3-4 ふつつながら
最近、できることが増えた。
朝は侯爵夫人として必要なことを学ぶ。
昼には屋敷や領地について教わり、警備について意見を求められることもある。その合間には、一時間か二時間ほど騎士たちの鍛錬に参加することも許されるようになった。
コーネリアにとって、それはとても嬉しいことだった。
十八年間、覚えてきたことがある。
母に教えられた剣術も、戦術も、領地を守るための知識も。父から仕事を与えられるようになってから、自分なりに調べ、覚えてきたことも。
公爵家を継げなかった以上、それらはもう必要のないものなのだと思っていた。
自分には、コルネリウスにはなれなかった。
だから嫁いだ先では、侯爵夫人として必要なことを一から覚えなければならない。これまで覚えてきたことは、せめて邪魔にならないよう忘れた方がよいのかもしれないとさえ思っていた。
けれど、そうではなかった。
「奥様、もう一度参りますぞ!」
「はい」
グレアムの声に応え、コーネリアは剣を構えた。
今日試しているのは、昨日よりも少し細身の片手剣だった。
軽い。
扱いやすくはある。
けれど、やはり軽すぎる気もする。
踏み込み、グレアムの剣を避ける。横へ抜けながら刃を返し、相手の脇へ滑り込む。
身体強化を切り替える。
足。
腰。
肩。
昨日より少しだけ力を抑えた。
剣がグレアムの防具へ触れる。
「そこまで!」
声がかかり、コーネリアは剣を下ろした。
右の膝を軽く曲げる。
痛みはない。
左も。
問題ない。
肩を回す。
こちらも大丈夫だった。
「旦那様」
訓練を見ていたエルンストへ振り返る。
「本日は一度も膝を傷めませんでした」
「……そうか」
「はい。昨日より踏み込みの位置を少し変えてみたのですが、その方がよいようです」
「なら、まあ……良かったな」
「はい」
褒められた。
たぶん。
エルンストは、自分が怪我をすることをひどく気にする。
その理由は、コーネリアにはまだよく分からなかった。
治せる程度ならば、問題はないように思う。
訓練なのだから、多少身体を傷めることはある。実戦ならばなおさらだ。
けれど、エルンストは怪我をしない方がよいと言う。
ならば、なるべく減らした方がよいのだろう。
そのための防具まで作ってもらえることになった。
防具職人と話をするのも楽しかった。
重さを減らすなら、どこまでなら防御を削ってよいのか。身体強化を使う前提ならば、どこを重点的に守ればよいのか。肩の可動域を広げるには、どのような形にすればよいのか。
考えることがたくさんある。
試してみたいことも、たくさんある。
剣については、まだ作ってもらわなくてよいと伝えた。
今のところ、どれもしっくりとは来ない。
せっかく作ってもらっても、使わなくなればもったいない。
訓練場にはたくさんの剣があるのだから、まずはそれを一つずつ試せばいい。
明日は、今日とは違うものを借りる予定だった。
それも楽しみだった。
できることが増えていく。
覚えてきたことが、役に立つ。
旦那様のお役に立てる。
そう思うと、もう少しやってみたいことが出てくる。
だから午後、警備の配置表を見ていて、自分の見落としに気づいた時には、本当に申し訳なく思った。
毎日のように図面を見ていた。
エルンストの寝室も、自分の寝室も、そこへ至る経路も、窓の位置も、警備兵の配置も確認していた。
それなのに。
夫婦であるなら、そもそも寝室を分ける必要がない。
あまりにも基本的なことだった。
実家では、父と母が同じ部屋で休んでいるところを、ついぞ見た記憶がなかった。
寝室は別々にあるものだと、無意識に思っていたのだろう。
けれど一般的な夫婦ならば、同室で休むことも珍しくない。
自分とエルンストは夫婦なのだから、それでいい。
寝室を一つにすれば、守る場所も一つになる。
どうして今まで気づかなかったのだろう。
だからその日の夜、身支度を整えてくれた侍女にも、ごく普通に伝えた。
「本日から、旦那様のお部屋で休むことになりました」
侍女の手が止まった。
「……本日から、でございますか?」
「はい」
「旦那様と、ご一緒に?」
「はい。寝室を分けておりますと、夜間警備の人員が余分に必要になりますので」
「……左様でございますか」
妙な間があった。
最近では顔馴染みになり、以前ほど緊張せずに話せるようになった侍女だったが、なぜかその時だけ、何とも言えない顔をしていた。
けれどコーネリアは深く考えなかった。
髪を梳かしてもらい、寝衣へ着替える。
そのままエルンストの寝室へ向かった。
扉を叩く。
「旦那様。コーネリアです」
返事をもらい、中へ入る。
エルンストがいた。
