3-8 大丈夫
夕刻、コーネリアはそれを持ってエルンストの執務室を訪れた。
「旦那様。少しよろしいでしょうか」
「おう。入れ」
返事を聞いて中へ入る。
エルンストは机の上の書類から顔を上げ、コーネリアが抱えている束を見るなり眉を寄せた。
「また増えたな」
「十年以上前まで遡りましたので」
「そんな昔まで見たのか?」
「はい。ただ、古いものは書式そのものが違いました。十年ほど前から現在に近い形へ整えられたようですので、それ以前については比較が難しいかと」
「ふうん」
エルンストが椅子の背へ身体を預ける。
コーネリアは向かいに座り、まず古い資料について説明した。
記録が不足している。
ただし誰かが意図的に残さなかったとは判断できない。
当時はそもそも記録する決まりがなかった可能性が高い。
エルンストも素直に頷いた。
「昔のことなら、ルートでも分かんねえのか」
「はい。ですので、こちらは現状と照らして必要な部分だけ確認すればよいと思います」
「分かった」
「問題はこちらです」
二、三年前の資料を前へ出す。
エルンストが覗き込んだ。
「夜間の出入りについて、現在の規則では事前の申請が必要です。しかし、この商人は何度か申請なしで入っております」
「ああ」
「こちらの者は、通常の身元確認を行わず採用されております。それから、この商会は先代がお亡くなりになった直後から、搬入口より先への立ち入りを許可されています」
「それで?」
「いずれも、現在までその扱いが続いております。一度、通常の手続きに戻した方がよいのではないかと思います」
エルンストは資料を一枚ずつめくった。
やがて、一枚で手を止める。
「これ、叔父上のところだろ?」
「はい」
コーネリアは頷いた。
「すべてではございません。ただ、ディートリヒ様ご本人、あるいはディートリヒ様と近しい方から紹介されたものが多いようです」
エルンストはもう一度紙へ目を落とした。
「じゃあ大丈夫だろ」
あっさりした答えだった。
コーネリアは少しだけ瞬いた。
「確認は、不要でしょうか」
「叔父上が確認してるんじゃねえの?」
「その記録がございませんので、分かりません」
「なら聞けば分かると思うけど……別にいいんじゃねえかな」
エルンストは紙を机へ戻した。
「親父が死んだ頃だろ?」
「はい。多くはその前後二、三年に集中しております」
「あの頃、本当に人が足りなかったんだよ。俺も何が何だか分かってなかったし」
少し苦い顔をして、エルンストは頭を掻いた。
「親父は急に死ぬし、次の日から俺が侯爵だって言われるし。今まで親父に話を持ってってた連中が、全部俺んとこに来るんだぞ。誰が誰だかも分かんねえのに」
コーネリアは黙って聞いた。
「叔父上がいなかったら、もっと酷かったと思う。人も連れてきてくれたし、商会も紹介してくれた。親父の頃から付き合いのある奴も教えてくれたし」
「そうだったのですね」
「だから、その頃なら手続き飛ばしててもおかしくねえよ。俺が今ここに座ってられるのも、叔父上のおかげみたいなもんだ」
迷いのない言葉だった。
コーネリアは資料へ目を落とした。
自分は当時を知らない。
エルンストは知っている。
ディートリヒのことも、自分よりずっと長く知っている。
ならば。
「……承知しました」
資料を引こうとすると、エルンストが顔を上げた。
「もういいのか?」
「はい。旦那様が問題ないとご判断になるのでしたら」
「いや、叔父上のところはな。他にもあるんだろ?」
「ございます」
「じゃあそっちは見せて」
エルンストが当然のように手を出した。
コーネリアは少しだけ目を瞬いてから、別の資料を渡した。
「こちらは、ディートリヒ様とは関係ございません。半年前から出入りしている商会ですが、申請されている人数と実際に門を通る人数が一致していない日がございます」
「それ駄目じゃねえか」
エルンストの眉が寄った。
「今まで何で通してたんだ?」
「毎回一名多いわけではなく、月に一、二度です。荷運びの者が交代しただけかもしれませんが、氏名の記録がございません」
「確認しよう。次は?」
「西側の巡回ですが――」
そこからは、いつも通りだった。
コーネリアが説明する。
エルンストが聞く。
分からなければ尋ねる。
必要だと思えば、その場で変更を決める。
「それはグレアムに聞いた方がいいな」
「はい」
「こっちは変えよう。三人もいらねえだろ」
「一名減らすのであれば、交代時だけ別の場所から一名――」
「じゃあそうしよう」
一つずつ話が進んでいく。
ディートリヒに関係する箇所だけが、その中から外れた。
けれどコーネリアには、それが不自然には思えなかった。
エルンストは自分の話を聞いている。
今日もいくつも意見を採用した。
叔父に関する部分だけは、自分よりエルンストの方がよく知っている。
