4-3 旦那様を先に
医師が寝室へ駆け込んできた頃には、ネルはすでに身体を起こしていた。
寝台の上、エルンストのすぐ隣に座っている。
背中の寝衣は広い範囲が血に染まり、肩口にも赤い跡が残っていた。顔色も悪い。それでも先ほどまで意識を失っていた人間とは思えないほど姿勢は安定している。
治癒を終えたあと、身体強化も使っているのだろう。
エルンストの寝衣を握りしめていた右手は、もう離れていた。
けれど、視線だけは離れていない。
「奥様!」
医師が鞄を開きながら寝台へ駆け寄る。
「傷を見せてください。どこを斬られました」
「わたくしは止血しております」
「止血しているかはこちらで確認します。まず横になって――」
「先生」
コーネリアはエルンストを見たまま言った。
「旦那様を先にお願いいたします」
医師が止まる。
「……旦那様を?」
「お目覚めになりません」
ルートヴィヒもエルンストへ目を向けた。
「私が駆けつけた時からです。呼びかけにも反応がありません。呼吸と脈は確認しております」
「いつからこの状態か分かりますか」
「分かりません」
答えたのは視線をエルンストに向けたままのコーネリアだった。
「わたくしが目を覚ました時には、すでにお休みになっておりました。その後、何度もお呼びしました。かなり大きな音もしております。それでも一度もお目覚めになっておりません」
「酒は?」
「昨夜は召し上がっておりません」
ルートヴィヒが答える。
「眠りを深くする薬などは」
「使用されておりません」
医師は二人を見比べた。
目の前には明らかな重傷者がいる。
しかし、その重傷者自身が止血を済ませて座り、もう一人は外傷こそ見当たらないものの、原因不明のまま意識を失っている。
医師は短く息を吐いた。
「分かりました。旦那様から診ます。ただし奥様、動かないでください」
「はい」
ネルは即答した。
医師がエルンストの傍らへ移る。
瞼を持ち上げ、瞳を確認する。首筋へ指を当て、胸の動きを見る。
コーネリアはその手元を見つめていた。
瞬きすら少ない。
「脈は安定しています」
医師が言う。
コーネリアの表情は変わらない。
「呼吸も問題ありません」
「なぜ、お目覚めにならないのでしょう」
「それを今から確認します」
「……はい」
医師が口元へ顔を寄せ、さらに身体を調べる。
「旦那様は、夕食後に何か召し上がりましたか」
「寝る前に水を。それから、いつもの茶を飲まれたかと」
ルートヴィヒが答えた。
「残っているものは?」
「確認させます」
すぐに護衛へ命じる。
その間にも、コーネリアはエルンストを見ている。
医師へ質問するときだけ声がそちらへ向く。顔はほとんど動かない。
「先生。瞳の反応はいかがですか」
「異常はありません」
「呼吸が浅くなっている様子は」
「ありません」
「脈も先ほどと同じでしょうか」
「奥様」
医師が顔を上げた。
「はい」
「今、診ております」
「……申し訳ありません」
コーネリアは謝った。
それでも視線は動かなかった。
医師はしばらく診察を続けたあと、ようやく身体を起こした。
「断言はできませんが、何らかの眠り薬を摂取された可能性が高いでしょう」
コーネリアの指先が寝具の上でわずかに動いた。
「量は分かりますか」
「現時点では分かりません」
「いつ頃、お目覚めになりますか」
「それも薬の種類と量によります」
「……お命に、関わる可能性は」
その問いだけ、ほんの少し声が低かった。
医師も表情を改めた。
「現状、呼吸も脈も安定しています。瞳の反応にも問題はありません。今すぐ命に関わるような兆候は見られません」
「では」
「このまま状態が悪化しなければ、今日中にはお目覚めになる可能性が高いと思います。量が多ければ、もう少しかかることもありますが」
「明日には?」
「おそらく」
「……そうですか」
コーネリアが息を吐いた。
ほんの少しだけ肩が下がる。
それでも、エルンストから目を離さない。
「よかった……」
小さな声だった。
医師は一拍置いた。
「では、奥様」
「はい」
「今度はあなたです」
「わたくしは止血しております」
「それは聞きました」
「傷の場所も把握しております」
「それも結構です。診せてください」
コーネリアは一瞬黙った。
視線だけが、眠るエルンストを追っている。
「……こちらで、でしょうか」
「可能な範囲はここで確認します」
「では、お願いいたします」
ようやく了承する。
