4-2 鐘の音
けたたましい鐘の音に、ルートヴィヒは飛び起きた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
暗い自室。窓の外もまだ夜の色を残している。その中を、聞き慣れないほど激しい音が響いていた。
否。
聞き慣れないのではない。
聞くことがないようにと、願っていた音だ。
「――旦那様」
寝台から降りる。上着を羽織ることすらせず、ルートヴィヒは扉を開けた。
廊下の向こうでも扉が開く音がする。何事かと顔を出す使用人を押し退けるようにして、エルンストの寝室へ走った。
「旦那様!」
返事はない。
角を曲がったところで、寝室の扉が開いているのが見えた。
その前に立つ護衛の姿も。
「何があった!」
「侵入者です!」
返答を聞き終えるより早く、ルートヴィヒは部屋へ飛び込んだ。
最初に見えたのは、床に倒れた男だった。
黒い衣服。手から離れた剣。すでに護衛の一人がその傍らに膝をついていたが、確認するまでもない。喉元から流れた血が床へ広がっている。
死んでいる。
けれど、そんなものはどうでもよかった。
寝台。
ルートヴィヒはそちらを見た。
一瞬、何を見ているのか理解できなかった。
エルンストが横たわっている。
その上に、小さな身体が覆いかぶさっていた。
白かったはずの寝衣が、赤い。
背中の大部分が血に濡れていた。裂けた布の下からさらに血が溢れ、寝具にまで広がっている。
「奥様……?」
声が漏れた。
護衛が一人、寝台の脇に膝をつき、両手でコーネリアの背中を押さえている。
「家令殿、奥様が!」
「医師は!」
「まだです!」
「呼べ! 今すぐだ! 何をしている、人を呼べ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「医師を起こせ! 使用人もだ! 湯と布を用意させろ! 早く!」
「はっ!」
護衛の一人が駆け出していく。
ルートヴィヒは寝台へ近づいた。
「旦那様」
返事がない。
「旦那様!」
肩へ手を伸ばしかけ、止めた。
コーネリアがエルンストへ覆いかぶさっている。
意識はない。
それなのに右手だけが、エルンストの肩口の寝衣を固く握りしめていた。
白くなるほど指へ力が入っている。
「奥様」
呼んでも反応しない。
だが、まず確認しなければならない。
ルートヴィヒはコーネリアの身体を極力動かさないよう身を乗り出し、その下にいるエルンストへ手を伸ばした。
首筋に指を当てる。
脈がある。
胸元へ目を凝らす。
呼吸もしている。
「……っ」
肺に溜まっていた息が、一気に抜けた。
生きている。
少なくとも、最悪ではない。
外から見える範囲に大きな傷もない。血のほとんどは、エルンストのものではない。
それが分かった途端、今度は目の前の赤が、はっきりと意味を持った。
「奥様」
ルートヴィヒはその肩へ触れた。
「奥様、聞こえますか」
反応がない。
「コーネリア様!」
少し強く呼ぶ。
護衛が押さえている背中からは、まだ血が滲み続けている。
「奥様!」
もう一度。
「目を開けてください!」
指が動いた。
エルンストの寝衣を握っている右手ではない。反対の手が、ほんのわずかに寝具を掻いた。
「奥様」
「……っ……」
微かな息が漏れた。
ゆっくりと瞼が開く。
焦点の合わない青銀の瞳が、しばらく何もないところを見ていた。
「奥様。分かりますか。ルートヴィヒです」
「……ルー……ト……?」
「はい。ここにおります」
ようやく視線がこちらへ動く。
意識が戻った。
そう思った瞬間、コーネリアの顔が歪んだ。
「――っ……!」
声にはならなかった。
息を呑み、唇をきつく噛む。
身体が小さく震えた。
「動かないでください」
ルートヴィヒが言うより先に、護衛も声を上げる。
「奥様、まだ血が止まっておりません!」
「……分かって、います」
掠れた声だった。
それから、コーネリアは目を閉じた。
「奥様?」
また意識を失ったのかと思った。
違った。
何かが変わった。
ルートヴィヒに魔術の細かな流れを読み取る技量はない。それでも、目の前で何かが行われていることくらいは分かる。
コーネリアの呼吸が変わった。
浅く乱れていた息を、意識して整えている。
震えていた身体から、少しずつ余計な力が抜けていく。
「……まさか」
治癒。
自分自身へ治癒術を使っている。
これほどの傷で。
これほど血を失い、つい今しがたまで意識を失っていた状態で。
ルートヴィヒは息を呑んだ。
護衛も気づいたのだろう。背中を押さえていた手元を見て、目を見開いた。
「血が……」
流れが弱くなっている。
傷が完全に消えたわけではない。
けれど、先ほどまで指の隙間から溢れていた血が、目に見えて減っていく。
ほんの一分ほどだった。
コーネリアが長く息を吐いた。
それから目を開く。
「……もう、大きな出血はないかと」
声は弱い。
顔色も悪い。
寝衣は血に染まり、髪にも頬にも赤いものがついている。
どこからどう見ても、今すぐ寝台へ横たえて医師に診せるべき人間だった。
なのに、その顔から先ほどまでの苦痛が消えていた。
いつものような、妙に平静な表情で。
「奥様?」
コーネリアはルートヴィヒを見ていなかった。
視線は、自分の腕の中へ向いている。
そこでようやくルートヴィヒは気づいた。
意識を取り戻してからも、彼女の右手は一度もエルンストの寝衣を離していない。
「……旦那様、は」
「旦那様?」
「ご無事、ですか」
「……はい」
ルートヴィヒは答えた。
「呼吸も脈もございます。見たところ、お怪我もないようです」
コーネリアの瞼が、一度ゆっくりと閉じた。
「……よかった」
小さく呟く。
それだけだった。
なぜ起きないのか。
どうしてこの騒ぎの中で眠ったままなのか。
聞かなければならないことはいくらでもある。
だが今は、医師を待つしかない。
廊下から慌ただしい足音が近づいてくる。
「医師が参りました!」
「こちらです!」
ルートヴィヒは声を返した。
そして、もう一度寝台を見る。
眠ったままのエルンスト。
その上で、全身を血に染めた小さな奥方。
たった今、背中を深く斬られて意識を失っていたはずなのに、すでに自分の傷から意識を外し、夫の状態だけを見ている。
その姿を見ながら、ルートヴィヒは改めて思った。
この半年間、エルンストと何度か話したこと。
――この人は、放っておいてはいけない。
医師が部屋へ飛び込んできた。




