3-5 知らなかったこと
エルンストと同じ寝室で休むようになって、数日が過ぎた。
初日の朝、目を覚ましたコーネリアは、少しだけ困惑した。
思っていたより、よく眠れていた。
夜中に一度目を覚ました記憶はある。隣で眠るエルンストの寝息を聞いたことも覚えている。けれど、その後は朝まで目を覚まさなかったらしい。
エルンストはすでに起きていた。
「おはよう、ネル」
「……おはようございます、旦那様」
寝台の上で身体を起こしながら答える。
エルンストは大きく伸びをすると、そのまま何でもないことのように身支度を始めた。
昨日の夜のことには触れなかった。
コーネリアも、触れなかった。
そうして二日目も、三日目も、同じ部屋へ戻った。
初日ほど緊張することはなくなったけれど、それでも寝台へ入る時には少しだけ落ち着かない。どこまで寄ればよいのかも、まだよく分からなかった。
けれどエルンストは何も言わない。
何かを求められることもなかった。
夜になれば同じ部屋へ戻り、同じ寝台で眠る。
朝になれば起きる。
ただ、それだけだった。
昼間はこれまで通りだった。
侯爵夫人として必要なことを学び、屋敷の仕事を確認する。警備について意見を求められれば答え、時間があれば騎士たちの鍛錬にも参加する。
その生活の中で、コーネリアは少しずつ、今まで知らなかったことを知るようになった。
「奥様。少し休憩になさいませんか」
その日は朝から冷え込んでいた。
昼過ぎまで書類を確認していたところで、侍女のリーナが声をかけてきた。
いつのまにかエルンストがコーネリアのそば付きにしてくれていた侍女のリーナは、コーネリアより少し年嵩の落ち着いた見た目の女性で、穏やかな雰囲気を持っていた。
机の上には、まだ確認していない書類が数枚残っている。
「こちらを終えてからでも――」
「旦那様からも、根を詰めすぎないようにと申しつかっております」
「……そうですか」
それならば仕方がない。
コーネリアは書類を置いた。
ほどなくして、茶と菓子が運ばれてきた。
色とりどりの砂糖菓子が小さな皿に盛られている。
綺麗だと思う。
けれど、特に食べたいとは思わなかった。
一つだけ取って口へ運ぶ。甘い。そう確認して、茶を飲んだ。
しばらくすると、リーナが別のカップを持ってきた。
「今日は冷えますので、こちらもどうぞ」
「ありがとうございます」
受け取る。
温めたミルクだった。
湯気が立っている。
両手でカップを包むと、指先がじんわりと温かくなった。
一口飲む。
温かい。
もう一口飲んだ。
甘みはごくわずかだった。砂糖菓子ほど強くない。口に残らず、身体の中へゆっくり落ちていく。
コーネリアはそのまま、両手でカップを包んでいた。
「お好きですか?」
尋ねられて、少し戸惑った。
実家にいた頃は、そんなことを尋ねられた記憶がなかった。
コーネリアが何かをするかどうか決める時、基準になるのはいつも、必要か、そうでないかだった。食べるものも、飲むものも同じだ。
きっとこれは、必要なものではない。けれど手の中のカップは温かく、いつの間にか冷えていた指先をじんわりと温めてくれる。
「……はい。たぶん」
好き、という言葉を使ってよいものなのか、一瞬迷った。
けれど、もう一口飲みたいと思った。
ならば、おそらく好きなのだろう。
その日は、それだけだった。
数日後。
訓練を終えて部屋へ戻ると、エルンストがいた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
最近は、このやり取りにも慣れてきた。
エルンストはソファに座って書類を読んでいる。コーネリアも向かいへ座り、リーナが用意してくれた茶へ手を伸ばした。
「リーナ」
不意に、エルンストが顔を上げた。
「ネルに前のあれ出してやれよ」
コーネリアは瞬いた。
リーナはすぐに分かったらしい。
「かしこまりました」
しばらくして運ばれてきたのは、温めたミルクだった。
コーネリアはカップを見る。
それから、エルンストを見た。
「……覚えていらしたのですか?」
「何を?」
「わたくしが、こちらを好んでいたことを」
エルンストは書類から顔を上げた。
「見てりゃ分かるだろ」
それだけ言って、また書類へ視線を戻す。
コーネリアはカップを見た。
両手で包む。
温かい。
以前飲んだ時と同じだった。