医師はコーネリアの背後へ回った。
裂けた寝衣を慎重に開く。
傷を見た途端、顔が険しくなった。
「……これをご自身で?」
「はい」
「どこまで治癒しました」
「大きな血管の損傷を塞ぎました。深部も、出血が続かない程度には。筋肉は一部のみです。皮膚は後回しにしております」
医師がコーネリアの横顔を見る。
「よくそこまで正確に」
「自分の身体ですので」
コーネリアは淡々と答えた。
「痛みは?」
「あります」
「どの程度です」
「呼吸すると引き攣れます。動かせば強く痛みます」
「眩暈は」
「少し」
「吐き気は」
「吐くほどでは」
「手足の痺れは」
「ありません」
淡々と答えていく。
症状を隠している様子はない。
ただ、それらすべてが今のコーネリアにとって二番目の問題なのだ。
「かなり出血しています」
「はい」
「治癒術で血液そのものは戻りません」
「承知しております」
「でしたら――」
「先生」
コーネリアの声が重なった。
医師が止まる。
「旦那様の呼吸は、本当に問題ありませんか」
また、エルンストだった。
「……ないかと、思われます」
「途中で悪化する可能性は」
「あります。ですから継続して状態を確認します」
「どなたが」
「私が」
そこで初めて、ネルが医師を見た。
ほんの一瞬だけ。
「……お願いいたします」
すぐに視線はエルンストへ戻った。
ルートヴィヒは黙ってその様子を見ていた。
自分の背中を深く斬られた。
一度意識まで失った。
目を覚ました直後に自分で傷を塞ぎ、今も明らかな失血状態にある。
それでもこの人の中では、すでに自分の傷は処理済みなのだ。
原因が分かっている。
止血した。
治癒もした。
だから、今確認し続けるべきなのは、原因不明で眠っているエルンスト。
おそらく本人の中では、それだけの話なのだろう。
「奥様。傷を洗って、きちんと処置する必要があります」
医師が言った。
「はい」
「寝衣も替えていただかなければなりません」
「はい」
「別室へ移ってください」
そこでネルが止まった。
「……別室へ?」
「この状態では処置できません」
「ここでは難しいでしょうか」
「難しいです」
コーネリアは黙った。
やはりエルンストを見ている。
ルートヴィヒは少し考えた。
「奥様」
「はい」
「旦那様がお目覚めになった時、このお姿をご覧になれば、どう思われるでしょう」
コーネリアがわずかに眉を寄せた。
「この姿、ですか」
「はい」
血まみれの寝衣。
肩から背中までこびりついた赤。
青ざめた顔。
乱れた髪にも血が付いている。
「旦那様は、かなりご心配なさると思います」
ネルが黙った。
「……ご心配を」
「間違いなく」
視線が初めて、ほんの少しだけ自分自身へ落ちた。
肩口の血を見る。
それから、またエルンストを見ながら、口を開いた。
「処置には、どれほどかかりますか」
「傷の状態を確認しなければ何とも言えません」
「終わりましたら、こちらへ戻ってもよろしいでしょうか」
「奥様、まずはご自身の身体を――」
「ルートヴィヒ」
不意に呼ばれ、ルートヴィヒは顔を上げた。
「はい」
「旦那様がお目覚めになりましたら、すぐに知らせていただけますか」
「もちろんです」
「状態が変わった場合も」
「必ずお知らせします」
「……必ず、お願いいたします」
「はい」
「……では、旦那様がお目覚めになる前に、着替えることにいたします」
「その方がよろしいかと」
ようやくコーネリアが頷いた。
「治療をお願いいたします」
「はい」
医師が即答する。
コーネリアは即座に寝台から降りようとした。
「奥様、待ってください」
「?」
「歩かないでください」
「歩けます」
「そういう話ではありません」
「身体強化を使っておりますので、問題は――」
「使用しないでください」
医師の声が低くなる。
コーネリアが止まった。
「治癒術を使った直後です。その上、これだけ出血している。これ以上身体へ負担をかけないでください。担架を用意させます」
「ですが」
「ですが、ではありません」
コーネリアは少し考えた。
それから、背中へ手を回しかけて、途中でやめる。
「……担架に横になりますと、傷が当たります」
「横向きに運びます」
「揺れる方が痛みます」
「奥様」
「自分で歩けば、痛まない姿勢を保てます」
医師が言葉に詰まった。
「それに、歩いた方が早いです」
「早さの問題ではありません」
「旦那様がお目覚めになる前に戻りたいので、早い方がよろしいです」
