1-3 大丈夫、ちゃんとやれる
目を覚ました瞬間、今日は少し違うと思った。
まだ目を開ける前から、頭が痛かった。
いつもの鈍い頭痛ではない。頭蓋の内側から押し広げられているような痛みが、脈に合わせて何度も響いている。
コーネリアは目を閉じたまま、ゆっくり息を吸った。
大丈夫。
感覚を遠ざければいい。
いつものように魔力を巡らせる。
頭痛が少し遠くなる。
身体強化も重ねる。
起き上がろうとして、腕に力を入れた。
「……っ」
胃がひっくり返るような吐き気が込み上げた。
口元を押さえ、しばらく動きを止める。
吐かなかった。
なら、大丈夫だ。
もう一度魔力を整える。
身体を起こす。
今度はできた。
寝台の端へ座り、呼吸を整える。
その途中で、ふっと肩から力が抜けた。
「あ……」
身体強化が薄れていた。
慌ててかけ直す。
おかしい。
コーネリアは眉を寄せた。
身体強化など、意識して維持するような魔術ではなかった。
幼い頃から使っている。
立つ時。
歩く時。
剣を振る時。
鎧を着る時。
眠っている間を除けば、ほとんど身体の一部のように使い続けてきた。
コーネリアにとっては息をするのと大して変わらない。
それなのに、今日は少し気を抜くだけで術式がほどけそうになる。
「……」
もう一度。
身体強化。
感覚鈍化。
できる。
まだ使える。
ならば大丈夫だ。
立ち上がる。
視界が暗くなった。
すぐ寝台の柱へ手をついた。
待つ。
戻る。
「……大丈夫」
声に出した。
呼吸が浅い。
一度、大きく吸う。
ゆっくり吐く。
もう一度。
目を閉じる。
吸って。
吐いて。
「大丈夫です」
目を開ける。
立てている。
歩ける。
今日は何をするのだったか。
午前中に昨日の書類を確認する。
家令から来週の予定を聞く。
午後は――。
そこまで考えて、少し安心した。
やることが分かれば大丈夫だった。
ちゃんとやれる。
今日も、昨日と同じように。
コーネリアは身支度を始めた。
侍女が来る頃には、いつも通り椅子へ座っていた。
「おはようございます、奥様」
「おはようございます」
間違えなかった。
声も普通だったと思う。
侍女が鏡越しにこちらを見た。
「奥様、今日は――」
「髪はいつも通りでお願いします」
先に言った。
侍女が少し黙った。
「……かしこまりました」
藁色の髪に丁寧に香油を振り、櫛を通してくれる。
鏡の中には昨日より自然に座る淑女が見えた。
よかった。
今日も、ちゃんと始められた。
朝食の席にも時間通りに着いた。
エルンストはすでに座っていた。
「おはようございます、旦那様」
「おう。……コーネリア?」
返事が少し遅れた。
名前を呼ばれたことは分かった。
「はい」
椅子へ座る。
目の前に朝食が並べられる。
匂いを嗅いだ瞬間、胃が大きく縮んだ。
「……っ」
コーネリアは表情を変えないようにした。
パンなら食べられるだろう。
小さくちぎる。
口へ入れる。
噛む。
飲み込む。
大丈夫。
もう一口。
向かいでエルンストが何か話し始めた。
「今日は――」
聞かなければ。
顔を上げる。
「……午後から……」
今日は公務が休みだと言っているらしい。
午後からはどこかへ出かける。
聞き取らなければ。
妻なのだから、夫の予定くらい把握しておくべきだ。
「はい」
頷く。
「承知しました」
ちゃんと言えたと思う。
ところが、エルンストの眉間に皺が寄った。
何か間違えただろうか。
「……お前……」
声が遠い。
いつの間にか、耳の奥で、高い音がしていた。
キィン、と細い音が途切れず続いている。
エルンストの声と重なって、言葉がよく聞き取れない。
「申し訳ありません。もう一度お願いできますか」
言えた。
大丈夫。
聞き直すくらいなら、おかしくない。
エルンストが何か言う。
聞こえない。
口は動いている。
「……悪……?」
何と言ったのだろう。
顔を見れば分かるかもしれない。
そう思って見つめる。
けれど顔がよく見えなかった。
焦点が合わない。
一度瞬きをする。
もう一度。
少しましになった。
濃い色の瞳が鋭くなるのが分かる。
「コーネリア?」
呼ばれた。
たぶん。
「はい」
返事をする。
その瞬間、身体が傾いた。
床が動いたような気がした。
椅子の端を掴む。
戻さなければ。
身体強化。
一瞬、魔術がうまく組めない。
違う。
もう一度。
身体強化。
身体が戻る。
大丈夫。
今のは見られただろうか。
顔を上げる。
エルンストがいなかった。
「……?」
違う。
目の前にいた。
いつの間に席を立ったのか、すぐそばまで来ている。
怖い顔をしていた。
「――――」
何か言っている。
聞こえない。
耳鳴りがうるさい。
口の動きも読めない。
「……申し訳、ありません」
とりあえず謝った。
エルンストの眉間の皺が深くなった。
何か言う。
聞き取れない。
「申し訳ありません」
違う。
何を間違えた。
朝食を残したからか。
返事がおかしかったのか。
話を聞いていなかったから。
旦那様が話しているのに。
聞かなければならないのに。
「申し訳ありません。少し……聞き取りにくくて」
エルンストの口が動く。
何か強い声を出したことだけは分かった。
身体が勝手に強張った。
「申し訳ありません」
また言った。
何を言えばいい。
どうすればいい。
ちゃんとしなければ。
今日はまだ何もできていない。
朝食すらまともに食べていない。
話も聞けていない。
こんなこともできないなら。
足元に穴が開いた。
「――コーネリア」
今度は名前だけ聞こえた。
怖い顔をしている。
怒っている。
当然だった。
一か月もかけて、ようやく少しできるようになったのに。
今日の自分は何もできていない。
「申し訳ありません」
エルンストの手が伸びてきた。
腕を掴まれた。
びくりと身体が跳ねた。
「――――!」
何か言われた。
聞こえない。
でも、怒っている。
腕を掴まれている。
もういい。
出ていけ。
頭の中で、声がした。
違う。
まだ言われていない。
けれど。
とうとう。
本当に。
追い出される。
「申し訳、ありません」
息がうまく吸えなかった。
「ちゃんと、いたしますので」
エルンストの顔が歪んだ。
怒っている。
「申し訳ありません。わたくし、もっと――」
視界が暗くなった。
まず端が消えた。
次にエルンストの顔が見えなくなった。
身体強化を。
かけ直さなければ。
「……だい、じょうぶ……」
魔力へ意識を向ける。
掴めない。
術式がほどける。
駄目。
今、切れたら。
ちゃんと立っていなければ。
追い出される。
「コーネリア!」
声が聞こえた。
今度は、はっきり。
その直後。
何も見えなくなった。




