淡い移ろい
丘を上りきる頃には、空はすっかり夜の色へと変わっていた。
「……着いたぁ」
隣でフィリアが小さく息を吐く。
「お疲れ様」
「疲れた」
「昼間は平気そうだったのに」
「今日はいっぱい歩いたから」
「そうだったね」
僕も一度息を吐いてから、顔を上げる。
昼間に訪れた店。
同じ建物のはずなのに、夜になると随分と印象が違って見えた。
二階建ての建物には暖かな灯りが点き、大きな窓からは店内の様子が見える。
昼間は静かだった店先にも何組かの客がいて、開いた扉からは楽しそうな話し声と料理の匂いが漏れていた。
「結構いるね」
「やっぱり予約しておいてよかった」
「うん」
フィリアが建物の上を見る。
そのさらに上。
屋上にも、昼間にはなかった灯りが点いていた。
「あそこだね」
「そうだね」
「…………」
「フィリア?」
「楽しみ」
「ならよかった」
昼間から何度か思ったけど。
今日のフィリアは、随分とよく笑う。
「入ろうか」
「うん!」
扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
すぐに店員さんが声を掛けてきた。
店内にはいくつもの卓が並び、そのほとんどが客で埋まっている。
食器の触れ合う音。
あちこちから聞こえる話し声。
厨房の方から漂ってくる、焼いた肉や香草の匂い。
「いい匂い……」
「お腹空いた?」
「空いた」
「坂を上ってる時は疲れたって言ってたのに」
「それとこれは別」
「そっか」
その答えに笑いながら、店員さんへ声を掛ける。
「昼間に二人で予約したんですけど」
「ご予約のお客様ですね。少々お待ちください」
店員さんが手元の帳面を確認する。
「ああ、屋上のお席をご予約のお客様ですね」
「はい」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
案内されるまま、僕たちは店の奥へ進んでいく。
一階を抜け、階段を上って二階へ。
二階にも客席が並び、窓際の席からは街の灯りが見えていた。
「二階でも綺麗だね」
「そうだね」
「屋上はもっと見えるかな」
「たぶんね」
さらに奥へ進むと、もう一つ上へ続く階段があった。
店員さんに続いて最後の段を上る。
その瞬間。
ふわりと。
夜風が頬を撫でた。
「――わぁ……」
フィリアが足を止める。
屋上にはいくつものテーブルが並び、その一つ一つに小さな灯りが置かれていた。
屋上を囲む柵にも淡い光を放つランプが吊るされている。
けれど。
目に入ったのは、それだけじゃなかった。
丘の下。
夜のジーアスを埋め尽くす、人々の暮らしの灯り。
そして。
その間を縫うように。
いくつもの淡い光が、ゆっくりと行き交っていた。
「精霊たちもいるね」
「うん」
屋根の上を跳ねるように進むもの。
建物の間を漂うもの。
店先では、小さな精霊が人のすぐ傍に座っている。
通りを走る子供たちの後ろを、何体かの精霊が追いかけているのも見えた。
誰も驚かない。
追い払う者もいない。
精霊たちもまた、人を恐れる様子はなく。
それぞれが好きなように、夜の街で過ごしている。
人の作った灯りと。
精霊たちが纏う淡い光。
二つが混ざり合いながら、夜のジーアスを照らしていた。
「こちらのお席になります」
店員さんに声を掛けられ、視線を戻す。
案内されたのは、屋上の端に用意された二人掛けの席だった。
目の前を遮るものはなく。
座ったままでも、ジーアスの街を見渡すことができる。
「ここ?」
「はい。こちらがご予約のお席となっております」
「ありがとうございます」
荷物を邪魔にならない場所へ置き、二人で向かい合って席につく。
「…………」
フィリアは座ってからも。
ずっと街を眺めていた。
人がいて。
精霊がいて。
同じ街で、当たり前のように暮らしている。
いつものジーアスだ。
僕にとっても。
フィリアにとっても。
何度も見てきた景色のはず。
それなのに。
「そんなに気に入った?」
「うん」
「でも、こういう景色ならいつも見てるでしょ?」
「そうだけど」
フィリアがこちらを向いた。
「今日は特別」
「特別?」
「うん」
そう言って。
また街へ視線を戻す。
「…………?」
何が違うんだろう。
街が別の場所になったわけでもないし。
精霊たちだって、いつもと変わらない。
僕にはよく分からない。
けれど。
フィリアが楽しそうなら、それでいいか。
「そっか」
「うん」
夜風が吹く。
フィリアの髪が、ふわりと揺れた。
そのすぐ傍を。
淡い緑色の光を纏った、小さな風の精霊が通り過ぎていく。
「あ」
フィリアが目で追う。
その小さな精霊は、そのまま行ってしまうのかと思ったけれど。
くるり。
風に乗るように向きを変え。
フィリアの周りを一度だけ回った。
「ふふっ」
フィリアが笑う。
精霊はその声に反応したのか。
もう一度だけフィリアの傍を漂うと、夜の街へ向かって飛んでいった。
「…………」
何度も見てきた景色。
いつも街にいる精霊。
いつも吹いている風。
何一つ、珍しいものなんてない。
なのに。
今日のフィリアは。
その全部を、いつもより少しだけ嬉しそうに眺めている。
「ヒール」
「ん?」
「ここにしてくれて、ありがとう」
「…………」
なんだ。
そんなことか。
「どういたしまして」
「うん」
フィリアがまた笑う。
どうやら。
頑張って調べた甲斐は。
僕が思っていた以上に、あったみたいだ。




