第10話 社内に広がる妙な噂
楽しい週末なんて、本当にあっという間だ。
気づけば月曜日。
私は蓮の体で社長室に座り、役員たちの業務報告を聞いていた。
……正直、もう限界だった。
さっきから経理部長の藤原部長が話している「LBO」が、呪文みたいに頭の中でぐるぐる回っている。
すると今度は法務部長がこちらを向いた。
「神宮寺社長。今回の事業再編について、どのようにお考えでしょうか。」
「……」
終わった。
私は時間稼ぎにコーヒーへ手を伸ばすと、
「ちょっと失礼。」
と言って、隣の応接スペースにいる美咲を社長室へ呼んだ。
ところが――
当の本人はというと。
私の体で優雅に脚を組み、ソファに寝転がりながら恋愛ドラマをのんびり見ている。
しかもタイトルは――
『世界は私に初恋を返してくれない』。
「……」
おい。
私は必死に目配せを送った。
何度も何度も瞬きを繰り返し、
もうまつ毛で台風でも起こせそうな勢いだ。
ようやく美咲がこちらを見た。
彼女はゆっくりコーヒーカップを持ち上げ、口元を隠す。
そして、唇だけを動かした。
『総合的に判断する必要があります』
「あっ……」
私は慌ててうなずく。
「そ、総合的に判断する必要があります。」
ほとんど棒読みだった。
その瞬間。
部屋の空気が妙に静かになった。
役員たちは全員、必死に笑いをこらえている。
営業本部長は頬をぷくっと膨らませ、
藤原部長はペン先を止めたまま、書類の同じ場所にインクを滲ませていた。
……絶対、笑ってる。
「具体的には――」
その時だった。
美咲がすっと立ち上がる。
華奢な体つきにもかかわらず、その場の空気を一瞬で支配する存在感。
彼女はスクリーンに映し出された資料へ歩み寄ると、
為替変動リスクからヘッジ戦略、
さらにはアーンアウト条項まで、淀みなく説明していく。
役員たちは誰一人、口を挟めない。
最後に美咲は指先で会議机を軽く叩き、
「ニューヨーク支社には連絡を。」
一瞬言葉を止め、
「木曜日までに、俺…… 神宮寺社長がヘッジプランを確認できるよう、準備してください。」
と静かに締めくくった。
会議室は、水を打ったような静けさに包まれた。
私は、その横顔を思わず見つめる。
社員たちがいつも、
「仕事中の社長が一番かっこいい」
と言っていた理由が、ようやく分かった気がした。
……もっとも。
役員たちが理解した"理由"は、どうやら私とは違っていたらしい。
以前は顔を合わせれば口げんかばかりだった社長と秘書が、
最近はいつも一緒に行動している。
勤務中も二人きりで部屋にこもり、何時間も出てこない。
しかも、お互いの服装まで突然ガラリと変わった。
会議では社長が何かにつけて秘書へ視線を送り、意見を求めるようになった。
そんな光景を見れば――
社内の想像力が暴走するのも無理はない。
その日を境に、社内チャットや休憩室では妙な噂が一気に広がった。
「朝比奈秘書って、未来の社長夫人らしいよ。」
「神宮寺社長、実は奥さんに頭が上がらないタイプなんだって。」
そんな尾ひれ付きのゴシップは、羽でも生えたかのように会社中を駆け巡っていった。