それから。
寝台があった。
大きな寝台が。
一つ。
コーネリアは足を止めた。
寝台を見る。
エルンストを見る。
もう一度、寝台を見る。
そこでようやく。
すべてが繋がった。
夫婦。
同室。
同じ寝台。
「…………」
急に、顔が熱くなった。
耳が熱い。
頬も熱い。
おそらく首まで赤くなっている。
どうして昼間の自分は、これに気づかなかったのだろう。
警備兵を何人減らせるかしか考えていなかった。
「ネル?」
呼ばれて、肩が跳ねた。
「は、はい」
声までおかしい。
落ち着かなければ。
夫婦なのだから、おかしなことではない。
むしろ、こちらの方が普通なのだ。
挨拶。
まずは挨拶をしなければならない。
「その……本日から……その……」
何と言えばよいのだろう。
こういう時の言葉を教わったはずだ。
思い出せない。
「旦那様」と呼んだ後は。
何を。
「あの、よろしく……」
違う。
何か違う。
けれど、エルンストが待っている。
「よ、よろしく、お願いいたします」
なんとか言い切って、頭を下げた。
違う気がする。
絶対に、何か足りない。
顔を上げる。
エルンストがこちらを見ている。
余計に顔が熱くなった。
何だっただろう。
妻が夫へ。
初めて。
そういう時に。
「あ」
思い出した。
「ふ、ふつつか、ながら……」
違う。
噛んだ。
ますます顔が熱くなる。
エルンストが口元を押さえた。
笑われた。
恥ずかしい。
けれど、言わなければ。
「ふつつかながら……妻として、その……つ、務めさせて、いただきます」
言えた。
たぶん。
これで合っているはずだ。
「……ネル」
「は、はい」
「お前、昼間そこまで考えてなかっただろ」
何も言えなかった。
「……申し訳、ありません」
考えていなかった。
完全に失念していた。
エルンストはまた口元を押さえた。
やはり笑われている気がする。
けれど怒ってはいないらしい。
それだけでも少し安心した。
そして。
「今日は寝るだけにするぞ」
そう言われた瞬間。
ほっとした。
自分でも分かるくらい、肩から力が抜けた。
そのことに気づいて、今度は別の意味で困った。
妻なのに。
安堵してよかったのだろうか。
自分から同室を申し出たのに。
「……よろしいのですか?」
聞くと、エルンストは警備上の目的はそれで達成できると言った。
確かにその通りだった。
けれど、そういう問題なのだろうか。
自分は妻だ。
妻ならば、果たすべきことがある。
そう伝えようとしたけれど、エルンストは今日でなくてよいと言った。
「……そう、なのですか?」
「そうだよ」
ならば、そうなのだろう。
「……承知しました」
旦那様は、本当に優しい。
そう思った。
寝台へ入る。
できるだけ端へ寄った。
エルンストの邪魔にならないように。
灯りが消えてから、もう少しこちらへ来てもいいと言われたので、少しだけ中央へ寄った。
どの程度なら邪魔にならないのか分からなかったから、数センチほど動いてから確認した。
「……こちらで、よろしいでしょうか」
「……おう」
許可をもらえた。
目を閉じる。
眠れる気がしなかった。
隣に人がいる。
夫がいる。
それを意識すると、また顔が熱くなる。
明日は侯爵夫人としての講義がある。
その後、警備計画の続きを確認する。
訓練では別の剣を試す予定だ。
防具についても、職人に確認したいことがある。
考えておかなければならない。
いつもなら、眠る前に一つずつ確認する。
明日失敗しないように。
見落としがないように。
頭の中で順番に並べていく。
そうしているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。
ふと目が覚めた。
部屋は暗い。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
けれど、すぐそばから低い寝息が聞こえた。
エルンストだった。
すっかり眠っている。
規則正しく、深い呼吸。
それを聞きながら、コーネリアはぼんやりと天井を見た。
明日は。
明日の予定を確認しなければ。
午前は――。
そこまで考えたところで、瞼が重くなった。
まだ確認していない。
訓練で使う剣も。
警備計画も。
防具のことも。
考えておかなければならないことは、いくつもある。
それなのに。
隣から聞こえる寝息を聞いていると、どうしてか急ぐ必要がないような気がした。
エルンストがいる。
それだけ確認して、目を閉じる。
明日のことは、明日になってからでもよいのかもしれない。
そう考えたのかどうかも、よく分からなかった。
次に目を開けた時には、もう朝だった。




