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3-1 得意なこと

侯爵邸の警備体制を見直す会議は、朝から続いていた。


先日の侵入者がどこから入り、どの経路を通ってコーネリアの寝室まで辿り着いたのか。すでに大まかな経路は判明している。問題は、そこに至るまで誰にも発見されなかったことだった。


エルンストの執務室には、警備を担当する騎士たちと家令、それに屋敷の使用人を取りまとめる者が集まっている。


コーネリアも侯爵夫人として同席していた。


長机の上には、屋敷の見取り図が広げられている。


「西棟の巡回を増やします」


警備隊長のグレアムが、太い指で図面を示した。


五十を少し過ぎた大柄な男で、先代侯爵の頃から屋敷の警備を任されている。エルンストより頭一つ近く大きく、年齢を感じさせない厚い肩と腕は、今でも現役の騎士そのものだった。


「夜間は二名一組。現在の巡回経路をこちらまで延長し、使用人棟との間にも一名置きます。窓についても、日没後に一度、夜番への引き継ぎ時にもう一度確認を」


コーネリアは黙って聞いていた。


筋は通っている。


先日使われた侵入経路を塞ぐという意味では、十分な対策だと思う。


ただ。


視線を図面へ落とす。


西棟へ人員を増やす。その分、現在二名で巡回している北側の廊下を一名にする。


交代は二時間ごと。


交代要員は詰所から出る。


その間。


コーネリアの指先が、膝の上でわずかに動いた。


誰もいなくなる。


ほんの短い時間だ。


けれど、警備の交代時間を把握されていた場合はどうだろう。


「東側は従来通りで問題ありませんな」


グレアムが続ける。


「前回の侵入経路からも離れております。こちらへ人を割くより、西側を厚くするべきでしょう」


それも少し気になった。


前回使われた場所が塞がれれば、次は別の場所を使う。


東側は外壁から侵入するには向いていない。しかし使用人の出入りは多い。外から忍び込むのではなく、初めから人に紛れて中へ入るのであれば、こちらの方が容易だった。


けれど、コーネリアは何も言わなかった。


今の自分は騎士ではない。


侯爵夫人だ。


この屋敷へ来てから一か月、何度も教えられた。


重い荷物を運ぼうとすれば侍女に止められた。書類を取りに行こうとすれば、使用人へ申しつければよいと言われた。屋敷の仕事へ手を出せば、それは奥様がなさることではございません、とやんわり断られた。


