1-5 言わなきゃ分からない
コーネリアはまだ目を覚まさなかった。
診察の邪魔になるからと寝室を追い出され、エルンストは仕方なく自室へ戻った。
机の前へ座る。
書類を一枚取る。
文字を追う。
三行目まで読んだところで、何も頭に入っていないことに気づいた。
書類を置いた。
腕を組む。
しばらく黙る。
やがて、部屋の隅に控えていた家令を見た。
「……なあ」
「はい」
「あれ、何なんだ?」
家令は答えなかった。
「いや、分かんねえんだよ。朝からちょっと変だとは思ったけど」
話しながら、また苛立ってきた。
「具合悪いのかって聞いたら大丈夫だって言うし、途中から話聞いてないし。聞こえないって言うから近寄ったら、今度は何聞いても謝るだけだし」
腕を掴んだ瞬間の顔が浮かんだ。
明らかに怯えていた。
そして、そのまま倒れた。
「……俺、そんなに怒ってたか?」
「さて」
「お前、そういう言い方やめろよ」
長い付き合いだからこそ分かる。
これは何か言いたい時の顔だ。
「何だよ」
「旦那様は、ご自身ではどのようにお考えで?」
「分からねえから聞いてんだよ」
家令が小さく息を吐いた。
「では、何から申し上げましょうか」
「何からって」
そんなにあるのか。
嫌な予感がした。
「……何か知ってんの?」
「少なくとも、奥様がこのところ体調を崩されていたことは存じております」
エルンストは固まった。
「体調を崩してた?」
「はい」
「いつから?」
「はっきりとは申し上げられません。ただ、少なくともここ二週間ほどは」
「二週間?」
思わず声が大きくなった。
「なんで俺、知らねえんだよ」
「奥様ご本人が、問題ないと仰っておられましたので」
「じゃあ大丈夫だったんじゃ――」
そこまで言って、やめた。
今朝も言っていた。
大丈夫だと。
その直後に倒れた。
「……いや。続けろ」
「食事の量が減っております」
「元々少ないだろ」
「さらに、です」
「……そうなの?」
「はい」
知らなかった。
食事は何度も一緒に取っている。
確かに少ないとは思っていた。
だが、女というのはそんなものなのかと思っていた。
自分や騎士たちと同じ量を食うはずもない。
「女って、肉より菓子とかの方が好きなんじゃねえの?」
家令が何とも言えない顔をした。
「個人によるかと存じます」
「……そうかよ」
考えてみれば当たり前だった。
「でも、食ってはいただろ」
「そのため、夕食は厨房へ指示し、脂の少ない魚や柔らかく煮た野菜、スープなどを中心にしております」
エルンストは家令を見た。
「いつから?」
「十日ほど前からでございます」
「…………」
昨夜の夕食を思い出す。
魚だった。
その前は。
分からない。
「俺の飯は?」
「旦那様には別に主菜をご用意しております」
「…………そうだったっけ」
「はい」
全く気づいていなかった。
同じ卓についていた。
目の前でコーネリアが違うものを食べていた。
それを十日。
一度も気づかなかった。
「……他は」
「夜、眠れていない様子がございます」
「それも知ってたのか?」
「侍女から報告を受けております。夜間に何度か目を覚ましているようです。また、何度か吐いておられます」
「吐いて?」
「はい」
「何でそれを――」
また言いかけて、口を閉じた。
なんで俺に言わなかった。
それは言える。
実際、報告すべきだったとも思う。
だが。
自分は毎日、コーネリアを見ていた。
朝食も夕食も、何度も同じ卓で取った。
顔色が悪いと思ったこともある。
妙にぼんやりしていると思ったこともある。
食が細いとも思っていた。
夜遅くまで勉強していると聞いた時には、「寝ろよ」と思った。
全部、一つずつ見ていた。
それを全部、別々のどうでもいいこととして流していた。
「……何なんだよ、あいつ」
エルンストは額を押さえた。
「具合悪いなら、具合悪いって言えばいいだろ」
家令は黙っている。
「吐いたなら言えよ。眠れないなら寝ろよ。飯食えないなら、食えないって――」
そこまで言って、今朝のコーネリアを思い出した。
――申し訳ありません。
――申し訳ありません。
――ちゃんと、いたしますので。
「……いや」
息を吐く。
「俺も悪かったけど」
腹が立つ。
コーネリアにも。
自分にも。
「でも、分かるわけねえだろ。何でも大丈夫です、問題ありませんって言われたら」
「左様でございますね」
「……お前、絶対俺にも悪いとこあると思ってるだろ」
「旦那様ご自身が、たった今そのように仰いましたので」
「そうだけどさ」
椅子へ深くもたれた。
何とも落ち着かない。
しばらく黙っていたところで、家令が一冊の薄い綴りを机へ置いた。
「こちらを」
「何?」
「奥様についての調査報告でございます」
エルンストは表紙を見た。
見覚えがあった。
「ああ」
結婚が決まった頃に渡されたものだ。
家柄。
血筋。
経歴。
評判。
そういうものがまとめられていた。
「読んだぞ」
「どこまででしょう」
「……だいたい」
「旦那様」
「読んだって」
読んだ。
