3-3 守る場所をひとつに
コーネリアが騎士たちの鍛錬に加わるようになったのは、それから間もなくのことだった。
もちろん、毎日朝から晩まで訓練場にいるわけではない。侯爵夫人として覚えなければならないことは山ほどある。領内の主要な家々とその関係、屋敷の使用人の管理、社交の作法、季節ごとの行事。これまでほとんど学んでこなかったものばかりだから、そちらも疎かにはできなかった。
それでも一日のうち、一時間か二時間。
コーネリアは騎士服へ着替え、訓練場へ出るようになった。
「今日はこれを使ってみますかな?」
グレアムが差し出したのは、昨日よりも細身の片手剣だった。
コーネリアは受け取り、何度か振ってみる。
「……軽いですね」
「昨日も聞きましたぞ、その言葉は」
「昨日のものよりも軽いです」
「奥様には軽い方がよろしいのです」
どうも納得できない顔をしながら、コーネリアは構えた。
大剣は禁止されたままである。
代わりに、訓練場にある剣を片っ端から試していた。
長剣、片手剣、細身の刺突剣。短いもの、軽いもの、重心の位置が違うもの。
エルンストは最初、さっさとコーネリア専用の剣を作らせればいいと思っていたのだが、本人が断った。
「まだ、どのようなものが合うのか分かりませんので」
「作ってから調整すりゃいいだろ」
「ですが、合わなければ無駄になってしまいます」
「別に一本くらい」
「使わない剣を作っていただくのは、もったいないです」
そう言われてしまえば、無理に作らせる理由もない。
だから剣については、本人が納得するまで好きに試させることになった。
一方で、防具についてはまるで違った。
「こちらの革でしたら、今のものより薄くしても強度は保てます」
職人の説明を聞きながら、コーネリアが実物を手に取る。
指で曲げる。
裏側を見る。
腕に当ててみる。
「肘はこちらまで覆えますか?」
「可能です。ただ、そうすると曲げた際に少し当たるかもしれません」
「では、こちら側を分けて留めることは?」
「なるほど。それでしたら――」
話が始まると長い。
肩をどこまで覆うか。
胸当てをどの程度薄くできるか。
膝当ての位置をどうすれば踏み込みを邪魔しないか。
腰回りに余計な重さを置かず、それでも刃を受けた時に危険な部分は守れるか。
コーネリアは一つ一つ試し、質問し、職人の答えを聞いてまた考える。
「こちらでしたら、今よりもう少し軽くできます」
「本当ですか?」
明らかに声が明るくなった。
「では、こちらの素材でお願いいたします。それから肩なのですが、先日の形ですと大剣を振った時に少し引っかかりましたので――」
楽しそうだった。
少なくともエルンストには、そう見えた。
普段のコーネリアはあまり表情が変わらない。それでも最近は、見ていれば分かるようになってきた。
興味がある時は、ほんの少し前へ身体が傾く。
嬉しい時は、目がわずかに明るくなる。
自分から話したいことがある時は、いつもより言葉が早い。
今は全部出ていた。
「……楽しそうだな」
エルンストが呟くと、隣のルートヴィヒが頷いた。
「そのようですね」
「普通さ」
「はい」
「嫁に最初に贈ってやるもんって、何?」
ルートヴィヒがこちらを見る。
「急にどうなさいました」
「いや。宝石とかじゃねえの?」
「そういう場合も多いでしょうね」
「ドレスとか」
「それも一般的でしょう」
エルンストはもう一度コーネリアを見る。
妻は革と金属の見本を並べ、職人と肘当ての可動域について熱心に話し合っていた。
「俺、鎧になりそうなんだけど」
「奥様はお喜びになるかと」
「それは見りゃ分かる」
だから余計に何とも言えない。
夫として何かを間違えているような気もするのに、下手に宝石を贈るより十倍くらい喜びそうだった。
それに、鍛錬を始めてから、コーネリアは少し変わった。
夕食の皿も、その一つだった。
結婚したばかりの頃は、そもそも食卓に並ぶ料理の量に怯んでいた。肉料理はほんの数口、野菜やスープも少しずつ。放っておけば小鳥にでもやるような量で食事を終えようとした。
今は違う。
エルンストと同じ主菜が、コーネリアの前にも置かれている。
その日は香草とともに焼いた肉だった。
エルンストの皿より少し小さめに切られているものの、以前なら最初から出されなかった量だ。
コーネリアは普通にナイフを入れ、付け合わせの野菜と一緒に食べていく。
最後に肉が少し残った。
「もう無理?」
「はい。少し多かったようです」
「じゃあ残せ」
「ですが」
「いいって」
少し迷ってから、コーネリアはナイフとフォークを置いた。