話が戻った。
ルートヴィヒは額を押さえたくなった。
医師も同じ気持ちだったのだろう。一度目を閉じ、深く息を吸う。
「奥様。少なくとも身体強化は――」
「強化を切れば眩暈がありますので、転倒する可能性があります」
「でしたらなおさら歩いては――」
「転倒しないために使用しております」
「そういう使い方を今しないでいただきたいのです!」
とうとう医師の声が大きくなった。
コーネリアが少しだけ目を丸くする。
「……申し訳ありません」
謝った。
そして寝台から降りた。
「奥様!」
床へ足をつけ、一度だけ身体の状態を確かめるように止まる。
立てる。
歩ける。
それを確認すると、ネルは血まみれの寝衣のまま扉へ向かった。
「では先生、早く済ませましょう」
「奥様、待ってください!」
医師が慌てて鞄を掴む。
コーネリアは扉の前で一度だけ振り返った。
医師ではない。
やはり、見たのはエルンストだった。
「ルートヴィヒ」
「はい」
「旦那様を、お願いいたします」
「承知しております」
「何か変化がございましたら」
「すぐにお知らせします」
「……お願いいたします」
コーネリアは頷いた。
そして今度こそ廊下へ出ていく。
「奥様! ゆっくり歩いてください! せめて壁際を――ああ、もう!」
医師がそのあとを追っていった。
廊下の向こうから、
「眩暈は!」
「少しあります」
「少しでもあるなら急がないでください!」
「ですが、早く戻りたいので」
「だからそういう問題ではありません!」
そんなやり取りが遠ざかっていく。
ルートヴィヒはしばらく扉を見つめた。
それから、寝台へ目を戻す。
眠る弟。
その周囲に残る大量の血。
つい先ほどまで、そこに座っていた小さな奥方。
背中を斬られ、一度意識を失い、自分で傷を塞いで。
その直後には夫の容態を確認し、医師が来れば診察の順番まで決め、最後には医師を引き連れて自分の足で治療へ向かった。
「……まったく」
誰に向けたものなのか、自分でも分からない。
ただ一つだけ、よく分かった。
エルンストが目を覚ましたら。
今見たことを、どこから説明したものだろう。
ルートヴィヒは血に染まった寝具を見下ろし、小さく息を吐いた。医師が寝室へ駆け込んできた頃には、ネルはすでに身体を起こしていた。
寝台の上、エルンストのすぐ隣に座っている。
背中の寝衣は広い範囲が血に染まり、肩口にも赤い跡が残っていた。顔色も悪い。それでも先ほどまで意識を失っていた人間とは思えないほど姿勢は安定している。
治癒を終えたあと、身体強化も使っているのだろう。
エルンストの寝衣を握りしめていた右手は、もう離れていた。
けれど、視線だけは離れていない。
「奥様!」
医師が鞄を開きながら寝台へ駆け寄る。
「傷を見せてください。どこを斬られました」
「わたくしは止血しております」
「止血しているかはこちらで確認します。まず横になって――」
「先生」
コーネリアはエルンストを見たまま言った。
「旦那様を先にお願いいたします」
医師が止まる。
「……旦那様を?」
「お目覚めになりません」
ルートヴィヒもエルンストへ目を向けた。
「私が駆けつけた時からです。呼びかけにも反応がありません。呼吸と脈は確認しております」
「いつからこの状態か分かりますか」
「分かりません」
答えたのは視線をエルンストに向けたままのコーネリアだった。
「わたくしが目を覚ました時には、すでにお休みになっておりました。その後、何度もお呼びしました。かなり大きな音もしております。それでも一度もお目覚めになっておりません」
「酒は?」
「昨夜は召し上がっておりません」
ルートヴィヒが答える。
「眠りを深くする薬などは」
「使用されておりません」
医師は二人を見比べた。
目の前には明らかな重傷者がいる。
しかし、その重傷者自身が止血を済ませて座り、もう一人は外傷こそ見当たらないものの、原因不明のまま意識を失っている。
医師は短く息を吐いた。
「分かりました。旦那様から診ます。ただし奥様、動かないでください」
「はい」
ネルは即答した。
医師がエルンストの傍らへ移る。
瞼を持ち上げ、瞳を確認する。首筋へ指を当て、胸の動きを見る。
コーネリアはその手元を見つめていた。
瞬きすら少ない。
「脈は安定しています」
医師が言う。
コーネリアの表情は変わらない。
「呼吸も問題ありません」
「なぜ、お目覚めにならないのでしょう」
