4-1 安全な寝室
同じ寝室で眠るようになって、もう随分経った。
最初の頃は、隣に誰かがいるというだけで何度も目を覚ました。エルンストが寝返りを打てば気づいたし、掛布が擦れる音にも反応した。目が覚めるたびに時刻を考え、翌日の予定を思い出し、まだ起きる時間ではないと分かってから、もう一度目を閉じていた。
けれど最近は、それも減っている。
夜中に一度も目を覚まさず、朝まで眠る日さえあった。
目が覚めても、隣からエルンストの呼吸が聞こえれば、それでよかった。何も起きていない。まだ眠っていていい。そう思って、もう一度目を閉じられるようになった。
寝室の警備も見直した。
最初の襲撃以降、屋敷の警備体制にはいくつもの変更が入っている。巡回の経路、時間、夜間の人員配置。寝室から警備の詰所へ直接異常を知らせる呼び鈴も確認した。
エルンストと同じ寝室を使えば、守るべき場所も一つになる。
だからここは、以前よりずっと安全なはずだった。
その夜、コーネリアは夢を見なかった。
深く眠っていた。
だから。
目を覚ますのが、ほんの少し遅れた。
何がきっかけだったのかは分からない。
音がしたような気もする。
床板が僅かに鳴ったのかもしれない。あるいは、閉じていた空気が動いたのか。
コーネリアは目を開けた。
まだ暗い。
窓から差し込む月明かりだけが、寝室の床を淡く照らしている。
一瞬。
いつものように、隣から呼吸が聞こえた。
旦那様がいる。
そう認識して、もう一度目を閉じかけた。
その時だった。
月明かりが、途切れた。
コーネリアの目が開く。
人影があった。
寝室の中に。
考えるより先に身体が動いた。
上体を起こす。
その動きに気づいたのか、人影も止まった。
窓から入る僅かな光を、鈍いものが反射する。
剣。
眠気が消えた。
「旦那様!」
声を上げると同時に、コーネリアは寝台を降りた。
身体強化をかける。
男がこちらを向いた。
顔の下半分を布で覆っている。
知らない顔だった。
少なくとも、屋敷の使用人や警備兵として見覚えはない。
コーネリアは男と寝台の間へ入った。
「旦那様、起きてください!」
返事がない。
男が踏み込んだ。
剣が横薙ぎに振られる。
コーネリアは半歩下がって刃を避け、そのまま男の外側へ回った。
追撃。
今度は身体を沈める。
頭上を剣が通過した。
遅い。
そう思った。
グレアムよりずっと遅い。
剣筋も読める。
間合いも分かる。
武器さえあれば、難しい相手ではない。
武器がなくても。
寝台には厚い掛布がある。椅子もある。燭台もある。布を腕へ巻いて刃を受けてもいい。相手の手首を取ることも、おそらくできる。
倒せる。
そう判断したところで。
別の言葉が浮かんだ。
――一人で戦うな。
エルンストに言われた言葉だった。
前回の襲撃の後、何度も言われた。
危険なことをするなとは言わない。
お前が戦えることも分かった。
それでも、何かあったらまず人を呼べ。
一人で全部やろうとするな。
そう言われた。
「旦那様!」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
おかしい。
いつものエルンストなら、最初の声で目を覚ます。
朝は寝台からなかなか出たがらないが、目覚めそのものが悪いわけではない。それをコーネリアはもう知っている。
まして今は、自分が大声を上げている。
男の剣が寝台の柱を掠め、硬い音を立てた。
それでも。
エルンストは動かなかった。
寝返りさえ打たない。
「旦那様……?」
ほんの一瞬、そちらへ意識が向いた。
男が踏み込む。
コーネリアは身体を捻った。
刃が寝衣の袖を掠める。
そのまま反撃しかけて。
止めた。
まず、人を呼ぶ。
エルンストの声が蘇った。
寝室の入口を見る。
呼び鈴は扉の脇にある。
壁際から垂れた紐を引けば、警備の詰所で鐘が鳴る。
第一の襲撃の後、自分でも確認した。
寝台から、およそ十メートル。
普段なら数秒もかからない距離だった。
コーネリアは床を蹴った。
男が追う。
背後で足音。
振り向かない。
扉まで半分。
男が横から回り込んできた。
剣が振られる。
身を沈める。
そのまま抜けようとしたところで、肩からぶつかられた。
「っ……」
身体が弾かれる。
床へ片手をついた。
すぐに立つ。
痛みはない。
問題ない。
寝台を見る。
エルンストは、まだ同じ姿勢で眠っていた。
胸が規則正しく上下している。
呼吸はしている。
けれど、静かすぎる。
いつもの寝息ではなかった。
最近は、夜中に目を覚ました時、その呼吸を聞いて、安心していた。
眠っている。
ここにいる。
何も起きていない。
だから、自分も眠っていい。
そう思えた。
けれど今は。
呼んでも起きない。
家具が鳴っても起きない。
剣が柱へ当たっても、身じろぎ一つしない。
眠りが深いだけではない。
胸の奥が、すっと冷えた。
「……薬」
小さく声が漏れた。
いつ。
夕食か。
その後に飲んだものか。
寝る前か。
分からない。
考えている暇はなかった。
男がまた来る。
コーネリアは横へ避けた。
今度は椅子を蹴り倒す。
男との間へ滑り込んだ椅子が、足を止める。