間違っているとは思わない。


侯爵夫人には侯爵夫人の役目がある。


騎士として育てられたからといって、ここでも同じように振る舞ってよいとは限らない。


「じゃあ、夜間の配置についてはこれで進める」


エルンストが言った。


「実際に動かしてみて問題があれば、その都度直す。いいな?」


「お任せを!」


グレアムが胸を叩く。


「次に賊が入りましたら、今度こそ私が直接叩き伏せてご覧に入れます!」


「入らないようにする話してんだけどな、今」


エルンストが眉を寄せた。


「もちろん、それが第一ですな!」


グレアムは豪快に笑った。


会議はそのまま別の議題へ移った。


コーネリアはもう一度、見取り図へ視線を落とした。


先ほど見つけた場所が気になった。


けれど、誰も指摘しない。


自分が気にしすぎているのかもしれない。


昔からそうだった。


一つ仕事を任されると、起こり得ることを先に考える。


これが駄目だった場合。


相手が予定通りに動かなかった場合。


必要な人間がいなかった場合。


自分が失敗した場合。


考えられるものは、できるだけ先に潰しておく。


そうしなければ、何かあった時に自分では対処できない。


それでも失敗することはあった。


その時は叱られた。


だから次は、もう一つ多く考えた。


「侵入者を発見した場合は、近くの者が即座に制圧。これまで通りでよろしいでしょう」


グレアムの言葉に、コーネリアはまた図面を見る。


それも、気になる。


近くにいる者が全員戦う。


では、誰が知らせるのだろう。


相手が一人とは限らない。


正面で騒ぎを起こし、別の場所から入る可能性は。


戦っている者が負傷した場合は。


侯爵本人の位置を確認する者は。


侯爵夫人の位置を確認する者は。


火を放たれた場合は。


考え始めれば、いくらでも出てきた。


そのたびに、コーネリアは黙った。


やがて会議が終わった。


騎士たちが書類をまとめ、それぞれ席を立つ。コーネリアも立ち上がったが、すぐには部屋を出なかった。


「ネル?」


エルンストに呼ばれる。


「どうした?」


「……いいえ」


反射的にそう答えた。


けれど、足は動かなかった。


エルンストが眉を寄せる。


その顔を見て、コーネリアは一度口を閉じた。


言ってよいのだろうか。


侯爵夫人が警備へ口を出すことではないと言われるかもしれない。


それなら、それで構わない。


ただ、もし。


自分が気づいていた場所から誰かが入り、また何かあったら。


「……旦那様」


「ん?」


「先ほどの警備について、一点だけ申し上げてもよろしいでしょうか」


エルンストが少し目を瞬いた。


「いいけど」


あまりにも簡単に返ってきたので、コーネリアの方が一瞬言葉に詰まった。


「何?」


「……西棟へ人員を増やすことについては、わたくしも良いと思います。ただ、その場合、北側の巡回に空白ができます」


エルンストが机の上の見取り図を見る。


コーネリアも近づいた。


「こちらです」


指先で経路をなぞる。


「現在は二名で巡回しておりますが、西棟へ一名移せば、残る一名はこちらを通ります。交代要員はこちらの詰所から出ますので、前の者が戻ってから次の者が到着するまで――おそらく三分ほど、こちらに誰もいなくなります」


