2-4 ネル
扉が閉じたあとも、コーネリアはしばらくその場に立っていた。
廊下を遠ざかっていく足音を聞きながら、先ほどまでエルンストがいた場所を見つめる。
――ネル。
不思議な響きだった。
「……ネル」
試しに、小さく口にしてみる。
当然ながら聞き慣れない。十八年間、一度も呼ばれたことのない名前なのだから当たり前だった。
けれど、不快ではなかった。
むしろ妙に耳に残った。
「奥様。朝食をお持ちいたしました」
侍女の声に振り返る。
エルンストに言われた通り、朝食が部屋へ運ばれてきた。
昨夜――というより、今朝方の襲撃からまだそれほど時間は経っていない。眠った時間も短く、身体には疲労が残っていた。
それでも食欲はあった。
温かなスープと柔らかなパンを、ゆっくりと口へ運ぶ。全部は食べられなかったが、少し前までのように、食べるだけで吐き気が強くなることもない。
「ごちそうさまでした」
食事を終えると、侍女に手伝われて部屋着へ着替えた。
「少しお休みになりますか?」
コーネリアは一瞬、時計を見る。
まだ朝だ。
普段なら、これから一日が始まる時間だった。
けれど。
――昨日は飯食って、休んどけ。
言われたことを思い出す。
「……はい。そういたします」
自分から寝台へ入った。
毛布を掛けてもらい、侍女が退出する。
眠くはなかった。
昨夜も少しは眠ったし、今も頭ははっきりしている。だから言われた通り横になって、身体だけ休ませればいいだろう。
そう思いながら目を閉じた。
すると、また。
――ネル。
先ほどの声が蘇った。
家令から、別の呼び名をつけてはどうかと言われた時には驚いた。
コーネリアという名前が、自分にとってあまり良くない意味を持っているのではないか。
そんなことを言われても、すぐには理解できなかった。
自分の名前だ。
生まれた時から、ずっとそう呼ばれている。
嫌いだと思ったことなどなかった。
好きだと考えたこともなかったけれど。
ただ、自分はコーネリアなのだと思っていた。
「コーネリア」
記憶の中で、母の声がした。
幼い頃だった。
何歳だったのかは、もうよく覚えていない。
身体が熱く、頭が重かった。何度も咳が出て、立ち上がると足元が揺れた。
それでも訓練へ行かなければならなかった。
身体強化を使えば動けるはずだった。
いつもそうしていた。
けれど、その日はどうしてもうまくいかなかった。
身体へ魔力を巡らせようとしても集中できない。足に力を入れれば頭が痛み、頭痛を抑えようとすれば腕から力が抜ける。
何度やっても、いつものようには動けなかった。
「コーネリア。熱があるから休むだなんて……」
母は寝台に座る自分を見下ろしていた。
「旦那様は、子供の頃は風邪ひとつ引かない丈夫なお子だったというのに。本当にあなたは、コルネリウス様の娘なのかしら」
何も言えなかった。
父の娘だと答えればよかったのだろうか。
それとも、申し訳ありませんと謝ればよかったのだろうか。
分からなくて。
ただ、早く身体を動かさなければと思った。
何度も身体強化を試した。
それでも、うまくいかなかった。
見かねた侍女が、今日はお休みになった方がよろしいのではないでしょうか、と母へ言ってくれた。
その侍女は、自分がまた動けるようになった頃にはいなくなっていた。
暇を出されたのだと、あとで聞いた。
なぜだったのかは、聞かなかった。
自分がもっと早く動けるようになっていれば、あの人が母へ余計なことを言う必要もなかった。
だから次からは、自分で大丈夫だと言うようになった。
「コーネリア」
今度は、父の声だった。
父の執務室。
机の向こうから、一枚の書類を突きつけられた。
「この報告はどういうことだ?」
何の報告だっただろう。
任された仕事で、何かを間違えた。
それだけは覚えている。
説明しようとした。
けれど、途中で父は眉間に皺を寄せた。
「お前、まだあの女に言われた騎士の真似事などしているのか」
母のことだった。
コーネリアは口を閉じた。
「まあいい。あとはこっちで始末しておく」
父はもう書類へ視線を戻していた。
「さっさと出ていくように」
それで終わりだった。
執務室を出たあと、何が悪かったのかを一人で考えた。
次は間違えないように。
次は父の手を煩わせないように。
コーネリア。
母も。
父も。
そう呼んだ。
当たり前だった。
自分の名前なのだから。
嫌だったわけではない。
今だって、嫌いだとは思わない。
けれど。
「ネル」
今朝、初めてそう呼ばれた。
襲撃者を退けたから、褒めるためにつけられた名前ではなかった。
むしろ、勝手に戦おうとして叱られたばかりだった。
それでも朝になれば、エルンストは自分の部屋へ来た。
そして。
――ネル。
――今日は飯食って、休んどけ。
思い返したどんな言葉よりも、優しい気がした。
どうしてそう思うのかは、分からなかった。
名前が変わっただけだ。
コーネリアもネルも、自分を指している。
それなのに。
ネル、と呼ばれた時。
次に何を間違えたのかを考えなくてよかった。
何を直さなければならないのかも。
ただ、食べて。
休めと言われた。
「……ネル」
もう一度、小さく呟いた。
やはり、聞き慣れない。
けれど。
悪くないと思った。
目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐く。
眠くはない。
そう思っていたはずだった。
次に目を開けた時、窓から差し込む光の向きが変わっていた。
「奥様」
近くから声がする。
ぼんやりと瞬きをすると、侍女が寝台の脇に立っていた。
「そろそろお昼になります」
