↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/11

1-5 言わなきゃ分からない

コーネリアはまだ目を覚まさなかった。


診察の邪魔になるからと寝室を追い出され、エルンストは仕方なく自室へ戻った。


机の前へ座る。


書類を一枚取る。


文字を追う。


三行目まで読んだところで、何も頭に入っていないことに気づいた。


書類を置いた。


腕を組む。


しばらく黙る。


やがて、部屋の隅に控えていた家令を見た。


「……なあ」


「はい」


「あれ、何なんだ?」


家令は答えなかった。


「いや、分かんねえんだよ。朝からちょっと変だとは思ったけど」


話しながら、また苛立ってきた。


「具合悪いのかって聞いたら大丈夫だって言うし、途中から話聞いてないし。聞こえないって言うから近寄ったら、今度は何聞いても謝るだけだし」


腕を掴んだ瞬間の顔が浮かんだ。


明らかに怯えていた。


そして、そのまま倒れた。


「……俺、そんなに怒ってたか?」


「さて」


「お前、そういう言い方やめろよ」


長い付き合いだからこそ分かる。


これは何か言いたい時の顔だ。


「何だよ」


「旦那様は、ご自身ではどのようにお考えで?」


「分からねえから聞いてんだよ」


家令が小さく息を吐いた。


「では、何から申し上げましょうか」


「何からって」


そんなにあるのか。


嫌な予感がした。


「……何か知ってんの?」


「少なくとも、奥様がこのところ体調を崩されていたことは存じております」


エルンストは固まった。


「体調を崩してた?」


「はい」


「いつから?」


「はっきりとは申し上げられません。ただ、少なくともここ二週間ほどは」


「二週間?」


思わず声が大きくなった。


「なんで俺、知らねえんだよ」


「奥様ご本人が、問題ないと仰っておられましたので」


「じゃあ大丈夫だったんじゃ――」


そこまで言って、やめた。


今朝も言っていた。


大丈夫だと。


その直後に倒れた。


「……いや。続けろ」


「食事の量が減っております」


「元々少ないだろ」


「さらに、です」


「……そうなの?」


「はい」


知らなかった。


食事は何度も一緒に取っている。


確かに少ないとは思っていた。


だが、女というのはそんなものなのかと思っていた。


自分や騎士たちと同じ量を食うはずもない。


「女って、肉より菓子とかの方が好きなんじゃねえの?」


家令が何とも言えない顔をした。


「個人によるかと存じます」


「……そうかよ」


考えてみれば当たり前だった。


「でも、食ってはいただろ」


「そのため、夕食は厨房へ指示し、脂の少ない魚や柔らかく煮た野菜、スープなどを中心にしております」


エルンストは家令を見た。


「いつから?」


「十日ほど前からでございます」


「…………」


昨夜の夕食を思い出す。


魚だった。


その前は。


分からない。


「俺の飯は?」


「旦那様には別に主菜をご用意しております」


「…………そうだったっけ」


「はい」


全く気づいていなかった。


同じ卓についていた。


目の前でコーネリアが違うものを食べていた。


それを十日。


一度も気づかなかった。


「……他は」


「夜、眠れていない様子がございます」


「それも知ってたのか?」


「侍女から報告を受けております。夜間に何度か目を覚ましているようです。また、何度か吐いておられます」


「吐いて?」


「はい」


「何でそれを――」


また言いかけて、口を閉じた。


なんで俺に言わなかった。


それは言える。


実際、報告すべきだったとも思う。


だが。


自分は毎日、コーネリアを見ていた。


朝食も夕食も、何度も同じ卓で取った。


顔色が悪いと思ったこともある。


妙にぼんやりしていると思ったこともある。


食が細いとも思っていた。


夜遅くまで勉強していると聞いた時には、「寝ろよ」と思った。


全部、一つずつ見ていた。


それを全部、別々のどうでもいいこととして流していた。


「……何なんだよ、あいつ」


エルンストは額を押さえた。


「具合悪いなら、具合悪いって言えばいいだろ」


家令は黙っている。


「吐いたなら言えよ。眠れないなら寝ろよ。飯食えないなら、食えないって――」


そこまで言って、今朝のコーネリアを思い出した。


――申し訳ありません。


――申し訳ありません。


――ちゃんと、いたしますので。


「……いや」


息を吐く。


「俺も悪かったけど」


腹が立つ。


コーネリアにも。


自分にも。


「でも、分かるわけねえだろ。何でも大丈夫です、問題ありませんって言われたら」


「左様でございますね」


「……お前、絶対俺にも悪いとこあると思ってるだろ」


「旦那様ご自身が、たった今そのように仰いましたので」


「そうだけどさ」


椅子へ深くもたれた。


何とも落ち着かない。


しばらく黙っていたところで、家令が一冊の薄い綴りを机へ置いた。


「こちらを」


「何?」


「奥様についての調査報告でございます」


エルンストは表紙を見た。


見覚えがあった。


「ああ」


結婚が決まった頃に渡されたものだ。


家柄。


血筋。


経歴。


評判。


そういうものがまとめられていた。


「読んだぞ」


「どこまででしょう」


「……だいたい」


「旦那様」


「読んだって」


読んだ。