けれど、少しだけ違う気もした。
剣が使えることを覚えてもらうのは分かる。
警備について知識があることを覚えてもらうのも分かる。
侯爵夫人として何ができて、何ができないのか。それはこの家で暮らすために必要なことだ。
けれど。
温かいミルクが好きだということは、知らなくても困らない。
何の役にも立たない。
それなのに、エルンストは覚えていた。
「冷めるぞ」
「……はい」
慌てて一口飲む。
コーネリアはカップを持ったまま、ほんの少し口元を緩めた。
なんだか、前に飲んだ時よりも胸の中が温かい気がした。
知らなかったことが増えたのは、エルンストについても同じだった。
エルンストは、声が大きい。
最初の頃は、そのたびに身体が強張った。
自分に向けられた言葉でないとわかっていても、反射的に身体が強張ってしまうことも多い。
最初は、随分とよく怒る人なのだと思っていた。
けれど一緒に過ごす時間が増えるにつれて、どうやら必ずしもそうではないらしいと分かってきた。
「だから、なんでそうなるんだよ!」
廊下の向こうから声が響いた。
コーネリアの肩が跳ねた。
足が一瞬止まる。
けれど、その後に聞こえてきたのはルートヴィヒの落ち着いた声だった。
「旦那様が先ほど、そのようにお決めになったからでございます」
「俺、そんなこと言ったか?」
「仰いました」
「……マジかよ」
どうやら怒っているわけではない。
コーネリアは少しだけ肩の力を抜いて、そのまま執務室へ入った。
別の日には、エルンストが何も言わずに頭を掻いていた。
机の上には、領内の村から上がってきた陳情書がある。
読んでは置き、また読み、何か言いかけてやめる。
そして、がしがしと髪を掻く。
コーネリアは向かいからその様子を見ていた。
最近、何度か見たことがある。
怒っている時ではない。
困っている時とも少し違う。
「……旦那様は、何と仰るか考えていらっしゃるのですか?」
エルンストの手が止まった。
「……なんで分かった?」
「頭を掻いていらしたので」
「頭?」
「はい。何かをお考えになっていて、うまく言葉にならない時によくなさっているようです」
エルンストが、自分の頭に置いたままの手を見る。
「俺、そんなことしてる?」
「はい」
「……知らなかった」
コーネリアも知らなかった。
少し前までは。
「それで、旦那様。何をお考えなのですか?」
「ああ、これなんだけどさ」
エルンストが陳情書をこちらへ向けた。
「言ってることは分かるんだけど、このまま通すと別の村から文句出るだろ」
「出ると思います」
「だよなあ」
「ですが、こちらの条件を――」
二人で書類を覗き込む。
いつの間にか、エルンストの手は頭から離れていた。
昨日までは知らなかった。
エルンストが大きな声を出しても、怒っているとは限らないこと。
言葉に困ると、頭を掻くこと。
朝は意外と起きるのが遅く、目を覚ましてもしばらく寝台の上でぼんやりしていること。
反対にコーネリアは、目が覚めればすぐに起きる。
「お前、朝からよくそんな動けるな」
ある朝、そう言われた。
「起きましたので」
「起きたからってすぐ動けるもんなの?」
「……動けます」
何を聞かれているのかよく分からなかった。
エルンストは寝台に座ったまま、まだ眠そうな顔をしている。
「旦那様は、朝がお苦手なのですか?」
「普通だろ、これくらい」
「そうなのですか」
「お前が早いんだよ」
また一つ知った。
エルンストも、コーネリアについて何かを知る。
コーネリアも、エルンストについて何かを知る。
それが何の役に立つのかは、よく分からない。
知らなくても、侯爵と侯爵夫人としては困らないことばかりだった。
それでも。
温めたミルクを出してもらうたびに、少し嬉しい。
エルンストが頭を掻けば、今は怒っているわけではないのだと分かる。
夜、同じ寝台へ入る時も、初日ほど緊張しなくなった。
まだ端には寄っている。
けれど、最初の日よりは少しだけ中央に近い。
どちらからそうしたのかは分からない。
夜中に目を覚ますこともあった。
そのたび、隣から低い寝息が聞こえる。
それを確認すると、また眠れた。
今日知ったこと。
明日知ること。
そんなものを一つずつ増やしていくことを、コーネリアはいつの間にか楽しみにするようになっていた。
それが何のためなのかは、まだ分からなかった。




