1-1 今度こそ、間違えない
婚姻が決まったのは、母が亡くなって四日後だった。
父から呼び出され、侯爵家との縁談がまとまったと告げられた時、コーネリアは一度だけ聞き返した。
「わたしが、ですか」
父の眉がわずかに動いた。その表情を見て、余計なことを聞いたのだと分かった。
「承知しました」
それ以上は何も尋ねなかった。
その日の午後には、剣を持つ代わりに採寸をされた。翌日にはドレスを着せられた。
「肩を張りすぎです」
そう言われて力を抜けば、今度は猫背だと言われる。歩幅を狭く、足音を立てず、腕を振らず、もっとゆっくりと。廊下の端まで歩き、戻り、鏡の前で方向を変える。
「違います。そこで軍人のように回らないでください」
「申し訳ありません」
身体の向きを変えるだけなのに、剣を持って戦うより難しい気がした。
けれど繰り返しは得意だった。剣も馬術も魔術も、一度でできないことは身体が覚えるまで繰り返してきた。十回でも百回でも構わない。
ドレスにも慣れなかった。裾が脚へまとわりつき、コルセットを締めれば呼吸が浅くなる。それでもフルプレートよりはずっと軽い。身体強化を薄くかければ何の問題もなかった。
むしろ難しいのは、力ではどうにもならないことだった。
笑い方。視線。食器。座り方。人の話を聞く時の表情。そして言葉遣い。
「わたしは――」
「わたくし、です」
「……わたくしは」
「もう一度」
「わたくしは」
「承知した」は「承知しました」。「問題ない」は「問題ありません」。咄嗟に出る言葉ほど直しにくい。
けれど、それも繰り返せばいい。
十日後、コーネリアは侯爵領へ向かう馬車に乗った。父は見送りには出なかった。
それについて考える必要はない。膝の上には侯爵家についてまとめられた資料がある。
領地の規模。主要産業。親族。家臣。領内の有力者。付き合いの深い貴族。近年の収支。
馬車が揺れ、文字を追ううちに気分が悪くなる。胃が重い。頭も痛い。
コーネリアは魔力を巡らせ、感覚を少し遠ざけた。
読める。
ならば問題ない。
侯爵家の家令、侍従長、騎士団長の名を繰り返す。最後に、これから夫になる男の名を何度も唱えた。
侯爵。夫。自分は、その妻になる。
何をすれば正しい妻になれるのか、まだよく分からない。
夫を立てる。夫に従う。家を守る。侯爵夫人として恥ずかしくない振る舞いをする。そして、夫の役に立つ。
役目があるなら、覚えればいい。正しい形があるなら、そこへ自分を合わせればいい。
宿へ着いた後も練習を続けた。
夕食は半分ほどで喉を通らなくなった。それでももう少し食べるべきだと思い、肉を一切れ口へ運ぶ。飲み込むと胃が縮むような感覚がした。
部屋へ戻れば鏡の前に立つ。歩く。止まる。礼をする。座る。立つ。微笑む。もう一度。
「わたくしは、コーネリアと申します」
何度目かで、自然に「わたくし」と言えた。
剣帯がない。腰が妙に軽い。腰へ行きかけた右手を腹の前へ戻す。
「わたくし」
今度は言い淀まない。
「……大丈夫です」
眠りは浅かった。何度も目が覚めた。それでも朝になれば起きられた。身体強化を使えばきちんと立てた。
五日の旅の間、同じことを繰り返した。
馬車では侯爵家について学び、休憩のたびに言葉遣いを確認し、宿では鏡の前で所作を繰り返す。食事をできるだけ口へ運び、夜には翌日の分を予習した。
頭痛は毎日あった。時々吐き気もした。三日目からは身体強化をかけないと脚が妙に重かった。四日目の夜には鏡の前で視界が揺れた。
壁へ手をつき、治まるのを待つ。
治まった。
もう一度、立つ。
「わたくしは、コーネリアと申します」
母を満足させることは、最後までできなかった。父のことは考えなかった。母が亡くなって数日で婚姻が決まったことも、父が見送りに出なかったことも、実家へ戻る予定について一度も話がなかったことも。
考える代わりに、覚えた。
侯爵家の家紋。領地の特産品。親族の名。正しい歩幅。正しい笑顔。正しい言葉。
