やっとかよ
ドーマの足が、音もなく前へ出た。
血に濡れた紫色の服。
右肩、左肩、そして脇腹。
そのどれもが深く斬り裂かれている。
だというのに。
「……へへっ」
ドーマは笑っていた。
短剣を握る左手をだらりと下げ、まるで散歩でもするかのように歩いてくる。
リオネルは騎士剣を構えた。
(……まだ動けるのか)
先ほどの攻防で、確かに深手を負わせた。
普通ならば、剣を握ることさえ難しい傷だ。
だが、目の前の男は違う。
痛みを感じていないわけではない。
その証拠に、動くたびに表情が歪んでいる。
それでも。
戦うことを、やめようとしない。
「……騎士様よぉ」
ドーマが口を開く。
「ひとつ聞いてもいいかい?」
「……何だ」
「あんた、なんでそこまで剣にこだわんだ?」
「…………」
「剣の腕じゃ俺に勝ってる。そりゃ認めるよ。けど、実際にこうして斬り合ってんのに、まだ勝ててねぇ」
ドーマは短剣を軽く振った。
「だったら、もっと別のやり方を考えりゃいいじゃねぇか」
リオネルは僅かに目を細めた。
「……貴様に言われるまでもない」
「へへっ。そうかい」
「私は剣だけで戦っているつもりはない。先ほども貴様に頭突きを見舞ったはずだが?」
「ぶっはは! ありゃ効いたぜぇ!」
ドーマが鼻を擦る。
指先に、まだ血がついていた。
「いやぁ、騎士様に頭突きされるとは思わなかったわ」
「ならば、次はもっと強く打ち込んでやろう」
「おっかねぇなぁ」
ドーマが肩を揺らした。
そして。
「……でもよ」
笑みが薄れる。
「あんた、まだひとつ勘違いしてるぜ」
「……何?」
「俺のこと、剣が下手なだけの男だと思ってんだろ?」
リオネルは答えなかった。
確かに、剣技では自分が上回っている。
だが、それだけでドーマを侮ってはいない。
その危険性は、既に身体で理解していた。
「……へへっ」
ドーマが短剣を持ち上げる。
「ま、いいや。そろそろ終わりにしようぜ」
ゆらり。
身体が揺れた。
右へ。
左へ。
重心が定まらない。
しかし、その足運びは不思議なほど静かだった。
(……来る)
リオネルが騎士剣を握り直す。
ドーマの左手が動いた。
短剣の切っ先が、ゆっくりと上を向く。
「……騎士様」
「…………」
「これ、避けられるかい?」
ドーマの膝が折れた。
倒れる。
そう思わせるほど、深く。
しかし、石畳へ触れる寸前。
全身が、一気に引き締まった。
ダンッ!
ドーマの身体が跳ねた。
短剣が、下から鋭く突き上げられる。
狙いは胸。
だが。
「……っ!」
リオネルは動かなかった。
まだだ。
この男の攻撃は、最初に見えた軌道を信じてはならない。
短剣が迫る。
胸元。
そして、喉元へ。
ドーマの身体が捻られ、刃の進路が変わった。
(……やはり!)
リオネルはバックラーを僅かに傾ける。
しかし。
「……へへっ」
ドーマが笑った。
「《酔狸》」
短剣が、消えた。
いや。
消えたのではない。
左腕から力が抜けたのだ。
振り上げられていた短剣が、重力に従って落ちる。
同時に、ドーマの身体が前へ崩れた。
刃の狙いが、喉から腹部へ。
リオネルの盾が、僅かに遅れる。
(……下か!)
だが、ドーマはまだ止まらない。
落ちた短剣を、今度は腰の回転で引き上げる。
脱力。
緊張。
その切り替えが、短い間隔で繰り返される。
まるで、酔った男がふらつきながら刃を振り回しているかのように。
しかし、その一撃一撃は正確だった。
狙うは、盾の内側。
リオネルの左脇腹。
「……っ!」
リオネルはバックラーを下げた。
だが、その瞬間。
ドーマの身体が、再び跳ねる。
短剣が上へ。
今度こそ、喉元へ向かって。
(……なるほど)
リオネルの目が鋭くなる。
避ければ、追ってくる。
防げば、その防御を利用される。
そして、こちらが剣を振れば、身体を捨ててでも懐へ入ってくる。
ならば。
(……受ける!)
リオネルが左腕を突き出した。
「第二継承技――」
短剣が迫る。
「《受流》!」
キィンッ!
バックラーの表面を、短剣が滑った。
力を真正面から受け止めるのではない。
刃の進む方向を、僅かに変える。
それだけでよかった。
ドーマの短剣が、リオネルの肩口を通り過ぎる。
「……へぇ!」
ドーマの目が見開かれた。
だが、まだ終わらない。
短剣を振り抜いた勢いに合わせ、ドーマの身体が回転する。
そのまま、反対側から斬りつけるつもりだった。
しかし。
リオネルも、同じ方向へ回っていた。
受け流した力を、そのまま自身の動きへ変える。
右足が石畳を踏む。
腰が回る。
騎士剣が、滑らかに引かれた。
「《返潮》!」
鋭い横薙ぎ。
狙いは、ドーマの胴。
受け流しからの反撃。
流れる水のように、ひとつの動作が次の動作へ繋がっていく。
ドーマの短剣は、リオネルの左脇腹へ。
リオネルの騎士剣は、ドーマの胴へ。
二つの刃が交差する。
互いの攻撃が届くまで、あと僅か。
そのときだった。
ピタリ。
二人の動きが止まった。
「……⁉︎」
リオネルの目が見開かれる。
剣を振り抜こうとする。
だが、動かない。
腕が。
脚が。
指先さえも。
まるで、身体そのものを見えない何かに押さえつけられたかのようだった。
(……何だ、これは!)
力を込める。
しかし、騎士剣は微動だにしない。
足を動かそうとしても、石畳から離れなかった。
「⁉︎ な、なんだ……」
目の前には、ドーマがいた。
短剣を振り抜こうとした姿勢のまま。
こちらも動きを止めている。
しかし。
その表情は、リオネルとは違っていた。
ドーマは驚いていない。
むしろ、待ち望んでいたかのように。
「……あぁ」
深く息を吐いた。
そして、どこか安堵したように呟く。
「……やっとかよ……」




