君はもう
「……っ⁉︎」
さっきまで仰向けに見上げていたはずの天井が、突然遠ざかる。浅かったはずの水は底の見えない深さへ沈んだように感じ、横を向けば壁までの距離すら分からない。
アルトは咄嗟に身体を起こそうとした。
だが。
「……なんだ、これ」
自分の腕が、やけに遠い。
目の前にある。
ちゃんと見えている。
それなのに、自分の身体ではないような感覚がある。
「これが《慰域》だ」
セブランの声が聞こえた。
正面から。
背後から。
右から。
左から。
同じ声が、継承の間のあらゆる場所から重なって響く。
「通常の《癒憩》は、一人一人の認識へ触れる力だ。だが星纏では、その範囲そのものを広げられる」
「……広げる?」
「あぁ。この中では、君が見ているものも、聞いているものも、感じているものも――どこまでが現実なのか、君自身には判断できない」
アルトが目を凝らす。
セブランがいる。
一人。
その横にも。
もう一人。
さらに奥にも。
「……また増えた」
「増えてなどいない」
「じゃあどれがお前なんだよ」
「さぁ?」
セブラン達が同時に笑う。
アルトは歯を食いしばった。
右腕は動かない。
左脚には力が入らない。
左手も《砕》を握れない。
その上、今度は相手の位置どころか、部屋そのものまで信用できなくなった。
「……最悪だな」
「今更理解したか?」
一人のセブランが近づいてくる。
アルトは反射的に身体を捻った。
だが、何も起きない。
「……?」
次の瞬間。
別の方向から《蛇針》が伸びた。
「ぐっ!」
脇腹へ細い刃が刺さる。
すぐに抜かれた。
「また……!」
「何を縫い付けられたと思う?」
「……は?」
アルトが身構える。
だが。
何も変わらない。
「右腕でもない。脚でもない……」
「そうだな」
セブランの声が楽しげに響く。
「では、歩いてみたまえ」
「……?」
アルトは右脚へ力を入れ、どうにか身体を起こそうとした。
その瞬間。
「うわっ⁉︎」
身体が大きく傾く。
平らな石床のはずなのに。
まるで地面そのものが斜めになっている。
「なんだこれ!」
「平衡感覚だ」
「へいこう……?」
「君の身体は今、自分が真っ直ぐ立っている場所を正しく認識できない」
「そんなとこまでできんのかよ!」
「《蛇針》で縫い付ければな」
アルトは再び倒れた。
水飛沫が上がる。
だが、その水すら今は妙だった。
冷たいと思った直後には温かい。
膝ほどの深さに感じたかと思えば、次の瞬間には指先ほどしかない。
「……やばいな」
アルトが苦笑する。
「何が本当か、全然分かんない」
「それでいい」
セブランがゆっくりと近づいてくる。
「人間は、自分が世界を正しく見ていると思い込みすぎる。だが実際は違う。目で見て、耳で聞き、皮膚で触れ、それを脳が勝手に現実だと決めているだけだ」
《蛇針》の切っ先が、アルトへ向けられる。
「なら、その認識さえ変えてしまえばいい」
「…………」
「痛みも。傷も。距離も。敵も味方も。生きていることすら」
アルトの眉が動いた。
「……生きてること?」
「あぁ」
セブランの声が低くなる。
「さっき言っただろう」
フードの奥。
僅かに見える口元が歪んだ。
「この忌々しい《癒憩》では、人を殺せない」
《蛇針》も。
加護も。
直接、命を奪うことはできない。
「だが――」
セブランが一歩近づく。
「人間に、自分が死んだと思わせることはできる」
「…………」
アルトの顔から笑みが消えた。
「それ……どうなんの?」
「試してみるか?」
「いや、遠慮しとく」
「残念だ」
セブランが《蛇針》を構える。
アルトは逃げようとする。
だが、脚が動かない。
違う。
動いているのかもしれない。
それすら。
もう分からない。
「くそっ……!」
《魔脈》。
また頭に浮かぶ。
この身体を無理やり動かすなら。
やはり。
あれしかない。
「…………」
でも。
レテの顔も。
同時に浮かんだ。
「……ダメだ」
アルトが小さく呟く。
その一瞬。
セブランの姿が消えた。
「⁉︎」
どこだ。
右。
違う。
左。
違う。
後ろ――。
――シュッ。
「っ……!」
《蛇針》が。
アルトの胸元へ触れた。
深くない。
致命傷でもない。
ほんの僅かな刺し傷。
だが。
「…………え?」
アルトの耳から。
音が消えた。
水音も。
セブランの声も。
自分の呼吸音さえ。
何も聞こえない。
「…………」
視界が暗くなる。
身体の感覚が。
少しずつ。
遠くなっていく。
胸へ手を当てようとしても。
腕が動かない。
「……あれ」
心臓が。
動いているのか。
分からない。
「俺……」
声を出したはずなのに。
自分の声すら聞こえない。
ただ。
目の前。
何人にも見えるセブランの口が。
同時に動いた。
声は聞こえない。
それでも。
何を言っているのか。
なぜか分かった。
『君はもう死んだ』
「…………」
瞬間。
アルトの視界が。
完全な闇へ沈んだ。