「それを今から確認します」
「……はい」
医師が口元へ顔を寄せ、さらに身体を調べる。
「旦那様は、夕食後に何か召し上がりましたか」
「寝る前に水を。それから、いつもの茶を飲まれたかと」
ルートヴィヒが答えた。
「残っているものは?」
「確認させます」
すぐに護衛へ命じる。
その間にも、コーネリアはエルンストを見ている。
医師へ質問するときだけ声がそちらへ向く。顔はほとんど動かない。
「先生。瞳の反応はいかがですか」
「異常はありません」
「呼吸が浅くなっている様子は」
「ありません」
「脈も先ほどと同じでしょうか」
「奥様」
医師が顔を上げた。
「はい」
「今、診ております」
「……申し訳ありません」
コーネリアは謝った。
それでも視線は動かなかった。
医師はしばらく診察を続けたあと、ようやく身体を起こした。
「断言はできませんが、何らかの眠り薬を摂取された可能性が高いでしょう」
コーネリアの指先が寝具の上でわずかに動いた。
「量は分かりますか」
「現時点では分かりません」
「いつ頃、お目覚めになりますか」
「それも薬の種類と量によります」
「……お命に、関わる可能性は」
その問いだけ、ほんの少し声が低かった。
医師も表情を改めた。
「現状、呼吸も脈も安定しています。瞳の反応にも問題はありません。今すぐ命に関わるような兆候は見られません」
「では」
「このまま状態が悪化しなければ、今日中にはお目覚めになる可能性が高いと思います。量が多ければ、もう少しかかることもありますが」
「明日には?」
「おそらく」
「……そうですか」
コーネリアが息を吐いた。
ほんの少しだけ肩が下がる。
それでも、エルンストから目を離さない。
「よかった……」
小さな声だった。
医師は一拍置いた。
「では、奥様」
「はい」
「今度はあなたです」
「わたくしは止血しております」
「それは聞きました」
「傷の場所も把握しております」
「それも結構です。診せてください」
コーネリアは一瞬黙った。
視線だけが、眠るエルンストを追っている。
「……こちらで、でしょうか」
「可能な範囲はここで確認します」
「では、お願いいたします」
ようやく了承する。
医師はコーネリアの背後へ回った。
裂けた寝衣を慎重に開く。
傷を見た途端、顔が険しくなった。
「……これをご自身で?」
「はい」
「どこまで治癒しました」
「大きな血管の損傷を塞ぎました。深部も、出血が続かない程度には。筋肉は一部のみです。皮膚は後回しにしております」
医師がコーネリアの横顔を見る。
「よくそこまで正確に」
「自分の身体ですので」
コーネリアは淡々と答えた。
「痛みは?」
「あります」
「どの程度です」
「呼吸すると引き攣れます。動かせば強く痛みます」
「眩暈は」
「少し」
「吐き気は」
「吐くほどでは」
「手足の痺れは」
「ありません」
淡々と答えていく。
症状を隠している様子はない。
ただ、それらすべてが今のコーネリアにとって二番目の問題なのだ。
「かなり出血しています」
「はい」
「治癒術で血液そのものは戻りません」
「承知しております」
「でしたら――」
「先生」
コーネリアの声が重なった。
医師が止まる。
「旦那様の呼吸は、本当に問題ありませんか」
また、エルンストだった。
「……ないかと、思われます」
「途中で悪化する可能性は」
「あります。ですから継続して状態を確認します」
「どなたが」
「私が」
そこで初めて、ネルが医師を見た。
ほんの一瞬だけ。
「……お願いいたします」
すぐに視線はエルンストへ戻った。
ルートヴィヒは黙ってその様子を見ていた。
自分の背中を深く斬られた。
一度意識まで失った。
目を覚ました直後に自分で傷を塞ぎ、今も明らかな失血状態にある。
それでもこの人の中では、すでに自分の傷は処理済みなのだ。
原因が分かっている。
止血した。
治癒もした。
だから、今確認し続けるべきなのは、原因不明で眠っているエルンスト。
おそらく本人の中では、それだけの話なのだろう。
「奥様。傷を洗って、きちんと処置する必要があります」
医師が言った。
「はい」
「寝衣も替えていただかなければなりません」
「はい」
「別室へ移ってください」
そこでネルが止まった。
「……別室へ?」
「この状態では処置できません」
「ここでは難しいでしょうか」
「難しいです」
コーネリアは黙った。
やはりエルンストを見ている。
ルートヴィヒは少し考えた。