「……お昼」
「はい」
コーネリアは天井を見上げた。
しばらく意味が分からなかった。
やがて、自分が朝食のあとに横になったことを思い出す。
「わたくし、眠っていたのですか」
「よくお休みでした」
そんなはずはない。
眠くはなかった。
言われたから横になっただけだったのに。
身体を起こすと、横になる前より少し身体が軽い気がした。
「起こしてくださってよかったのですが」
「旦那様から、奥様がお休みでしたら起こさないようにと申しつかっております」
また。
コーネリアは口を閉じた。
「……そうですか」
昼食も、そのまま部屋へ運んでもらった。
朝よりも少し食欲があり、用意されたものの大半を食べることができた。
食後はもう一度、寝台へ横になる。
けれど、さすがに今度は眠くなかった。
しばらく天井を眺めていたものの、何もせずにいると落ち着かない。
やがてコーネリアは身体を起こし、侍女に本を取ってもらった。
これくらいなら、休んでいるうちに入るだろう。
そう考えて開く。
数頁読んだ。
つもりだった。
ふと気づいて、少し前の頁へ戻る。
同じところを読む。
また頁をめくる。
しばらくして、コーネリアは本から顔を上げた。
何が書いてあったのか、ほとんど覚えていなかった。
体調が悪いわけではない。
頭痛もない。
熱もない。
眠いわけでもない。
それなのに、どうにも文字が頭へ入ってこない。
視線を本へ戻す。
――ネル。
また思い出した。
本を閉じる。
なんだか落ち着かなかった。
嫌なのではない。
それなら、もっと簡単だった。
聞き慣れないからなのか。
それとも、別の理由なのか。
分からない。
結局、午後は本を開いたり閉じたりしながら過ごした。
夕方になって、侍女がやってきた。
「奥様。旦那様より、体調に問題がなければ、本日の夕食はご一緒にとのことでございます」
コーネリアは本から顔を上げた。
「問題ありません」
答えてから、今朝のやり取りを思い出した。
少し考えて、付け加える。
「昼食もほとんどいただけました。熱もありません。眩暈や吐き気もありません」
侍女が一瞬、目を丸くした。
けれど、すぐに微笑む。
「では、そのようにお伝えいたします」
着替えて食堂へ向かう頃には、外はすっかり夕方の色になっていた。
部屋で一日を過ごしたせいか、廊下を歩くことすら少し久しぶりに感じる。
食堂へ入る。
すでに席についていたエルンストが顔を上げた。
「ネル」
胸の奥が、わずかに揺れた。
「朝より顔色いいな」
「……はい」
ほんの一拍遅れて、返事をする。
「お言いつけの通り、休ませていただきました」
「ちゃんと寝た?」
「朝食のあとに、昼前まで」
「なら偉い」
コーネリアは目を瞬いた。
また、褒められた。
休んだことを。
「昼飯は?」
「ほとんどいただきました」
「そっか」
エルンストは満足そうに頷いた。
「昨日より食えてるな」
「はい」
それだけだった。
休んだ理由を聞かれることもない。
なぜ仕事をしなかったのかと問われることもない。
やがて夕食が運ばれてきて、二人で食べ始めた。
エルンストは今日あったことを、ぽつぽつと話した。
今朝の襲撃を受けて、警備の配置を臨時で変えたこと。
門の出入りについて、もう一度確認させていること。
領地から届いた報告書に、面倒な案件が一つあったこと。
途中でルートヴィヒと意見が食い違い、結局明日もう一度話すことになったこと。
コーネリアは食事をしながら、それを聞いていた。
自分に意見を求められているわけではない。
報告を覚えておけと言われたわけでもない。
ただ、エルンストが話している。
だから聞く。
時折、分かるところで頷いた。
「それでルートがさ。俺が今決めるって言ってんのに、資料が足りませんって全部持ってった」
「家令殿らしい判断かと」
「ネルまであいつの味方すんの?」
「味方というわけでは」
「じゃあ俺の味方?」
「……それは」
答えに困ると、エルンストが笑った。
「冗談」
「……そうですか」
それからまた、別の話になった。
大したことのない話だった。
けれど。
コーネリアは、ふと気づいた。
いつもより、少しだけ息がしやすい。
朝からほとんど何もしていない。
役に立つこともしていない。
今だって、ただ食事をして、ただ、旦那様の話を聞いているだけだ。
それでもここにいる。
「ネル?」
呼ばれて顔を上げる。
「どうした?」
「……いいえ」
コーネリアは小さく首を振った。
「少し、身体が楽になったようです」
「そりゃよかった」
エルンストはそれ以上、理由を聞かなかった。
「じゃあ今日は昨日より食えそうだな」
自分の皿を見る。
気づけば、もう半分以上なくなっていた。
「……はい」
本当だ。
昨日より食べられている。
そんなことを褒められたのが、少し嬉しかった。
食事を続けながら、エルンストがまた仕事の話を始める。
コーネリアはそれを聞いた。
時々頷いて。
たまに短く答えて。
また食べる。
ネル。
その名前で呼ばれるたびに、まだ少しだけ不思議な気持ちになる。
けれど。
コーネリア、と呼ばれた時のように、次に何を言われるのかを考えなくていい。
ネル。
朝より顔色がいい。
ネル。
ちゃんと休んだか。
ネル。
昨日より食べられているな。
どれも。
怖くない言葉だった。
コーネリアは静かに息を吸った。
胸の奥まで、いつもより少し深く空気が入る。
理由は、まだ分からない。
分からないままでいいような気もした。
今はただ。
ネルと呼ばれて。
ここで夕食を食べて。
旦那様の話を聞いている。
それが、少しだけ心地よかった。




