絶対に間に合わせる
アルトは、ただ走っていた。
腕の中には、血に濡れたフィリアがいる。
軽いはずの身体が、今はひどく重かった。
「おい、フィリア。聞こえてるか?」
返事はない。
僅かに開いた唇から、細い呼吸だけが漏れている。
抱きかかえた身体から、少しずつ温もりが失われていく。
嫌だ。
嫌だ。
どんどん、フィリアが冷たくなっていく。
――俺のせいか?
俺がでしゃばったから。
俺があの男へ向かっていったから、フィリアは俺を守ろうとして――
「頼む……もう死なないでくれ……」
腕へ力を込める。
間に合え。
もっと速く。
「走れよ……!」
アルトは歯を食いしばり、地面を強く蹴った。
木々が後方へ流れていく。
森に漂っていた精霊たちは、アルトが近づくより先に一斉に逃げ出した。
淡い光の群れが左右へ割れ、進路上から消えていく。
それでも遅い。
まだ足りない。
「もっと速く走れよ、俺!」
「おい。」
突然、頭上から声が落ちてきた。
「⁉︎ 誰だ!」
アルトは足を止めず、周囲を見回す。
「上だよ、上。」
視線を上げる。
木の枝に、黒髪の青年が立っていた。
無造作な前髪の隙間から覗く瞳が、光の当たり方によって幾つもの色彩を浮かべている。
青年はアルトを見るなり、露骨に顔をしかめた。
「お前……気持ち悪りぃな。」
「うるせぇ! 邪魔だ!」
アルトは速度を緩めない。
友達が。
フィリアが、間に合わなくなる。
「待てって。」
青年が枝から飛び降り、アルトの進路へ着地した。
「邪魔すんな!」
「安心しろよ。」
青年はアルトの腕の中へ目を向ける。
「俺は、そいつの仲間だ。」
アルトの足が止まった。
「じゃ、じゃあフィリアを頼む!」
縋るように、一歩踏み出す。
「まだヒルトが残ってるんだ! あいつ、一人で――」
「おい。」
低い声だった。
先ほどまでの軽さが、跡形もなく消えている。
アルトの身体が、反射的に強張った。
青年の瞳が、真っ直ぐアルトを射抜く。
「背負ったもん、簡単に投げ出すなよ。」
「……え?」
「ヒルトは、お前を信じたんだろ。」
アルトは何も言えなかった。
「自分が残れば、お前がそいつを助けられるって信じた。」
青年が一歩近づく。
「ヒルトは、自分にできることのために命張ってんだ。」
低く、鋭い声がアルトの胸へ突き刺さる。
「だったらテメェも、テメェにできることへ命張れや!」
アルトは腕の中のフィリアを見る。
弱い呼吸。
血に濡れた服。
冷たくなり始めた身体。
ヒルトの言葉が蘇る。
――その子を連れて、救援を呼んでください。
――君なら、その子を抱えたままでも僕より速い。
ヒルトは、自分へ託したのだ。
フィリアを助けることを。
「ヒルトは俺に任せろ。」
青年はアルトの横を通り過ぎた。
「お前は止まるな。」
アルトは歯を食いしばる。
フィリアを抱く腕へ、もう一度力を込めた。
「……頼む。」
「ああ。」
短い返事が返ってくる。
アルトは振り返らなかった。
再び地面を蹴り、レテたちのいる方角へ走り出す。
背後では、青年が木の枝へ飛び移る音がした。
そして、瞬く間に遠ざかっていく。
「待ってろ、フィリア。」
アルトは前だけを見た。
「絶対に、間に合わせる。」