「奥様」
「はい」
「旦那様がお目覚めになった時、このお姿をご覧になれば、どう思われるでしょう」
コーネリアがわずかに眉を寄せた。
「この姿、ですか」
「はい」
血まみれの寝衣。
肩から背中までこびりついた赤。
青ざめた顔。
乱れた髪にも血が付いている。
「旦那様は、かなりご心配なさると思います」
ネルが黙った。
「……ご心配を」
「間違いなく」
視線が初めて、ほんの少しだけ自分自身へ落ちた。
肩口の血を見る。
それから、またエルンストを見ながら、口を開いた。
「処置には、どれほどかかりますか」
「傷の状態を確認しなければ何とも言えません」
「終わりましたら、こちらへ戻ってもよろしいでしょうか」
「奥様、まずはご自身の身体を――」
「ルートヴィヒ」
不意に呼ばれ、ルートヴィヒは顔を上げた。
「はい」
「旦那様がお目覚めになりましたら、すぐに知らせていただけますか」
「もちろんです」
「状態が変わった場合も」
「必ずお知らせします」
「……必ず、お願いいたします」
「はい」
「……では、旦那様がお目覚めになる前に、着替えることにいたします」
「その方がよろしいかと」
ようやくコーネリアが頷いた。
「治療をお願いいたします」
「はい」
医師が即答する。
コーネリアは即座に寝台から降りようとした。
「奥様、待ってください」
「?」
「歩かないでください」
「歩けます」
「そういう話ではありません」
「身体強化を使っておりますので、問題は――」
「使用しないでください」
医師の声が低くなる。
コーネリアが止まった。
「治癒術を使った直後です。その上、これだけ出血している。これ以上身体へ負担をかけないでください。担架を用意させます」
「ですが」
「ですが、ではありません」
コーネリアは少し考えた。
それから、背中へ手を回しかけて、途中でやめる。
「……担架に横になりますと、傷が当たります」
「横向きに運びます」
「揺れる方が痛みます」
「奥様」
「自分で歩けば、痛まない姿勢を保てます」
医師が言葉に詰まった。
「それに、歩いた方が早いです」
「早さの問題ではありません」
「旦那様がお目覚めになる前に戻りたいので、早い方がよろしいです」
話が戻った。
ルートヴィヒは額を押さえたくなった。
医師も同じ気持ちだったのだろう。一度目を閉じ、深く息を吸う。
「奥様。少なくとも身体強化は――」
「強化を切れば眩暈がありますので、転倒する可能性があります」
「でしたらなおさら歩いては――」
「転倒しないために使用しております」
「そういう使い方を今しないでいただきたいのです!」
とうとう医師の声が大きくなった。
コーネリアが少しだけ目を丸くする。
「……申し訳ありません」
謝った。
そして寝台から降りた。
「奥様!」
床へ足をつけ、一度だけ身体の状態を確かめるように止まる。
立てる。
歩ける。
それを確認すると、ネルは血まみれの寝衣のまま扉へ向かった。
「では先生、早く済ませましょう」
「奥様、待ってください!」
医師が慌てて鞄を掴む。
コーネリアは扉の前で一度だけ振り返った。
医師ではない。
やはり、見たのはエルンストだった。
「ルートヴィヒ」
「はい」
「旦那様を、お願いいたします」
「承知しております」
「何か変化がございましたら」
「すぐにお知らせします」
「……お願いいたします」
コーネリアは頷いた。
そして今度こそ廊下へ出ていく。
「奥様! ゆっくり歩いてください! せめて壁際を――ああ、もう!」
医師がそのあとを追っていった。
廊下の向こうから、
「眩暈は!」
「少しあります」
「少しでもあるなら急がないでください!」
「ですが、早く戻りたいので」
「だからそういう問題ではありません!」
そんなやり取りが遠ざかっていく。
ルートヴィヒはしばらく扉を見つめた。
それから、寝台へ目を戻す。
眠る弟。
その周囲に残る大量の血。
つい先ほどまで、そこに座っていた小さな奥方。
背中を斬られ、一度意識を失い、自分で傷を塞いで。
その直後には夫の容態を確認し、医師が来れば診察の順番まで決め、最後には医師を引き連れて自分の足で治療へ向かった。
「……まったく」
誰に向けたものなのか、自分でも分からない。
ただ一つだけ、よく分かった。
エルンストが目を覚ましたら。
今見たことを、どこから説明したものだろう。
ルートヴィヒは血に染まった寝具を見下ろし、小さく息を吐いた。




