魚と香草蒸し焼き
◇
フィリアと別れた後、私はそのまま家へ帰る……前に、馴染みの店が並ぶ通りへ寄ることにした。
「これと……あとは、おばあちゃんの好きなものも買っていきましょうか」
夕食に使えそうな食材を少しと、おばあちゃんが昔から好きな焼き菓子を買う。
家に食べるものがないわけではないと思う。
おばあちゃんは今でも一人で買い物へ行くし、料理も掃除も洗濯も自分でこなしている。
だからこれは、お土産みたいなものだ。
紙袋を抱えて通りを抜けると、見慣れた住宅街へ出た。
子供の頃、おばあちゃんと何度も歩いた道。
角にあるパン屋も、向かいの古い時計屋も昔と変わっていない。
「……こんなに狭かったですかね」
小さい頃は、もっと広い道だと思っていた。
おばあちゃんと手を繋いで歩いて。
途中で精霊を見つけては足を止めて、なかなか家まで辿り着かなかった。
そんなことを思い出しながら歩いていると、やがて小さな一軒家が見えてきた。
少し古くなった扉。窓辺に並んだ植木鉢。庭には洗濯物が揺れている。
花も綺麗に手入れされていた。
「…………」
何も変わっていない。
そう思うと、少しだけ安心した。
門を開けて、扉の前まで歩く。
自分の家なのに、少し緊張していた。
今日は。
私のことを、どこまで覚えているだろう。
一度息を吐いてから、扉を開けた。
「ただいま」
「あら?」
すぐに声が返ってきた。
居間から顔を出したのは、白髪のおばあちゃんだった。
昔より小さくなったように見えるけれど、その足取りはしっかりしている。
「あらあら」
私を見るなり、おばあちゃんの顔が柔らかくなった。
「おかえりなさい」
「……!」
覚えてる。
嬉しくなって、自然と笑顔になる。
「はい! ただいま、おばあちゃん」
「今日は早かったのねぇ」
「え?」
「学校はどうだった?」
「…………」
胸の奥が、僅かに痛んだ。
学校。
もう何年も前の話だ。
「……楽しかったですよ」
「そう。それなら良かったわ」
おばあちゃんは満足そうに笑う。
私のことは分かっている。
でも。
今の私ではない。
「お土産、買ってきたんです」
「あらぁ。そんなのいいのに」
「私が買いたかったんですよ。おばあちゃん、これ好きでしょう?」
紙袋から焼き菓子を取り出すと、おばあちゃんの目が少し輝いた。
「まぁ! よく覚えてたわねぇ」
「もちろんです」
「昔から好きなのよ、これ」
「知ってますよ」
「そうなの?」
「……はい」
思わず笑ってしまった。
「お茶にしましょうか」
「そうね。ちょうど私も飲もうと思っていたところなの」
「私が淹れますよ」
「あら、お客さんにそんなことさせられないわ」
「…………」
まただ。
さっきまで、学校から帰ってきた頃の私だと思っていたのに。
もう、知らない誰かになっている。
「大丈夫ですよ。場所は分かりますから」
「そう?」
「はい」
台所へ向かう。
流しは綺麗に片付けられ、食器もきちんと棚に収められている。籠には新しい野菜が入り、窓際では乾燥させた香草が揺れていた。
何も、おかしくない。
おばあちゃんは今も普通に暮らしている。
料理もする。
買い物にも行く。
庭の花を手入れして、近所の人とも話をする。
昔から知っている人のことだって、ちゃんと覚えている。
ただ。
私のことだけが、時々分からなくなる。
戸棚を開ける。
茶葉の場所も、カップの場所も昔と変わっていない。
当たり前だ。
ここは、私が育った家なのだから。
「あ……」
棚の奥に、小さな水色のカップを見つけた。
縁がほんの少し欠けている。
「まだあったんですね」
子供の頃、私が使っていたカップ。
背が低くて戸棚に手が届かなかった頃は、いつもおばあちゃんがこれに飲み物を入れてくれた。
私はそのカップを取り出して軽く洗い、二人分のお茶を淹れた。
「お待たせしました」
「あら、ありがとう」
向かい合って座り、買ってきた焼き菓子を皿に並べる。
おばあちゃんは一つ手に取って口へ運ぶと、嬉しそうに頬を緩めた。
「美味しい」
「よかったです」
「あなたも食べなさい」
「はい。いただきます」
一つ取って齧る。
「……甘い」
「あら、これくらいが美味しいのよ」
「昔は私も、そう思ってたんですけどね」
「昔?」
「あ……いえ。なんでもないです」
昔は二つ、三つと食べていた。
食べすぎだと止められて。
それでもこっそり取ろうとして、結局見つかって怒られた。
私は覚えている。
ちゃんと。
全部。
「…………」
「どうしたの?」
「いえ」
私は首を振った。
「やっぱり、おばあちゃんと食べると美味しいなと思って」
「あらぁ」
おばあちゃんが嬉しそうに笑う。
そして、しばらく私の顔を見つめた後。
「あなた」
「はい?」
「綺麗な髪ねぇ」
皺の増えた手が伸びてきて、私の髪を優しく撫でた。
「…………」
ゆっくりと。
髪を梳くように、何度も。
昔もこうだった。
眠れない夜も。
泣いて帰ってきた日も。
おばあちゃんは私の隣に座って、こうして髪を撫でてくれた。
「……おばあちゃん?」
「ん?」
「いえ……なんでもありません」
目の前にいる私が誰なのか。
きっと今は、分かっていない。
それなのに。
その手つきだけは、昔と何も変わらなかった。
「そうだ」
不意に、おばあちゃんが手を止める。
「今日は魚にしましょうか」
「魚ですか?」
「ええ。香草と一緒に蒸し焼きにして」
「…………」
思わず、おばあちゃんを見る。
「あら? お魚は嫌い?」
「いえ」
違う。
むしろ――。
「……好きです」
「あら、よかった」
おばあちゃんが嬉しそうに笑う。
「なんだかねぇ。今日はそれを作らないといけないような気がして」
「…………」
「変ねぇ」
「……そうですね」
魚の香草蒸し焼き。
小さい頃から、私の大好物だった。
誕生日にも。
何か良いことがあった日にも。
私がお願いすると、おばあちゃんは決まって作ってくれた。
なのに。
それを誰のために作っていたのかは、もう覚えていない。
「私も手伝います」
「あら、いいの?」
「はい。二人で作りましょう」
「ふふ。じゃあ、お野菜をお願いしようかしら」
「分かりました」
おばあちゃんが立ち上がり、台所へ向かう。
私もカップを持って、その後を追おうとした。
「レテ」
「――え?」
足が止まる。
思わず顔を上げた。
「…………」
おばあちゃんは何事もなかったように棚を開け、束ねてある香草を取り出している。
「おばあちゃん……今……」
「ん?」
「…………」
私を見つめる瞳。
そこに、さっき名前を呼んだことへの特別な反応はなかった。
「……いえ」
「そう?」
「はい。なんでもありません」
聞き間違いかもしれない。
それでも。
胸の奥が、少しだけ温かかった。
私は袖を捲り、おばあちゃんの隣へ立つ。
三日後には、またみんなで集まってスパーナへ向かう。
それまでの三日間。
一緒にご飯を作ろう。
買い物にも行こう。
庭の花の手入れだって手伝おう。
昔みたいに、二人でお茶も飲もう。
できるだけ。
おばあちゃんのそばにいよう。
たとえ。
私のことを、分かってもらえなくても。