「ごちそうさまでした」
それでも皿の大半はなくなっている。
エルンストは、空いた皿をしばらく見てしまった。
「……何でしょうか」
「いや」
「?」
「よく食ったなと思って」
コーネリアが自分の皿を見る。
「最近は、以前より空腹になるようです」
「訓練してるからだろ」
「そうなのでしょうか」
「そりゃそうだろ」
「なるほど」
納得したように頷く。
それだけだった。
けれど、エルンストには妙に嬉しかった。
侯爵家へ来たばかりの頃を思えば、信じられないくらい普通になった。
身体を動かして、腹が減る。
食卓について、ちゃんと食べる。
多ければ少し残す。
そんな当たり前のことができるようになった。
その代わり、訓練を始めてからは小さな怪我も増えた。
手首を捻った。
肩を傷めた。
着地に失敗して足首を痛めた。
本人はその場で治してしまうし、以前のように重い鎧を着て二時間身体を壊し続けていた頃より、よほど負担は少ないらしい。
それでも怪我は怪我である。
エルンストとしては面白くない。
面白くないのだが。
「旦那様。本日は一度も膝を傷めませんでした」
そう報告するコーネリアは、ほんの少し誇らしげだった。
「……そうか」
「はい。昨日より踏み込みの位置を少し変えてみたのですが、その方がよいようです」
「なら、まあ……良かったな」
「はい」
その顔を見ると、やめろとは言えなかった。
食うようになった。
話すようになった。
少し笑うようになった。
訓練の日は、朝からどことなく機嫌がいい。
だったらせめて、怪我をしにくい防具くらい作ってやればいい。
剣は本人が欲しいと言うまで待つ。
そんな日々の中でも、警備体制の見直しは続いていた。
その日の午後、コーネリアはエルンストの執務室で夜間警備の配置表を見ていた。
第一襲撃以降、寝室周辺の警備は大きく増員されている。
問題は、人員だった。
「西廊下は二名でよろしいと思います」
コーネリアが図面の一点を指す。
「こちらから侵入した場合、必ず階段前を通ります。階段前に一名配置すれば、廊下側は一名でも対応できますので」
「では、一名を北へ回しますか」
ルートヴィヒが尋ねる。
「いえ。北側は現在でも十分かと」
細い指が図面の上を動く。
侯爵の寝室。
周辺に二名。
階段に一名。
そこから少し離れて。
侯爵夫人の寝室。
こちらにも二名。
廊下にも人員がいる。
コーネリアの指が止まった。
「……こちらの二名ですが」
「奥様のお部屋の警備ですな」
グレアムが答える。
「はい」
コーネリアは図面を見た。
エルンストの寝室。
自分の寝室。
それぞれを守るために配置された騎士たち。
「優先して守るべき場所は、旦那様のお部屋ですよね」
「まあ、そうだな」
「ですが、わたくしの寝室にも人員が必要です」
「そりゃ置くだろ」
「わたくしが、こちらにいるからですね」
「そうだな」
「……では」
コーネリアは二つの寝室を見比べた。
少し考える。
そして。
「あ」
小さく声を漏らした。
「どうした?」
「いえ」
コーネリアは顔を上げた。
いつも通りの顔で、エルンストを見る。
「そういえば、わたくしと旦那様は夫婦でしたね」
「…………は?」
エルンストの思考が止まった。
「一般的な夫婦でしたら、寝室は同室であることが多いですよね」
「まあ……そうだな」
「申し訳ありません。失念しておりました」
「何を?」
「警備上、夫婦であることを考慮することを」
「ああ」
一瞬、本当に夫婦であること自体を忘れられていたのかと思った。
それはそれでどうなのかと思う。
しかしコーネリアはそんなエルンストの内心など知らず、もう一度図面を見る。
「でしたら、わたくしの寝室を別に守る必要はありませんね」
「……ん?」
「旦那様」
青銀の目がまっすぐこちらを向く。
「今後は、わたくしも旦那様と同室で休ませていただいて構いませんか?」
エルンストは固まった。
たぶん一秒。
長くても二秒。
それくらいで立て直したと思いたい。
「……お前がいいなら、いいけど」
どうにか声を出す。
コーネリアが首を傾げた。
「わたくしは構いません」
「……うん」
「むしろ今まで、わたくしのせいで警備を複雑にしてしまっていたのですね。申し訳ありませんでした」
「いや。お前のせいじゃねえよ」
「ですが、同室であれば夜間の護衛を一か所へ集められます」
もう完全に警備の話へ戻っている。
「現在わたくしの部屋へ配置している二名を交代要員に回せますし、廊下の警備も一部減らせますね」
「その通りですな!」
グレアムまで乗ってきた。