少なくとも、コーネリアが公爵家の娘であることも、騎士として育てられていたことも知っている。


男勝り。


粗暴。


剣を振るう。


令嬢らしい教育をほとんど受けていない。


その辺りはよく覚えている。


だから、実際に来た女を見て驚いたのだ。


「後半に、奥様のご家庭についての記載がございます」


「家庭?」


ページをめくる。


最初の数枚は見覚えがある。


その先。


見覚えが薄くなった。


さらにめくる。


ほとんど覚えていない。


エルンストは黙った。


「……ここまで読んでなかったかも」


「左様でございますか」


「その時忙しかったんだよ」


言い訳してから、余計に情けなくなった。


父が死んだばかりだった。


突然侯爵位を継いだ。


仕事は山ほどあった。


そのうえ叔父から突然、結婚を持ち込まれた。


気が進まなかった。


だから必要なところだけ読んだ。


家格と政治的な意味。


それから、どんな女が来るのか。


そこだけ。


「……母親が、父親の代わりとして育てた?」


「そのようです」


「何だそれ」


読み進める。


父コルネリウス。


母親は夫への執着が強かった。


娘に夫と同じ振る舞いを求め、騎士として育てた。


家庭内の詳しい事情までは、調査でも分からない部分が多い。


だが少なくとも、一般的な令嬢教育を受けなかったのは本人の希望ではない。


父親との関係も希薄。


母親の死後、ほとんど間を置かず婚姻が決まっている。


「……待て」


エルンストは顔を上げた。


「母親が死んだの、いつだ?」


「奥様がお輿入れなさる、半月ほど前でございます」


「半月?」


「はい」


「じゃあこいつ、母親死んで、十日くらいで侯爵夫人の勉強させられて、そのままここ来たの?」


「概ね、そのようになります」


初めて聞いた気がした。


違う。


書いてあった。


読んでいなかっただけだ。


「……親父は?」


「現在は別の女性と、その方との間に生まれた娘を本邸へ迎えているとのことです」


エルンストは報告書を見下ろした。


何とも言えなかった。


「それで、こっちに来たのか」


「はい」


「……一人で?」


「持参金は持たせるので侍女等は婚家で用意するように、とのことでしたので」


「…………そう」


報告書を閉じた。


妙に静かになった。


今朝、腕の中へ落ちてきた身体を思い出す。


軽かった。


あまりにも。


あんなに背筋を伸ばして歩いていたのに、力を失えば驚くほど小さかった。


「……いくつだっけ」


家令が一瞬、目を瞬かせた。


「奥様でございますか?」


「うん」


「十八歳でございます」


「…………十八」


知っていたはずだった。


婚姻書類にも書いてある。


六つ違う。


数字としては知っていた。


それなのに、今になって妙に引っかかった。


十八。


母親が死んだ。


父親にすぐ嫁に出された。


五日もかけて知らない土地へ来た。


知っている人間は誰もいない。


その家の主人である自分は、結婚そのものを嫌がっていた。


使用人たちも歓迎していなかった。


それで一か月。


分からないことを覚えて。


間違えるたびに謝って。


飯が食えなくなって。


吐いて。


眠れなくなって。


それでも毎朝、着飾って食堂へ来た。


「……子供じゃん」


思わず出た。


家令は何も言わなかった。


「いや、十八なら成人してるけど」


自分で訂正する。


それでも。


腕の中の軽さが消えなかった。


あれだけ軽い身体で。


今朝まで、平然と立っていた。


「……俺、何やってたんだろ」


呟く。


家令は、それにも答えなかった。


エルンストは報告書をもう一度開いた。


今度は最初からではない。


読み飛ばしていたところへ戻る。


一行ずつ読む。


それでも、途中で腹が立ってきた。


「……でもさ」


「はい」


「やっぱり、言えばよかっただろ」


家令が顔を上げる。


「俺だって、具合悪いって言われて仕事しろなんて言わねえよ。飯食えないなら別のもん出せって言えばいいし、眠れないなら――まあ、眠れないのはどうすりゃいいか知らねえけど」


「はい」


「少なくとも、怒らねえよ」


そこまで言って。


今朝の自分を思い出した。


――一回黙れ!


エルンストは片手で顔を覆った。


「……怒ったな」


「今朝は」


「うるさい」


家令は黙った。


「俺も悪かったよ」


認めるしかない。


「でも、あいつも悪い」


「左様でございますか」


「そうだよ。言わなきゃ分かんねえよ」


それだけは譲れない。


自分は察しのいい人間ではない。


言われてもいないことを全部読み取れと言われても無理だ。


だが。


言わなかったコーネリアが悪い。


言わせるような空気を作らなかった自分も悪い。


たぶん、その両方なのだろう。


「……起きたら話す」


「奥様と?」


「他に誰がいるんだよ」


何を話せばいいのかは、まだ分からない。


まず体調のことを聞く。


なぜ言わなかったのか。


それから。


今朝、なぜあんなに謝っていたのか。


なぜ腕を掴んだだけで、あんな顔をしたのか。


聞かなければならないことが、急に増えた。


エルンストは机の上の報告書へ視線を戻した。


「これ、借りるぞ」


「もともと旦那様のものでございます」


「……知ってるよ」


今度こそ、ちゃんと読むことにした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。