少なくとも、コーネリアが公爵家の娘であることも、騎士として育てられていたことも知っている。
男勝り。
粗暴。
剣を振るう。
令嬢らしい教育をほとんど受けていない。
その辺りはよく覚えている。
だから、実際に来た女を見て驚いたのだ。
「後半に、奥様のご家庭についての記載がございます」
「家庭?」
ページをめくる。
最初の数枚は見覚えがある。
その先。
見覚えが薄くなった。
さらにめくる。
ほとんど覚えていない。
エルンストは黙った。
「……ここまで読んでなかったかも」
「左様でございますか」
「その時忙しかったんだよ」
言い訳してから、余計に情けなくなった。
父が死んだばかりだった。
突然侯爵位を継いだ。
仕事は山ほどあった。
そのうえ叔父から突然、結婚を持ち込まれた。
気が進まなかった。
だから必要なところだけ読んだ。
家格と政治的な意味。
それから、どんな女が来るのか。
そこだけ。
「……母親が、父親の代わりとして育てた?」
「そのようです」
「何だそれ」
読み進める。
父コルネリウス。
母親は夫への執着が強かった。
娘に夫と同じ振る舞いを求め、騎士として育てた。
家庭内の詳しい事情までは、調査でも分からない部分が多い。
だが少なくとも、一般的な令嬢教育を受けなかったのは本人の希望ではない。
父親との関係も希薄。
母親の死後、ほとんど間を置かず婚姻が決まっている。
「……待て」
エルンストは顔を上げた。
「母親が死んだの、いつだ?」
「奥様がお輿入れなさる、半月ほど前でございます」
「半月?」
「はい」
「じゃあこいつ、母親死んで、十日くらいで侯爵夫人の勉強させられて、そのままここ来たの?」
「概ね、そのようになります」
初めて聞いた気がした。
違う。
書いてあった。
読んでいなかっただけだ。
「……親父は?」
「現在は別の女性と、その方との間に生まれた娘を本邸へ迎えているとのことです」
エルンストは報告書を見下ろした。
何とも言えなかった。
「それで、こっちに来たのか」
「はい」
「……一人で?」
「持参金は持たせるので侍女等は婚家で用意するように、とのことでしたので」
「…………そう」
報告書を閉じた。
妙に静かになった。
今朝、腕の中へ落ちてきた身体を思い出す。
軽かった。
あまりにも。
あんなに背筋を伸ばして歩いていたのに、力を失えば驚くほど小さかった。
「……いくつだっけ」
家令が一瞬、目を瞬かせた。
「奥様でございますか?」
「うん」
「十八歳でございます」
「…………十八」
知っていたはずだった。
婚姻書類にも書いてある。
六つ違う。
数字としては知っていた。
それなのに、今になって妙に引っかかった。
十八。
母親が死んだ。
父親にすぐ嫁に出された。
五日もかけて知らない土地へ来た。
知っている人間は誰もいない。
その家の主人である自分は、結婚そのものを嫌がっていた。
使用人たちも歓迎していなかった。
それで一か月。
分からないことを覚えて。
間違えるたびに謝って。
飯が食えなくなって。
吐いて。
眠れなくなって。
それでも毎朝、着飾って食堂へ来た。
「……子供じゃん」
思わず出た。
家令は何も言わなかった。
「いや、十八なら成人してるけど」
自分で訂正する。
それでも。
腕の中の軽さが消えなかった。
あれだけ軽い身体で。
今朝まで、平然と立っていた。
「……俺、何やってたんだろ」
呟く。
家令は、それにも答えなかった。
エルンストは報告書をもう一度開いた。
今度は最初からではない。
読み飛ばしていたところへ戻る。
一行ずつ読む。
それでも、途中で腹が立ってきた。
「……でもさ」
「はい」
「やっぱり、言えばよかっただろ」
家令が顔を上げる。
「俺だって、具合悪いって言われて仕事しろなんて言わねえよ。飯食えないなら別のもん出せって言えばいいし、眠れないなら――まあ、眠れないのはどうすりゃいいか知らねえけど」
「はい」
「少なくとも、怒らねえよ」
そこまで言って。
今朝の自分を思い出した。
――一回黙れ!
エルンストは片手で顔を覆った。
「……怒ったな」
「今朝は」
「うるさい」
家令は黙った。
「俺も悪かったよ」
認めるしかない。
「でも、あいつも悪い」
「左様でございますか」
「そうだよ。言わなきゃ分かんねえよ」
それだけは譲れない。
自分は察しのいい人間ではない。
言われてもいないことを全部読み取れと言われても無理だ。
だが。
言わなかったコーネリアが悪い。
言わせるような空気を作らなかった自分も悪い。
たぶん、その両方なのだろう。
「……起きたら話す」
「奥様と?」
「他に誰がいるんだよ」
何を話せばいいのかは、まだ分からない。
まず体調のことを聞く。
なぜ言わなかったのか。
それから。
今朝、なぜあんなに謝っていたのか。
なぜ腕を掴んだだけで、あんな顔をしたのか。
聞かなければならないことが、急に増えた。
エルンストは机の上の報告書へ視線を戻した。
「これ、借りるぞ」
「もともと旦那様のものでございます」
「……知ってるよ」
今度こそ、ちゃんと読むことにした。