「旦那様の寝室は、窓からの侵入経路も限られます。奥様のお部屋より防衛には適しておりますぞ」
「はい。でしたら――」
コーネリアとグレアムが図面を挟んで話し始める。
エルンストだけが、完全に置いていかれた。
妻から同室で眠りたいと言われた。
理由は警備効率だった。
もう少し何かなかったのか。
いや、ネルなのだからこんなものなのかもしれない。
それでも念のため、もう一度聞いた。
「ネル」
「はい?」
「本当にいいんだな?」
「はい」
即答だった。
「旦那様のご迷惑でなければ」
「迷惑じゃないけど」
「では、よろしくお願いいたします」
ぺこりと頭を下げる。
そのまま図面へ戻る。
横を見ると、ルートヴィヒと目が合った。
何とも言えない顔をしていた。
「何だよ」
「いえ」
「言えよ」
「旦那様がお決めになることでございますので」
「その顔で言うな」
その夜。
エルンストは妙に落ち着かなかった。
別に初めて女と同じ部屋で寝るわけでもない。
そもそも相手は妻だ。
結婚して数か月も経っている。
何もおかしなことはない。
ないのだが。
扉が叩かれた。
「旦那様。コーネリアです」
知ってる。
今日ここへ来る女は一人しかいない。
「おう」
返事をすると、扉が開いた。
「失礼いたします」
コーネリアが入ってくる。
エルンストは一瞬、何も言えなくなった。
いつものドレスでもない。
騎士服でもない。
柔らかな布地の寝衣を着て、灰がかった淡い金髪を下ろしている。
普段はきちんと結われている髪が、肩から背中へさらりと流れていた。
細い。
知っていたはずなのに、改めて見るとずいぶん小さい。
昼間、大剣を持って騎士たちの間を飛び回っている女と同じ人間には、とても見えなかった。
「……旦那様?」
「あ、いや」
見すぎた。
エルンストは慌てて視線を逸らした。
「何でもない」
「そうですか」
コーネリアは不思議そうにしたものの、それ以上は聞かなかった。
そのまま部屋へ入り。
寝台を見る。
止まった。
エルンストは見た。
本当に、はっきり見た。
コーネリアの視線が、大きな寝台へ行く。
自分へ戻る。
もう一度、寝台へ行く。
青銀の目が少しずつ大きくなった。
何かを理解したらしい。
まず耳が赤くなった。
そこから頬へ赤みが広がる。
頬から首筋まで染まり、とうとう顔全体が真っ赤になった。
――今かよ。
エルンストは危うく声に出すところだった。
昼間あれだけ平然と「同室で休ませていただいて構いませんか」と言っていた女が、寝台を目の前にしてようやく意味を理解したらしい。
コーネリアはまだ寝台を見ている。
エルンストを見る。
すぐに目を逸らす。
また寝台を見る。
もう一度こちらを見る。
今にも頭から湯気でも立ちそうだった。
かわいい。
不意にそう思った。
いや、待て。
何を考えている。
これは妻だ。
妻なのだから、かわいいと思うくらい別におかしくない。
そう自分に言い聞かせている間にも、コーネリアは完全に固まっていた。
昼間はグレアム相手に剣を振り、飛び回っている女が。
職人相手には防具の構造について延々と話せる女が。
今は寝台一つを前に、どうしていいのか分からなくなっている。
落差がひどい。
「ネル?」
呼ぶと、びくりと肩が跳ねた。
「は、はい」
声まで上擦っている。
かわいい。
今度はもう、否定できなかった。
コーネリアは何度か小さく息を吸った。
落ち着こうとしているらしい。
けれど赤みはまったく引かない。
むしろエルンストと目が合った瞬間、さらに赤くなった。
「その……」
「うん」
「本日から……その……」
言葉が止まる。
視線が泳ぐ。
それでも逃げずに、もう一度エルンストを見る。
「あの、よろしく……」
また止まった。
エルンストは黙って待った。
コーネリアはぎゅっと寝衣の端を握った。
「よ、よろしく、お願いいたします」
言い切った。
ほとんど息と一緒に押し出したような声だった。
そして深々と頭を下げた。
何をよろしくされたんだ、俺は。
そう思った瞬間。
コーネリアが恐る恐る顔を上げた。
まだ真っ赤だった。
かわいい。
駄目だ。
これは駄目だ。
エルンストは咳払いをして、どうにか顔を逸らした。
「……おう」
自分の返事まで妙に短くなった。
コーネリアはそれで終わったと思ったらしい。
けれど寝台を見た途端、また動きが止まった。
しばらくして。
「あの」
「何?」
「その……」
また寝衣を握る。
「ふ、ふつつか、ながら……」
一度噛んだ。
コーネリアの顔が、これ以上ないと思っていたところからさらに赤くなった。
