1-4 ある朝
その朝、食堂へ入ってきたコーネリアを見て、エルンストは眉を寄せた。
「おはようございます、旦那様」
「おう。……コーネリア?」
返事はいつも通りだった。
服装も淡い金の髪もきちんと整えられている。歩き方も、この一か月ですっかり見慣れた、妙に慎重で静かなものだ。
だが、何かがおかしかった。
顔色が悪い。
それだけなら、以前から時々あった。
元々白い女だし、食も細い。朝が弱いのか、ぼんやりしている日もある。
今日もそれだろうかと思ったが、席へ向かうコーネリアを見ていると、どうにも違和感が消えなかった。
歩くのが、妙に丁寧すぎる。
一歩ずつ、足を置く場所を確かめているように見える。
椅子の前まで来て、いつも通り腰を下ろした。
「……お前、大丈夫か?」
「はい」
即答だった。
だからエルンストも、それ以上は聞かなかった。
朝食が運ばれてくる。
コーネリアはパンを小さくちぎり、口へ運んだ。
それきり、しばらく動かない。
「今日は俺、公務はないから」
「はい」
「午後からちょっと出るけど。戻りは夕方になると思う」
「承知しました」
返事はする。
だが、何となくおかしい。
「だから、昼は要らない」
「はい」
「……コーネリア」
「はい」
エルンストはナイフを置いた。
「聞いてた?」
「承知しました」
答えになっていない。
「いや、何を承知したんだよ」
コーネリアがこちらを見た。
じっと見ている。
またか、と一瞬思った。
この一か月、何度もあった。
何か言いたげな顔をしてこちらを見て、聞けば何でもないと言う。こちらが苛立てば謝る。
正直、あれは好きではなかった。
だが、今日は少し違った。
目が合っていない。
こちらを向いてはいるのに、視線が微妙にずれている。
「おい」
「……はい」
遅い。
「やっぱり具合悪いんじゃないのか」
「申し訳ありません。もう一度お願いできますか」
「だから、具合悪いのかって聞いてんだよ」
コーネリアは黙った。
聞いているのかいないのか分からない。
そのうち何度か瞬きをして、ようやくこちらを見た。
「コーネリア?」
「はい」
返事をした、その直後だった。
身体が傾いた。
ほんのわずかだった。
すぐに椅子を掴んで戻ったから、見間違いかと思う程度の動きだった。
だが、さすがにエルンストも席を立った。
「おい」
テーブルを回る。
コーネリアのそばまで行くと、ますます顔色が悪いのが分かった。
白い、というより青い。
唇にもほとんど色がない。
「お前、本当に具合悪いだろ」
コーネリアがこちらを見上げる。
「……」
「聞いてるか?」
反応がない。
「コーネリア」
「……申し訳、ありません」
「は?」
「申し訳ありません」
またそれだ。
エルンストは眉間に力を入れた。
「何がだよ。具合悪いのかって聞いてるだけだろ」
「申し訳ありません。少し……聞き取りにくくて」
「聞こえないのか?」
そう聞いたのに、コーネリアはまた謝った。
「申し訳ありません」
「だから謝るなって」
「申し訳ありません」
「コーネリア」
「申し訳ありません」
「おい」
何だ、これは。
明らかに会話になっていない。
顔色が悪い。
視線もおかしい。
ふらついた。
そのうえ、何を聞いても謝る。
心配より先に、苛立ちが出た。
「一回黙れ!」
コーネリアの肩が大きく跳ねた。
エルンストは一瞬言葉を止めた。
何だ。
そんなに大声を出したつもりは――いや、出したか。
だが、それにしても反応がおかしい。
コーネリアは青ざめた顔でこちらを見ていた。
いや。
怯えている。
「申し訳ありません」
「いや、だから――」
「申し訳ありません」
「お前、ちょっと待て」
「ちゃんと、いたしますので」
「何を?」
意味が分からない。
「申し訳ありません。わたくし、もっと――」
「だから一回黙れって!」
今度は逃げられないように腕を掴んだ。
驚くほど細かった。
「コーネリア!」
焦点のずれた青銀の瞳が大きく見開かれた。
まずい、と思った。
何がまずいのかは分からなかった。
ただ、明らかに様子がおかしい。
「お前、俺の声――」
コーネリアの身体から、突然力が抜けた。
「――え」
腕の中へ落ちてくる。
「おい」
返事がない。
