帰る場所
崩落音が近づいていく。
ガオンたちが継承の間へ辿り着いた時、そこは先ほどまでとはまるで違う姿になっていた。
床を覆っていた浅い水は濁り、砕けた石片が至る所に散らばっている。壁には大きな亀裂が走り、天井からは絶えず砂埃が落ちていた。
「アルト!」
ガオンが声を上げる。
「……ガオン?」
床に倒れたまま、アルトが顔だけを動かした。
「おっそ……」
「お前……!」
駆け寄ろうとしたガオンの足が止まる。
アルトの身体は酷い有様だった。
右腕は力なく転がり、左腕も動かない。左脚にもまともに力が入っていないのか、不自然に伸びたままになっている。
何より。
流した血の量が多すぎる。
「……何だ、その怪我」
「まあ……ちょっと色々」
「ちょっとで済むか!」
「でも勝ったぞ」
「そういう問題じゃ――」
「ガオン」
後ろからスカーの声が飛ぶ。
「先にそいつを診せろ」
「……はい」
だが。
セヴェルは動かなかった。
「…………」
その視線は、アルトではなく。
少し離れた場所へ向けられていた。
砕けた床の上。
一人の男が横たわっている。
《慰域》は消え。
《蛇針》も手を離れ。
もはや蛇遣い座の星を纏ってはいない。
「…………兄さん」
小さな声だった。
セブランの瞼が僅かに動く。
「……あ?」
ゆっくりと顔を向ける。
そこに立つ人物を認めた瞬間。
セブランの表情が固まった。
「……セヴェル?」
「…………」
「何で……テメェがここにいる」
セヴェルは答えなかった。
代わりに胸元から、革張りの手帳を取り出す。
それを見た瞬間。
セブランの目が細くなった。
「それ……」
「父のものです」
「…………!」
「父は……死にました」
空気が止まった。
「…………は?」
セブランの声から、荒々しさが消える。
「今……何て」
「父は亡くなりました」
「…………」
セブランは何も言わない。
いや。
言えなかった。
「……そうか」
ようやく出たのは、それだけだった。
天井を見上げる。
「……あのジジイ」
口元を歪める。
「最後まで……勝手なことしやがって」
「兄さん」
「その呼び方やめろ」
「嫌です」
「…………あ?」
「やめません」
セブランが顔を向ける。
セヴェルは真っ直ぐ兄を見ていた。
「父の日記を読みました」
「…………」
「あなたのことが書いてありました」
セブランの目が揺れる。
「……何て?」
「何度も」
セヴェルは手帳を強く握る。
「何度も、あなたの名前が」
「…………」
「セブラン・レピオス」
その名を聞いた瞬間。
セブランの顔から表情が消えた。
「父は……あなたを忘れてなんかいませんでした」
「……やめろ」
「追い出したことも。あなたに何も話さなかったことも」
「やめろ」
「ずっと後悔していました」
「やめろっつってんだろ!」
セブランの叫びが響く。
けれど。
セヴェルは止まらなかった。
「父は、あなたを守ろうとしていた」
「違う!」
「レピオスだと知られれば、また殺されるかもしれない。だから――」
「違う!!」
セブランが身体を起こそうとする。
だが、力が入らない。
「だったら何で言わなかった!」
「…………」
「何で俺に聞かなかった! 何で何も言わずに追い出した!」
拳を作ろうとして。
力なく指が震える。
「俺が……どんな気持ちで……」
声が掠れた。
「十五年……」
セヴェルは俯く。
「……父は、間違えたんだと思います」
「…………」
「守ることだけ考えて。兄さんの気持ちを、聞かなかった」
「今更……」
「はい」
セヴェルは顔を上げる。
「今更です」
「…………」
「だから父は、もう謝れません」
手帳を胸へ抱く。
「代わりに私が謝ることもできません」
「だったら何しに来た」
「連れ戻しに来ました」
「…………は?」
「兄さんを」
セブランが呆然とする。
「どこにだよ」
「帰るんです」
「……帰る?」
その言葉に。
セブランの目が僅かに見開かれた。
「俺に……帰る場所なんか」
「あります」
セヴェルは即答した。
「ここに」
「…………」
「少なくとも、私は」
一歩。
セヴェルがセブランへ近づく。
「兄さんに帰ってきてほしかった」
セブランは何も言えなかった。
先ほどアルトに言われた言葉が、頭の中を過ぎる。
帰る場所は。
場所じゃなくてもいい。
「…………俺は」
唇が震える。
「帰ってきても……よかったのか?」
セヴェルの顔が歪んだ。
「……当たり前でしょう」
「…………」
「もっと早く……」
声が震える。
「もっと早く帰ってきてくださいよ……兄さん」
セブランは目を閉じた。
「……馬鹿野郎」
掠れた声。
それが誰へ向けられたものなのか。
誰にも分からなかった。
その時。
――ミシッ。
天井から嫌な音がした。
「……っ!」
スカーが顔を上げる。
「全員、離れろ!」
亀裂が一気に広がった。
巨大な岩盤が剥がれる。
その真下。
「セヴェル!」
「え――」
セヴェルが見上げる。
遅い。
落ちてくる。
誰も間に合わない。
その瞬間。
「――ッ!」
セブランの身体が動いた。
「兄さ――」
残った力を振り絞り。
セヴェルへ飛びつく。
その身体を突き飛ばした。
――ズドォォォン!!
「――――!」
轟音。
砂埃が継承の間を覆い尽くした。