それだけのことだ。
一通り確認し終えると、エルンストは資料をまとめながら言った。
「ネル」
「はい」
「また何か見つけたら持ってきて」
「……よろしいのですか?」
「なんで駄目なんだよ」
「いえ」
コーネリアは少しだけ口元を緩めた。
「承知しました」
「ただし、夜までやるなよ」
「はい」
「昨日も寝る直前まで何か考えてただろ」
思わぬ指摘に、コーネリアは目を瞬いた。
「……分かりましたか?」
「分かるよ。ずっと天井見てたじゃねえか」
「申し訳ありません」
「謝んなくていいから寝ろ」
「はい」
エルンストは書類を脇へ置いた。
話は終わったらしい。
コーネリアも資料を抱えて立ち上がる。
扉へ向かいかけて、ふと足を止めた。
「旦那様」
「ん?」
聞くつもりはなかった。
けれど、先ほど考えていたことがまだ少し残っていた。
「ディートリヒ様は……なぜ、わたくしとの縁談をお勧めになったのでしょう」
エルンストがきょとんとした。
「なんで急に?」
「いえ。その……旦那様のことを、とても大切にしていらっしゃる方なのだと思いまして」
「まあ、そうだな」
「でしたら、もっと旦那様のお力になれる方も、いらしたのではないかと」
言ってから、余計なことだったかもしれないと思った。
けれどエルンストは怒らなかった。
眉を寄せただけだった。
「お前じゃ駄目なの?」
「わたくしは、とても良くしていただいております」
「いや、そうじゃなくて」
エルンストが頭を掻く。
「なんでお前が俺の力になってないことになってんだよ」
コーネリアは少し考えた。
「公爵家から、特別な支援があるわけではございません」
「うん」
「侯爵夫人としても、わたくしは知らないことが多くございました」
「今覚えてるだろ」
「騎士として覚えてきたことは、少しお役に立てておりますが」
「めちゃくちゃ立ってるけど」
思っていた答えと違い、コーネリアは言葉を止めた。
エルンストはまだ納得していない顔でこちらを見ている。
「そもそも、叔父上が何考えてお前を選んだかなんて、俺も知らねえよ。正直言って、ちょっと突然だったのは確かだけど……。公爵家の娘なら家格も十分だし、その辺じゃねえの?」
「……そうでしょうか」
「たぶんな」
そこでエルンストは、何か言いかけるように口を開いた。
一度閉じて、少し頭を掻く。
「あの時、叔父上がなんでお前を選んだのかは分からない。でも……」
コーネリアは黙って次の言葉を待った。
エルンストは一度視線を逸らしてから、またコーネリアを見る。
「今は、お前が来て良かったと思ってるよ」
しばらく、言葉の意味が分からなかった。
いや、意味は分かる。
ただ、それを自分へ向けて言われたのだと理解するまでに、少し時間がかかった。
「……わたくしが、ですか?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「そう、ですか」
胸の奥が、じわりと温かくなる。
警備について役に立つからだろうか。
侯爵夫人として、少しは覚えられるようになったからだろうか。
きっと、そういうことなのだろう。
それでも。
「……ありがとうございます」
気づけば、少し笑っていた。
エルンストはそれを見て、なぜかまた頭を掻いた。
「まあ、叔父上が何考えてたか気になるなら、今度会った時に聞けばいいだろ」
「はい」
それもそうかもしれない。
コーネリアは小さく頭を下げ、今度こそ部屋を出た。
廊下を歩きながら、先ほどの言葉を思い返す。
自分は、とても良くしてもらっている。
ここへ来て良かった。
それは変わらない。
そしてエルンストも、自分が来て良かったと言ってくれた。
それが思っていた以上に嬉しい。
けれど、それと政略結婚としての価値は、同じではないと思う。
もっと実家から支援を受けられる妻。
もっと侯爵夫人としてよく教育された妻。
エルンストにとって利益になる相手は、他にもいたのではないだろうか。
それでもディートリヒが自分を選んだ理由は、今のコーネリアには分からない。
分からないけれど。
旦那様は、叔父上を信頼している。
ならば、それでよい。
コーネリアはそう結論づけた。
自分よりずっと長くディートリヒを知っているエルンストが、大丈夫だと言うのだから。
警備については、他にも確認すべきことがいくつもある。
そちらを先に進めよう。
翌日、搬入口の確認方法が改められた。
西側の巡回人数も変更され、新しく出入りを始めた商会については、身元を確認し直すことになった。
コーネリアの提案は、いくつも採用された。
ただ。
先代侯爵が亡くなった前後から、正規の手続きを踏まずに出入りを許されていた者たち。
十分な確認を受けずに雇われた者たち。
ディートリヒと、その近しい者たちから紹介された人間だけは。
以前と同じように、侯爵家の中に残った。




