蜂蜜の香り②
フィリアは笑いながら、ヒルトの左腕へ目を向けた。
包帯と固定具で、痛々しく固められている。
胸元にも包帯が巻かれていた。
笑っている場合ではない。
そう思うと、自然と口元から笑みが消えた。
「……ねぇ。」
「なに?」
「なんで逃げなかったの?」
ヒルトが目を瞬かせる。
「え?」
「あんなに強い人から、なんで一人で……。」
フィリアは固定された腕を見つめた。
自分たちを逃がすために、ヒルトはあの男の前へ残った。
もしセリオが間に合わなければ。
こうして隣で話すことも、できなかったかもしれない。
「フィリアも立ち向かったじゃない。」
「あんなに強いって知らなかったもん。」
「うーん……。」
ヒルトは少し考えるように、視線を上へ向けた。
「僕が残らなかったら、誰も助からなかったでしょ?」
「でも……。」
「セリオさんでも倒しきれなかったんだから、三人で逃げても追いつかれてたと思う。」
淡々とした声だった。
自分が死ぬかもしれなかったことを、まるで大したことではないように話している。
「それにさ。」
ヒルトがフィリアへ視線を戻した。
「傷ついた女の子がいたら、簡単には逃げ出せないよ。」
「……。」
フィリアは目を丸くした。
ヒルトの顔は少し赤い。
格好をつけたかったのか。
それとも、本気で言っているのか。
どちらにしても。
「男の子だねぇ〜。」
「え?」
フィリアは右手を伸ばし、ヒルトの頭を撫で回した。
「ちょ、やめてよ!」
「偉い偉い。」
「髪がぐちゃぐちゃになるって!」
「あの泣き虫ヒルトがねぇー。」
「アカデミー生の時と一緒にしないでよ!」
ヒルトが頭を守りながら身を引く。
「もう僕、軍人なんだよ!」
「はいはい。立派な軍人さんだねぇ。」
「子供扱いしてるでしょ。」
「してないよ?」
「絶対してる。」
フィリアは楽しそうに笑いながら、手を引いた。
ヒルトは乱れた髪を整え、不満そうに頬を膨らませる。
「あと、僕、君を抱えて走れないし。」
「は?」
「だから残るしかなかったっていうか――いたっ!」
フィリアの拳が、ヒルトの肩へ飛んだ。
「何すんの⁉︎」
「いい雰囲気を台無しにしたから。」
「からかった仕返しだよ!」
「私、怪我人なんだけど?」
「僕だって怪我人だよ!」
二人はしばらく睨み合った。
やがてフィリアが、何かを思いついたように笑う。
「ねぇ、ヒルト。」
「今度はなに?」
「ニックネームつけてあげる。」
「別にいらないけど。」
「ルトルトコンビは嫌なんでしょ?」
「普通に呼んでよ。」
「んー……。」
フィリアはヒルトの顔をじっと見つめた。
弱気で。
泣き虫で。
それでも、自分たちを守るために一人で残った。
傷だらけになっても、最後まで逃げなかった。
「……ヒール。」
「え?」
「ヒールなんてどう?」
「ヒール……。」
ヒルトが怪訝そうに眉を寄せる。
そして、すぐに嫌そうな顔をした。
「それ、昔のヴォルグの言葉で、悪役って意味じゃん。やだよ。」
「やーだ。」
「いや、僕が嫌だって言ってるんだけど。」
「だーめ。ヒールに決定!」
「勝手すぎない?」
「決定したものは決定です。」
フィリアが得意げに胸を張る。
その直後、腹部の傷が痛み、少しだけ顔を歪めた。
「ほら、無理するから。」
ヒルトが心配そうに身を乗り出す。
「平気平気。」
「本当に?」
「うん。」
フィリアは笑顔を作った。
ヒルトはしばらく疑うように見ていたが、諦めたように息を吐く。
「はぁ……分かりました。」
「あと、私以外には呼ばせないでね!」
「誰にも呼ばせないよ、そんな名前。」
「約束ね。」
「はいはい。」
ヒルトは寝台から立ち上がった。
「僕はもう行くよ。」
「どこ行くの?」
「少し歩いた方がいいって言われてるから。フィリアは寝てなよ。」
「はーい。」
ヒルトが扉へ向かう。
「じゃーねー、ヒール。」
「その名前、絶対に定着させないからね。」
そう言い残し、ヒルトは病室を出ていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていくのを確かめてから、フィリアは小さく呟いた。
「ヒールはね……。」
誰もいない扉を見つめる。
「癒やしって意味もあるんだよ。」
胸の奥が、少しくすぐったい。
「へへへ。」
フィリアは布団を口元まで引き上げ、一人で笑った。