「三分?」


部屋を出かけていたグレアムが振り返った。


「奥様、それならば問題ありますまい。詰所からここまで、走れば三十秒ですぞ」


コーネリアは少し考えた。


「……毎回、全力で走るのでしょうか」


「当然です」


即答だった。


「警備中ですぞ」


「グレアム殿」


それまで黙っていた家令が口を挟んだ。


「詰所から北棟まで三十秒で走れるのは、現在の警備隊ではグレアム殿だけです」


「何を言う、ルートヴィヒ殿。鍛錬が足りん!」


「そのグレアム殿を基準に警備計画を立てることを問題視しております」


「む」


グレアムが腕を組む。


エルンストは片手で額を押さえた。


「とりあえず三分空くのは事実なんだな?」


「……まあ、通常の足ならば」


「じゃあ空けないようにしよう。交代する奴が来てから戻ればいいだろ」


「ですな」


グレアムはあっさり頷いた。


コーネリアは少しだけ目を瞬いた。


通った。


「他には?」


エルンストが聞いた。


「……はい?」


「さっき一点だけって言っただろ」


「はい」


「他にもありそうな顔してる」


コーネリアは黙った。


確かに、ある。


しかし一点だけと言った。


「あるの?」


「……ございますが」


「じゃあ言って」


また、簡単に言われた。


コーネリアは少し迷ってから、もう一度図面へ目を落とした。


「では……東側ですが」


そこから先は、思っていたより長くなった。


東側は警備兵を増やす必要はない。ただし使用人や業者の出入りを確認する者は決めた方がよい。


侵入者を発見した場合、全員が制圧へ向かってはいけない。


最低一人は知らせに走る。


そう説明したところで、グレアムが首を傾げた。


「しかし奥様。敵を発見したならば、その場で取り押さえるのが最も早いでしょう」


「取り押さえられれば、そうだと思います」


「我が隊の者ならば問題ありません」


「相手が一人とは限りません」


「二人なら二人倒せばよろしい」


「グレアム殿」


ルートヴィヒの静かな声が飛んだ。


「それができるのも、おそらくグレアム殿だけです」


「我が隊を侮っていただいては困りますな!」


「侮ってはおりません。平均を申し上げております」


グレアムは不満そうだった。


コーネリアは二人を見比べてから、話を続けた。


「それに、制圧する必要はないかと思います」


「制圧しない?」


今度はグレアムが本気で怪訝な顔をした。


「はい。屋敷の警備であれば、侵入者を倒すことより、旦那様のいらっしゃる場所へ近づけないことの方が優先されます」


「しかし、倒してしまえば近づけませんぞ」


「……はい」


それはそうだった。


少し困った。


「ですが、倒せなかった場合がございます」


「その時は応援が倒します」


「応援を呼ぶ方が必要です」


「む」


ようやくグレアムが黙った。


コーネリアは図面の一点を示した。


「例えば、こちらで三名が侵入者を発見した場合です。相手が一名で、二名で進路を塞げるのであれば、一名は知らせに向かった方がよいかと」


「三人でかかれば、より早く倒せます」


「その三名が負傷した場合、誰も知らせに行けません」


「負傷?」


グレアムの眉が上がった。


「我が隊にそのような軟弱者はおりません!」


「グレアム殿」


「何ですかな、ルートヴィヒ殿」


「先月の訓練で三名負傷しております」


「あれは訓練中の名誉の負傷です!」


「負傷しております」


「実戦とは違います!」


「実戦では、より負傷する可能性が高いかと」


「……ルートヴィヒ殿は先ほどから私に厳しくありませんかな?」


「警備計画の話をしておりますので」


エルンストがとうとう吹き出した。


コーネリアは笑ってよいのか分からず、少しだけ目を伏せた。


「それで?」


エルンストが笑いを残したまま促す。


「ネルはどうするのがいいと思う?」


「……はい。ですので、倒すことを前提にしない方がよろしいかと思います」


コーネリアは図面へ向き直った。


「こちらの廊下は狭いので、一人か二人で進路を塞ぐだけでも時間は稼げます。その間に一名が応援を呼べば、仮に残った者が突破されても、次の者が対応できます」


グレアムも今度は黙って図面を見る。


「相手が複数の場合は?」


「人数によります」


「五人」


コーネリアは考えた。


「こちらまで下がります」


階段を示す。


「一度に上がれる人数が限られますので、ここで止めます。二名で足ります」


「十人なら?」


「同じです。全員が同時に上がれないのであれば、五人でも十人でも大きくは変わりません。ただし別経路へ回る可能性がありますので、そちらへも連絡を」


「火を放たれたら?」


「消火を担当する使用人と、旦那様を避難させる者を分けます。火元によって避難経路も変えた方がよろしいかと」


グレアムが腕を組んだ。


「正門と裏門へ同時に来た場合は?」


「人数を確認します。陽動の可能性がありますので、屋敷内の警備をすべて外へ出すことは避けます」


質問が続いた。


コーネリアは一つずつ答えた。


分からないものについては、少し考えた。


条件が足りないものについては聞き返した。


「旦那様が執務室ではなく庭園にいらした場合は?」


「その時間の護衛が位置を把握しているはずですので――」


答えながら、さらに別の可能性を考える。


護衛本人が襲われた場合。


伝令が途中で止められた場合。


侵入者が使用人の服を着ていた場合。


夜ではなく昼間だった場合。


考えること自体は、昔からしてきた。


自分には、その場ですべてをうまく処理できるほどの力はない。


だから、先に考えておく。


起こりそうなことを一つ増やして。


失敗する場所を一つ減らしておく。


それでも失敗すれば、次はもう一つ増やす。


いつの間にか、グレアムは出ていくのをやめて椅子へ座っていた。


「……奥様」


「はい」


「こうした警備計画を、以前から?」


問われて、コーネリアは少し考えた。


「警備だけではございませんが、母から一通りの戦術や領地防衛については教えられております。その後も、父から任された仕事を行う際には、必要に応じて確認しておりました」