「ふつつかながら……妻として、その……つ、務めさせて、いただきます」
最後の方はほとんど消え入りそうだった。
エルンストは固まった。
数秒。
今度こそ、本当に何も考えられなかった。
かわいい。
いや、そうじゃない。
そこじゃない。
目の前の妻は、耳から首まで真っ赤になっている。
それでも「妻だから」という理由で、逃げずにここに立っている。
そのことに気づくと、浮ついていた気分が少し引いた。
「……ネル」
「は、はい」
「お前、昼間そこまで考えてなかっただろ」
コーネリアの目が泳いだ。
そして、ほんの少し俯く。
「……申し訳、ありません」
図星だった。
あまりにも分かりやすい。
エルンストは笑いそうになって、慌てて口元を押さえた。
笑ったら絶対に駄目だ。
本人は真剣だ。
「いや、謝らなくていいから」
「ですが……」
「今日は寝るだけにするぞ」
コーネリアが目を瞬いた。
「……よろしいのですか?」
その声に、ほんのわずかに安堵が混じった。
それで十分だった。
「同じ部屋にいりゃ、警備上の目的は達成だろ」
「それは……はい」
「じゃあいい」
コーネリアは少し迷った。
「ですが、わたくしは妻ですので」
「知ってる」
「妻として必要なことでしたら、わたくしは――」
「ネル」
名前を呼ぶ。
コーネリアが口を閉じた。
エルンストは頭を掻いた。
うまく言えない。
嫌なら嫌と言え、と言ったところで、この女はたぶん「嫌ではありません」と答える。
それが本当に嫌ではないのか、妻だから嫌ではないことにしているのか、今のエルンストにはまだ分からない。
だったら急ぐ必要はない。
「……今日やらなきゃいけないことじゃないだろ」
コーネリアはしばらく考えた。
「……そう、なのですか?」
「そうだよ」
「……承知しました」
明らかに肩から力が抜けた。
まだ顔は赤い。
けれど、ほっとしたのが分かる。
その顔を見た瞬間、エルンストは自分の判断が間違っていなかったことだけは分かった。
「では……お言葉に甘えて、休ませていただきます」
「おう」
コーネリアが寝台へ向かう。
壁側へ回る。
そっと布団をめくる。
それから一度こちらを見た。
目が合う。
また赤くなった。
すぐに布団へ入る。
端だった。
ものすごく端だった。
大きな寝台の端に、小さな身体をきちんと収めている。
それどころか、少しでもこちらへはみ出さないようにしているのか、肩まで妙にきちんと布団に包まっていた。
エルンストも反対側へ入った。
二人の間には、大人がもう一人どころか、詰めれば二人くらい寝られそうな距離がある。
灯りを消す。
暗くなる。
静かだった。
けれど眠れない。
エルンストは仰向けのまま天井を見る。
隣に妻がいる。
顔を向ければ、暗がりの中に淡い髪が見える。
昼間は鎧の素材について職人と楽しそうに話していた。
夕食では、肉をほとんど一人前食べた。
訓練では男たちに混じって剣を振っている。
なのに今は、寝台の端で小さくなっている。
さっきまで、頭から湯気が出そうなくらい真っ赤だった。
「よろしくお願いします」と言うだけで二度もつっかえた。
かわいかった。
思い出したら、また妙に落ち着かなくなった。
寝返りを打つ。
向こうで、コーネリアが小さく動いた。
「ネル」
「はい」
即答だった。
「……起きてる?」
「はい」
やっぱり眠れていない。
「狭くない?」
「いいえ。十分です」
「もうちょいこっち来てもいいぞ」
返事がない。
余計なことを言ったかと思った頃。
ほんの少し。
布が擦れる音がした。
コーネリアが、数センチだけ中央へ寄った。
止まった。
それから、暗闇の中で小さな声がした。
「……こちらで、よろしいでしょうか」
エルンストは片手で顔を覆った。
「……おう」
何なんだ、こいつ。
かわいい。
昼間はあれだけ強いくせに。
大剣を振り回して、グレアムを相手にして、怪我をすれば戦いながら自分で治すような女なのに。
寝台では数センチ寄るだけで許可を取る。
しかも、たぶん本人は何一つかわいいことをしているつもりがない。
しばらくすると、隣の呼吸が少しずつゆっくりになった。
眠ったらしい。
エルンストはそっと横を向く。
暗くて顔まではよく見えない。
それでも、同じ寝台に小さな妻がいることだけは分かる。
警備のため。
守る場所を一つにするため。
コーネリアが提案した理由は、それだけだった。
エルンストも、それでいいと思っていた。
少なくとも昼間までは。
今はもう。
この状況を警備の話だけで片づけるのは、少し無理があるような気がしていた。




