことを心配された結果でございます」
コーネリアはしばらく黙っていた。
それからエルンストを見た。
「……そう、なのですか?」
「そうだよ」
今度は即答した。
「だから最初からそう言ってるだろ」
家令が咳払いをした。
「ああ、いや。……悪い」
危ない。
また余計な言葉を足すところだった。
「そう。心配した」
言い直す。
「お前が怪我してたから」
「……はい」
コーネリアの返事はまだ硬い。
けれど、先ほどよりは少しだけ表情が緩んだようにも見えた。
エルンストは続ける。
「それで、警備のことなんだけど」
「はい」
「今日から見直す。夜番も増やすし、窓も確認させる。そもそも寝室まで入られた時点で、屋敷側の問題だから」
「承知しました」
「あと、何かあった時にすぐ人を呼べるようにする。呼び鈴の位置もそうだし、夜間の護衛への伝達方法も考え直す」
「はい」
「だから、万が一また何かあったら、まず人を呼んでほしい」
コーネリアは少し考えた。
「……承知しました」
「うん」
それでいい。
少なくとも昨夜のように、気づいた時には全部終わっている、ということにはならないだろう。
「コーネリア」
また。
ほんのわずかに、彼女の肩が上がった。
エルンストは眉を寄せた。
さっきから何だ。
話そのものに怯えているのだと思っていた。
確かにそれもあるだろう。
けれど。
家令が話している間は、比較的落ち着いていた。
自分が話している時だって、ずっと怯えているわけではない。
なのに。
「コーネリア」と呼びかけるたびに、身体が固くなる。
エルンストが何か言うより先に、家令が口を開いた。
「旦那様。少し、よろしいでしょうか」
「……何?」
家令はコーネリアへ向き直った。
「奥様」
「はい」
呼ばれたコーネリアが顔を上げる。
やはり。
今は自然だった。
家令はそれを確認するように少し間を置いてから尋ねた。
「奥様は、もしかして『コーネリア』というお名前がお嫌いでいらっしゃいますか?」
エルンストは家令を見た。
コーネリアは動かなかった。
ただ、返事もしなかった。
「……おい」
「少々お待ちください」
家令に止められる。
しばらくして、コーネリアが口を開いた。
「嫌い、ということは」
そこで止まる。
「……考えたことがありません」
否定ではなかった。
家令は静かに頷いた。
「左様でございますか」
エルンストにも、家令が何を考えたのかは分かった。
調べた中にあった。
母親は、娘をしばしば夫の名で呼んでいた。
コルネリウス。
コーネリアではなく。
夫の代わりとして。
理想の騎士として、その名を与えられていた。
それ以上のことまでは分からない。
どんな時にどちらの名前で呼ばれていたのか。
本人が、それをどう感じていたのか。
そこまでは、調べても出てこなかった。
「奥様」
家令が続ける。
「もし違うお名前で呼ばれるとすれば、それはお嫌でしょうか」
コーネリアはまた少し考えた。
「……何でも構いません」
エルンストは顔をしかめた。
何でもいい、というのも、それはそれで何か違う気がする。
家令はなぜかこちらを向いた。
嫌な予感がした。
「では旦那様」
「何」
「奥様を何か愛称でお呼びになってはいかがでしょう」
「……俺が?」
「旦那様以外に、どなたが」
「今?」
「今がよろしいかと」
「急すぎない?」
家令は答えなかった。
コーネリアもこちらを見ている。
やめてほしい。
そんな顔で見られても困る。
愛称。
コーネリア。
何がある。
コニー。
違う気がする。
リア。
もっと違う。
エルンストは眉間に皺を寄せたまま、頭の中で名前を何度か転がした。
コーネリア。
ネリア。
コーネル。
「……ネル」
口から出た。
コーネリアが瞬いた。
「はい?」
「いや」
エルンスト自身も少し戸惑った。
「ネル。……とか」
家令は何も言わない。
コーネリアも黙っている。
「嫌なら別にいいけど」
「……わたくしを、ですか?」
「他に誰がいるんだよ」
「……ネル」
自分で確かめるように、小さく繰り返す。
不思議そうだった。
ただ、嫌そうではない。
「どう?」
「……旦那様がおっしゃるのでしたら」
またそれか。
エルンストは少しだけ肩を落とした。
「お前が嫌じゃないなら、って聞いてるんだけど」
コーネリアは困ったように黙った。
やがて。
「嫌では、ありません」
「じゃあ、それで」
「はい」
何だか、とんでもなく大事なことをものすごく雑に決めた気がする。
エルンストは疲れて息を吐いた。
昨夜から何度ため息をついただろう。
「とりあえず、ネル」
呼んでみる。
目の前の少女が顔を上げた。
身をすくめなかった。
それだけで、家令がこちらを見たのが分かった。
「今日は朝飯食って、休んどけ」
「ですが」
反論は来た。
けれど。
さっきまでのように、身体は固くなっていない。
ただ純粋に、休む必要がないと思っている顔だった。
家令の口元が、ごくわずかに緩んだ。
「奥様」
「はい」
「旦那様を安心させるためと思って、本日はお休みいただけませんでしょうか」
コーネリアは目を瞬いた。
「旦那様を?」
「はい。昨夜から、たいそうご心配なさっておりますので」
「お前、それもういいだろ」
「奥様には必要な情報かと」
「そうだけどさあ……」
コーネリアがこちらを見る。
しばらく見て。
「……旦那様は、わたくしが休んだ方が安心なさいますか?」
「する」
そこだけは即答できた。
「今日はお前が普通に歩き回ってるの見たら、たぶん落ち着かない」
コーネリアは少し考えた。
そして。
「承知しました」
素直に頷いた。
「本日は休ませていただきます」
「うん」
ようやく終わった。
エルンストは椅子の背へ身体を預けた。
疲れた。
夜中に叩き起こされてから、ずっと気が張っていた。
けれど、目の前の妻は。
少なくとも部屋へ入った時よりは、少しだけ肩の力が抜けているように見えた。
「……ネル」
もう一度、試すように呼んだ。
「はい」
今度も。
コーネリアは身をすくめなかった。
ただ、まだ馴染まない呼び名に少し戸惑うように。
静かに、エルンストを見返した。