「なるほど」


「わたくしは、何か起きてから適切に対処できるとは限りませんので。事前に考えられることは、できるだけ確認しておいた方がよいかと」


グレアムが何か言おうとした。


その前に、ルートヴィヒがコーネリアを見た。


「奥様」


「はい」


「僭越ながら、それだけの事態を事前に想定できること自体が、一つの能力かと存じます」


コーネリアは少し目を瞬いた。


「……そうなのでしょうか」


「はい」


「ですが、起きてから考えていては遅いことですので」


ルートヴィヒは一度口を閉じた。


「左様でございますね」


結局、それだけ答えた。


「それで」


エルンストが椅子の背にもたれたまま言った。


「最初、一点だけじゃなかった?」


コーネリアは固まった。


見れば、見取り図にはずいぶん多くの書き込みが増えている。


「……申し訳ありません」


「いや、責めてない」


エルンストが笑う。


「むしろ何で最初黙ってたんだよ」


コーネリアは答えに迷った。


「……わたくしは、侯爵夫人ですので」


「うん」


「警備について口を出すことが、侯爵夫人の役目に含まれるのか分かりませんでした」


エルンストが怪訝そうな顔をした。


「何で駄目なの?」


その問いに、コーネリアは答えられなかった。


ここへ来てから、何度も言われた。


それは奥様がなさることではありません。


荷物を持つことも。


自分で物を取りに行くことも。


使用人の仕事を手伝うことも。


そのたびに、自分がこれまでやってきたことを一つずつ手放してきた。


侯爵夫人になるというのは、そういうことなのだと思っていた。


「いや、厨房に入って料理しろとか、馬小屋掃除しろとか言ってるわけじゃないだろ」


エルンストが言う。


「お前、こういうの分かるんだろ?」


「……多少は」


「多少?」


エルンストが机を見る。


グレアムも見る。


ルートヴィヒも見る。


最初は簡素だった見取り図には、すでにいくつもの印と書き込みが増えていた。


「まあ、いいや」


エルンストは頭を掻いた。


「分かるなら、次からその場で言えよ」


コーネリアは目を瞬いた。


「その場で、ですか?」


「後から一点だけとか言われるより、その時言ってくれた方が早いだろ」


「ですが――」


「俺だって気づかないことあるし」


そこでエルンストはグレアムを見た。


「こいつは侵入者が来たら殴ればいいと思ってるし」


「旦那様!」


「違うの?」


「否定はいたしませんが!」


「ほら」


「旦那様も大概、力で解決なさるでしょう!」


「今俺の話はしてねえだろ!」


「お二人とも」


ルートヴィヒが静かに割って入った。


「奥様のお話が終わっておりません」


二人が黙った。


コーネリアは三人を順番に見た。


何となく。


胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。


十八年間、覚えてきたこと。


母に叩き込まれたもの。


父から渡された仕事を失敗しないために、自分で調べ、覚え、考えてきたもの。


侯爵家へ嫁いだ時、それらはもう必要ないのだと思った。


自分は侯爵夫人になったのだから。


騎士になる必要はない。


父の代わりになる必要もない。


だから、今まで覚えてきたことも、ここでは使わないものなのだと。


「奥様」


グレアムに呼ばれ、顔を上げる。


「先ほどの、侵入者が複数経路から入った場合についてですが」


「はい」


「実際に兵を配置しながら、もう少し詳しくご意見をいただけますかな」


コーネリアは一瞬、返事を忘れた。


「……わたくしに、ですか?」


「もちろんです」


グレアムは当然のように答えた。


「私には少々、考えすぎに思えるところもございますが」


「おい」


エルンストが口を挟む。


「ですが、先日のようなことを二度と起こさぬためならば、考えすぎるくらいでちょうどよいでしょう」


グレアムはそう続けた。


「私では思いつかぬこともあるようです。ぜひ、お力をお貸しいただきたい」


コーネリアは、その言葉をしばらく聞いていた。


お力を。


「……承知しました」


気づけば、背筋が少し伸びていた。


エルンストがそれを見ている。


「ネル」


「はい」


呼ばれて振り向く。


エルンストは少し笑っていた。


「お前、こういうの得意なんだな」


コーネリアは答えようとして。


一瞬、言葉が出なかった。


得意。


母に教えられたからでもない。


父に命じられたからでもない。


誰かの代わりだからでもない。


ただ、自分が。


「……そう、なのでしょうか」


自信はなかった。


エルンストが笑う。


「少なくとも俺らより色々考えてるだろ」


「グレアム殿よりは確実かと存じます」


「ルートヴィヒ殿!?」


「今後も気づいたら言って」


エルンストは二人を無視して続けた。


コーネリアは少し迷った。


「……よろしいのですか?」


「だから、いいって言ってるだろ」


「はい」


頷く。


それだけのことだった。


何か新しいことができるようになったわけではない。


今日使った知識も、考え方も、すべて以前から持っていた。


十八年間、積み上げてきたもの。


侯爵家へ来た時に、もう必要ないのだと思っていたもの。


それを捨てなくてもいいらしい。


侯爵夫人になっても。


ネルになっても。


それまでの十八年間まで、なくなるわけではない。


「では、旦那様」


「ん?」


コーネリアは見取り図へ視線を戻した。


先ほどから、もう一つだけ気になっていた。


「正門側の夜間配置についても、少しよろしいでしょうか」


エルンストが一瞬黙った。


それから吹き出した。


「まだあるの?」


「……はい」


「一点だけじゃなかったのかよ」


「申し訳ありません」


「謝らなくていいって」


まだ笑いながら、エルンストは椅子を引いた。


「ほら。言ってみろ」


コーネリアは頷いた。


「まず、グレアム隊長ご自身が正門へ向かうことを前提にしない方がよろしいかと」


「なぜですかな!?」


「隊長が不在の場合もございますので」


「私はおりますぞ!」


「グレアム殿」


ルートヴィヒが静かに口を挟む。


「人は時折、眠ります」


「襲撃があれば起きます!」


「ですから、その襲撃を知らせる仕組みについて奥様がお話しになっているのです」


「む……」


コーネリアは二人を見て。


ほんの少しだけ、口元を緩めた。


それから今度は迷わず、見取り図へ手を伸ばした。


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