「コーネリア?」
ぐったりしている。
「……おい」
冗談ではない。
「コーネリア!」
頬を叩こうとして、やめた。
顔が白い。
目を閉じている。
呼吸は――ある。
ある。
「誰か!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
すぐに扉が開いた。
「旦那様?」
「医者! 医者呼べ! 早く!」
「奥様!?」
侍女が駆け寄ってくる。
「急に倒れた。寝かせる」
「こちらへ――」
「俺が運ぶ」
身体を抱き上げた。
そして。
「……は?」
思わず声が出た。
軽い。
予想していた重さが、腕の中に来なかった。
勢いをつけすぎて、抱き上げた自分の身体がわずかに後ろへ揺れたほどだった。
元々、小さい女だとは思っていた。
初めて見た時からそうだ。
自分とは頭一つ以上違う。肩も細い。腕も細い。
それでも、これは。
「……おい」
抱き直す。
軽い。
やはり軽い。
ドレスの下に人間の身体がちゃんと入っているのかと、馬鹿なことを考えた。
「旦那様、寝室へ」
「あ、ああ」
歩き出す。
コーネリアの頭が胸元へ傾いた。
何の抵抗もない。
いつもは異様なほど背筋を伸ばしている身体が、今は腕の中で完全に力を失っている。
こんなに小さかったのか。
こんなに軽かったのか。
エルンストは初めて、それを実感した。
階段を上がる。
揺らさないように気をつけても、いつもの歩幅では大きすぎる気がして、自然と足が遅くなった。
「医者は!?」
「ただいま使いを出しております!」
「急がせろ!」
「はい!」
寝室へ入る。
寝台へ下ろそうとして、エルンストは一瞬手を止めた。
コーネリアは目を覚まさない。
呼吸はしている。
それでも、妙に浅く見えた。
「……何なんだよ」
朝まで普通だった。
いや。
普通ではなかった。
最初から顔色が悪かった。
話を聞いていなかった。
いや、聞いていなかったのではない。
本人が言っていた。
聞き取りにくい、と。
ふらついた。
それを見て自分は近寄った。
具合が悪いのかと聞いた。
なのに、なぜか謝り始めた。
こちらが何を言っても、謝った。
最後には。
――ちゃんと、いたしますので。
「……何をだよ」
小さく呟いた。
何をちゃんとするつもりだったのだ。
そもそも。
なぜ、あんな顔をした。
腕を掴んだ時。
コーネリアは、エルンストを見ていた。
怒っているようでもなかった。
反抗しているようでもなかった。
あれは。
「……怖がってた?」
自分で口にして、意味が分からなくなった。
なぜ。
何を。
誰を。
侍女が濡らした布を持って戻ってきた。
「旦那様、こちらは私が」
「ああ」
場所を譲る。
侍女がコーネリアの額へ手を当てた。
その顔が変わった。
「熱い……」
「熱?」
「はい。かなり」
エルンストも額へ触れた。
熱かった。
こんなに熱があるのに、普通に食堂まで来たのか。
いや、普通ではなかった。
今思えば最初から、どこを取っても普通ではない。
それなのに。
「……大丈夫かって聞いたら、はいって言ったぞ」
思わず言った。
侍女が振り返った。
「奥様が、ですか?」
「ああ」
何かおかしいのか。
「大丈夫かって聞いたら、はいって答えた」
だから最初は放っておいた。
侍女は何も言わなかった。
ただ、寝台の上のコーネリアを見た。
その沈黙が妙に引っかかった。
「……何だよ」
「いえ」
「何かあるなら言えよ」
また沈黙。
今朝だけではない。
最近、この家の使用人は自分に対して妙に歯切れが悪い。
「何だ」
少し強く言うと、侍女は迷ってから口を開いた。
「……奥様は、このところ、あまりお食事を召し上がれておりませんでしたので」
「は?」
「ですから、胃に負担の少ないものを厨房へお願いしておりました」
初耳だった。
「……いつから?」
侍女は答えなかった。
その代わりに、ひどく言いにくそうな顔をした。
嫌な予感がした。
「いつからだよ」
寝台の上では、コーネリアがまだ目を覚まさない。
エルンストは、さっき抱き上げた時の軽さを思い出した。
そして初めて。
自分がこの一か月、何かをずっと見落としていたのではないかと思った。
医師が来たのは、それからほどなくしてだった。