その隙に走る。
呼び鈴へ。
あと五メートル。
おかしい。
そう思った。
ここまで音を立てている。
自分は何度も叫んだ。
剣も家具も音を立てた。
それなのに、廊下から誰も来ない。
夜間の警備配置は確認した。
寝室の周囲から完全に人がいなくなる時間はない。
巡回の間隔も短くした。
何かあれば、すぐに誰かが来る。
そのために変えた。
変えたはずだった。
男が椅子を蹴り退けた。
コーネリアは扉を見る。
誰も来ない。
旦那様も起きない。
警備も来ない。
偶然ではない。
外から侵入した男が一人いる。
それだけではない。
屋敷の中で、何かが起きている。
その可能性を認識した瞬間、頭の中でいくつもの選択肢が開いた。
男を倒す。
剣を奪う。
窓から外へ出る。
エルンストを抱えて逃げる。
誰が敵か分からない以上、警備そのものを信用しない。
どれもできる。
少なくとも、試すことはできる。
けれど。
――まず、人を呼べ。
エルンストの声が、記憶の中で響いた。
一人で戦うなと言われた。
まず人を呼べと。
この屋敷の全員が敵だと決まったわけではない。
警備の詰所まで掌握されているとも限らない。
呼び鈴が鳴れば、誰かが来るかもしれない。
旦那様が、そうするようにと言ったのだ。
ならば。
まずは、呼ばなければならない。
男が踏み込んでくる。
コーネリアは寝台へ手を伸ばした。
厚い掛布を掴み、一気に引き剥がす。
眠ったままのエルンストの身体が露わになった。
ほんの一瞬、躊躇する。
寒いかもしれない。
そんな考えが浮かんだ自分に、コーネリアは驚いた。
今は、それどころではない。
広げた掛布を男へ投げつける。
視界が塞がれた。
その瞬間、脚へ強化を集中させる。
床を蹴った。
一気に加速する。
あと五メートル。
背後で布が裂ける音。
あと三メートル。
風を切る音が近づく。
避ければ、呼び鈴から離れる。
コーネリアは前へ出た。
左肩に熱が走った。
「っ……!」
身体が揺れる。
寝衣が裂け、遅れて鋭い痛みが来た。
温かいものが腕を伝う。
浅い。
腕は動く。
なら、問題ない。
あと二歩。
壁へ身体ごと飛び込むようにして、手を伸ばす。
指先が紐へ触れた。
掴む。
そのまま、力いっぱい引いた。
壁の中で、仕掛けが動く感触がした。
遠く。
ほんの僅かに。
鐘の音が聞こえた気がした。
「……届いた」
息を吐く。
これで、人が来る。
そう思った。
次の瞬間。
背後の足音が、遠ざかった。
コーネリアは振り返る。
男がこちらを見ていない。
向かっているのは。
寝台。
眠ったままのエルンスト。
コーネリアの呼吸が止まった。
男が剣を持ち上げる。
その刃の下で、エルンストはまだ静かに眠っていた。
「――旦那様!」
何も考えなかった。
人を呼べとも。
一人で戦うなとも。
自分が武器を持っていないことも。
身体強化を限界まで引き上げる。
床を蹴った。
十メートルの距離が、一瞬で消えた。
男の剣が振り下ろされる。
間に合わない。
剣を受けるものはない。
逸らす時間もない。
コーネリアはそのまま寝台へ飛び込んだ。
エルンストの身体へ覆いかぶさる。
眠ったままの頭を胸元へ抱き込み、首と胸を自分の身体で隠す。少しでも覆える範囲を広げるように、背中を男へ向けた。
直後。
背中を、何かが走った。
熱い、と感じたのは最初だけだった。
次の瞬間には、身体の奥まで突き抜けるような激痛に変わった。
「――っ、ぁ……!」
息が止まる。
視界が白くなる。
身体が大きく揺れた。
腕から力が抜けそうになる。
けれど、離してはいけない。
コーネリアはエルンストの頭を抱えたまま、さらに身体を丸めた。
痛い。
背中なのは分かる。
深い。
呼吸をすると、傷の奥まで引き攣れるように痛む。
温かいものが急速に寝衣を濡らしていく。
それでも。
腕の中にあるエルンストの頭には、何も当たっていない。
首も。
胸も。
自分の身体で隠せている。
もう一度、剣が来るかもしれない。
守らなければ。
身体を起こさなければ。
男の位置を確認して。
次は。
そう考えたはずだった。
けれど、身体が動かなかった。
強化がうまく入らない。
指先の感覚が遠い。
視界の端から、急速に暗くなっていく。
まずい。
そう思った。
意識を失えば、旦那様を守れない。
「だん、な……」
声が続かなかった。
その時。
遠くで扉が開く音がした。
誰かが叫んでいる。
一人ではない。
複数の足音が、寝室へ雪崩れ込んでくる。
金属のぶつかる音。
怒号。
誰かが自分の名を呼んだ気がした。
来た。
呼び鈴は、届いた。
それなら。
旦那様は。
コーネリアは腕の中の身体を確かめようとした。
指に力を込める。
動かなかった。
けれど。
頬のすぐそばで、呼吸が聞こえた。
静かな呼吸。
いつも、夜中に目を覚ました時に聞いていたものとは少し違う。
不自然なほど深く。
呼んでも、揺すっても目を覚まさなかった呼吸。
それでも。
息をしている。
生きている。
旦那様は、ここにいる。
よかった。
その一つだけを残して、コーネリアの意識は途切れた。
読んで頂きありがとうございます!




