不死隊、止まれ
◇ ◇ ◇
ズズズ……。
崩れた石壁に背を預けながら、ガオンはゆっくりと息を吐いた。
「……はぁ」
胸元に走る痛み。
脇腹に残る鈍い衝撃。
少し身体を動かすだけで、全身が悲鳴を上げる。
だが。
そんな痛みすら、忘れそうになっていた。
「……すげぇな」
視線の先。
いくつもの戦場で、激しい戦闘が繰り広げられている。
轟音。
衝撃。
飛び散る石畳。
そして、目で追うことすら難しい剣戟。
ガオンは、思わず乾いた笑いを漏らした。
「……笑えてくるぜ」
「……ああ」
少し離れた場所から、ログが答えた。
もっとも。
その身体は、ほとんど動かせない。
腕にも脚にも力が入らず、仰向けになったまま空を見上げていた。
「……あいつら、化け物かよ」
「……そうですね」
レテが静かに答える。
ログの傍らに膝をつき、治癒術を続けていた。
右肩には深い傷。
自分自身の治療すら、まだ十分ではない。
それでも。
淡い光が、ログの傷口を包んでいた。
「……レテ」
「……何ですか?」
「……もういいぜ」
「……駄目です」
即答だった。
「まだ、治療が終わっていません」
「……けどよ」
「……黙っていてください」
「……へいへい」
ログが苦笑する。
だが、その視線は再び戦場へ向けられた。
先ほどから、何度も思い知らされていた。
自分たちが敗北した相手。
その不死隊と。
真正面から渡り合っている者たちがいる。
しかも。
ただ耐えているわけではない。
攻め。
受け。
時には、不死隊の身体に傷を刻んでいる。
「……俺たちも、結構やれるようになったと思ってたんだけどな」
ログが呟いた。
「……まだまだだ」
ガオンが答える。
その声は、どこか悔しげだった。
「……ああ」
ログが目を細めた。
「……嫌になるぜ」
その少し後方では。
「……っ」
ユノが、両脚を包帯で覆ったまま膝をついていた。
《暖脈》。
仲間たちの身体を支えるため、僅かずつ霊素を巡らせている。
だが。
その視線は、遠く離れた戦場へ向いていた。
ノエルとエルネ。
自分とさほど年齢の変わらない少年が、不死隊の一人と戦っている。
「…………」
ユノが唇を噛んだ。
(……僕も……)
もっと強くならなければ。
その思いが、胸の奥で膨らんでいく。
ヒルトとフィリアもまた、崩れた石壁に身を預けていた。
ヒルトの左腕は、ほとんど動かない。
腹部と肋骨付近には、強い痛みが残っている。
一方のフィリアも、脇腹を押さえたままだった。
「……すごいね」
フィリアが小さく呟いた。
「……うん」
ヒルトが答える。
それ以上、言葉が続かなかった。
目の前にあるのは。
自分たちが、まだ到達できていない領域。
その現実だった。
レテが、僅かに顔を上げる。
戦場を見つめた。
何度も経験したはずだった。
力の差。
敗北。
そして、悔しさ。
しかし。
今回ばかりは、その差があまりにも大きかった。
(……アルト君は……)
レテは、ふと考えた。
かつて。
この者たちと、同じ部隊にいたアルト。
彼は、一体どんな日々を過ごしていたのだろう。
そのとき。
遠くで、轟音が響いた。
ドォォンッ!
石畳が揺れる。
ログが苦笑した。
「……ったく。休ませてくれねぇな」
ガオンも、僅かに笑った。
だが。
その笑みは。
次の瞬間、消えた。
ぞわり。
「…………」
何かが。
変わった。
風ではない。
音でもない。
目に見えるものなど、何一つなかった。
それなのに。
ガオンの全身を、得体の知れない感覚が駆け抜けた。
「…………っ!」
額から、汗が噴き出した。
首筋。
背中。
胸元。
冷たい汗が、次々と肌を伝う。
(……何だ……?)