間違えなければいい。
今度こそ。
きちんと役目を果たせばいい。
五日目の夕刻、侯爵邸へ到着した。
エルンストは玄関広間で待っていた。濃い茶髪を短く整えて、鋭い目つきをした大きな男だった。そして、明らかに機嫌が悪かった。
叔父の差配で押しつけられた婚姻なのだと事前に聞いている。歓迎されていないことくらいは分かっていた。
だからこそ、間違えてはいけない。
教えられた通りの歩幅で進む。胸を張りすぎない。足音を立てない。急がない。裾を踏まない。適切な位置で止まり、礼をする。
「初めまして、旦那様。コーネリアと申します。至らぬところも多いかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「……聞いてたのと、ずいぶん違うな」
胃の奥が縮んだ。
何が違うのか分からない。ただ、何かを間違えたのだと思った。
「……申し訳ありません」
「いや。別に謝れって意味じゃねえよ」
「失礼いたしました」
エルンストの眉間に皺が寄る。それを見た瞬間、胃がまた縮んだ。
「……まあいい。疲れただろ。今日は休め」
「はい。ありがとうございます」
その夜はほとんど眠れなかった。
翌朝、頭痛がした。身体も重かった。
感覚鈍化と身体強化をかけた。
問題なく動けた。
侯爵家での最初の一週間は、覚えることばかりだった。
使用人の顔と名前。屋敷の構造。侯爵夫人として目を通すべきもの、任せるべきもの。エルンストの予定。来客。食事。領内の慣習。
足りないなら覚えればいい。
朝は早く起きた。食事では教わった所作を思い浮かべて、自分の動作と比べた。注意されれば、一度で覚えるようにした。
「奥様、そちらは侍女にお任せください」
「……そうなのですか」
「奥様ご自身がなさることではございません」
「承知しました」
次からはしない。
「普通のご令嬢でしたら、その程度はご存じかと」
「……申し訳ありません」
覚える。次は間違えない。
使用人たちは礼を失することはなかった。ただ、冷たかった。
それも当然だと思った。彼らはエルンストに仕えている。そのエルンストが望んでいない妻なのだから、最初から好かれる理由はない。
だから、これから作ればいい。
役に立つ妻になればいい。
三日目の朝、着替えの途中で吐き気が込み上げた。
「奥様?」
「問題ありません」
呼吸を整え、感覚を遠ざけ、身体強化を少し上げる。
「続けてください」
立っていられた。だから問題ない。
四日目の夕食、エルンストが眉間に皺を寄せているのが目に入った。
心臓が強く打つ。
何かしただろうか。会話か。食べ方か。座り方か。視線か。
「……何だよ」
「申し訳ありません」
「だから何で謝るんだよ」
声が強くなり、胃が縮む。
「失礼しました」
「いや、そうじゃなくて」
「……申し訳ありません」
エルンストは大きく息を吐いた。
「もういい」
その言葉で、頭の中が真っ白になった。
「……はい」
返事はできた。食事も最後まで席にいた。
部屋へ戻ってから吐いた。
口を濯ぎ、鏡を見る。顔色が悪い。感覚鈍化を強め、胸の奥のざわつきを遠ざける。
それから鏡の前に立った。
「承知しました」
もう一度。
「ありがとうございます」
微笑む。
硬い。
もう一度。
翌朝にはきちんと起きた。身体強化をかけ、頭痛を遠ざけ、背筋を伸ばして朝食の席へ行く。
「おはようございます、旦那様」
「……おう」
昨日のことには触れない。
まだ、ここにいていいらしい。
その考えは言葉になる前に消えた。代わりに今日覚えるべきことを考える。
食事はあまり入らない。眠りも浅い。頭はずっと痛い。
けれど身体強化を使えば歩ける。感覚を遠ざければ笑える。覚えることもできる。
ならば、まだ大丈夫だった。
一つずつでいい。
正しいものを覚える。間違えたものを直す。できないものは、できるまで繰り返す。
今度こそ。
今度は、きっと大丈夫だ。