問いを口にしようとした。
だが。
声が出なかった。
喉が、固まったように動かない。
そして。
ぐるり。
「…………⁉︎」
胃が、激しく捩じれた。
強烈な吐き気。
今にも、胃の中のものを吐き出してしまいそうだった。
だが。
身体が動かない。
口元を押さえることすらできなかった。
それは、ガオンだけではなかった。
「…………っ」
レテの手が止まった。
ログの傷口を包んでいた光が、ふっと消える。
しかし。
レテは、それに気づくことすらできなかった。
全身から汗が噴き出す。
呼吸が、詰まる。
喉の奥から、何かが込み上げてくる。
(……っ……!)
吐き気。
それも、これまで経験したことのないほどの。
だが。
指一本、動かせない。
「…………!」
ログも同じだった。
仰向けのまま、身体が硬直している。
汗が頬を伝い、石畳へ落ちた。
(……何だよ……これ……!)
立ち上がろうにも、身体が動かない。
いや。
そもそも、立ち上がろうという考えすら浮かばなかった。
頭の中が、真っ白になっていた。
ユノの《暖脈》も、途切れていた。
その場で膝をついたまま、ただ震えている。
ヒルトは、目を見開いていた。
フィリアも、脇腹を押さえた姿勢で固まっている。
誰一人として。
声を発することができなかった。
ただ。
全身から汗が噴き出し。
胃の奥を、強烈な吐き気が襲っている。
息を吸う。
ただ、それだけのことが。
これほど難しいとは、思わなかった。
(……殺気……?)
ガオンの頭に、一つの言葉が浮かんだ。
だが。
これを、ただの殺気と呼んでいいのだろうか。
これまでにも、強敵と対峙したことはある。
圧倒的な力を前に、恐怖を覚えたこともある。
しかし。
こんなものは、知らない。
敵意を向けられた。
ただ、それだけで。
身体が、生命の危機を訴えていた。
(……どこだ……!)
ガオンは、必死に目を動かした。
身体は動かない。
首を回すことすらできない。
それでも。
視線だけは、僅かに動いた。
そして。
「…………!」
見つけた。
少し離れた場所。
崩れた石畳の向こう。
そこに。
一人の男が立っていた。
がっしりとした体格。
やや小太りにも見える、その身体。
身に纏っているのは、不死隊の制服。
しかし。
これまで見た隊員たちとは、少し違っていた。
制服の一部に、青い装飾が施されている。
頭には、軍帽。
その影から覗く顔には、どこか柔和にも見える表情が浮かんでいた。
そして。
右手には、一振りの軍刀。
青と黒を基調とした、重厚な意匠。
刃は、鞘に収められたまま。
鞘の先端を、石畳へつけている。
男は、その軍刀に手を添えていた。
まるで。
散歩の途中に、少し立ち止まったかのような。
そんな自然な姿勢だった。
「…………」
ガオンの喉が、僅かに鳴った。
(……あいつ……!)
分かった。
この男だ。
この男から。
あの凄まじい殺気が放たれている。
ログもまた、視線だけを動かしていた。
そして。
男の姿を捉えた瞬間。
(……冗談……だろ……)
心の中で、そう呟いた。
何もしていない。
武器を抜いてすらいない。
ただ、そこに立っているだけ。
それなのに。
身体が動かない。
吐き気が止まらない。
目を逸らしたい。
だが。
逸らすことすら、怖かった。
男が、ゆっくりと口を開いた。
「不死隊、止まれ。」
低く。
しかし、よく通る声だった。
怒鳴ったわけではない。
威圧するような口調でもない。
ただ。
命じた。
それだけだった。
そして。
男の口元が、大きく吊り上がる。
「ナッハハ!」
豪快な笑い声が、戦場に響いた。
ガオンは、その男を見つめたまま動けなかった。
ログも。
レテも。
誰一人として、言葉を発することができない。
ただ。
軍帽を被ったその男の姿だけが。
あまりにも鮮明に。
目に焼きついていた。




