乙女座
『――レテ! 今!!』
「!」
今度は右。
先ほどとは違う場所から、フィリアの声が響く。
「何……これ……!」
リシェルが周囲を見回す。
完全に。
意識がレテから逸れた。
「…………」
レテが《水凪》を握る。
(意識が逸れたおかげか……)
先ほどまで胸の奥にあった。
リシェルを傷つけることへの強い抵抗。
それが。
僅かに薄れている。
(今なら――)
レテは《水凪》の刀身を消した。
「……?」
リシェルはまだ。
声の主を探している。
レテは静かに柄を鞘へ収める。
(刃は潰す)
斬らない。
殺さない。
それでも。
戦えなくするだけの一撃を。
(薄く……)
鞘の中。
水が集まる。
(もっと薄く……)
さらに。
さらに。
極限まで。
水を薄く引き延ばしていく。
音はない。
水が揺れる音すら。
ない。
(攻撃だと悟られないように……)
呼吸を整える。
「…………」
腰を落とす。
右手が。
《水凪》の柄へ添えられた。
「……今です!」
「⁉︎」
リシェルが。
レテへ向き直る。
「何を――」
――ゴフッ!!
「…………⁉︎」
腹部。
突然。
鋭く。
重い衝撃が走った。
「が……っ!」
リシェルの身体がくの字に折れる。
何が起きたのか。
分からない。
音はなかった。
水飛沫も。
斬撃の跡すら。
見えなかった。
「……《波静》」
「…………!」
レテの《水凪》は。
すでに鞘へ戻っていた。
極限まで薄く引き延ばした水の刀身。
それを。
居合の一瞬だけ形成し、振り抜く。
本来ならば。
その薄さは肉を断つ。
だが。
レテは刃を潰していた。
斬るのではなく。
薄く広い水の一撃を。
腹部へ叩き込んだ。
一切の音も。
一切の波も残さない。
静かな一撃。
「ぐっ……ぁ……」
リシェルが腹を押さえ。
膝をつく。
「刃は潰しました」
レテが。
ゆっくりと《水凪》を構え直す。
「ですが、もう立てないでしょう」
「…………」
「投降してください」
しばらく。
返事はなかった。
「…………」
レテが警戒を解かないまま。
リシェルを見る。
「……あは」
「?」
「あはは……」
「…………」
俯いていたリシェルの肩が。
小さく震える。
「あはははははははは!!」
「⁉︎」
笑っている。
「馬鹿ね……」
リシェルが。
腹を押さえながら顔を上げた。
「あなた!」
「…………!」
「今の一撃で――」
口元から血を流しながら。
それでも。
笑う。
「私を斬ればよかったのに!」
「なにを……」
「私は……」
震える脚で。
立ち上がる。
「ナーラ様の為に……!」
「…………」
「負けられない!!」
その瞬間。
リシェルの身体から。
白銀の光が溢れ出した。
「これは……」
レテが息を呑む。
先ほど。
遠くで感じたものと似た。
けれど。
まるで異なる気配。
リシェルが両腕を広げる。
「――《星纏》」
白銀の光が。
その背へ集まっていく。
「《霞憶》」
――フワッ。
「…………!」
最初に現れたのは。
一枚の翼。
続いて。
もう一枚。
さらに。
その奥から。
二枚。
四枚。
やがて。
六枚の翼が。
リシェルの背中いっぱいに広がった。
「翼……」
薄い硝子を幾重にも重ねたような。
半透明の翼。
輪郭だけが白銀に輝き。
先端へ向かうほど。
霞のようにぼやけている。
「…………」
美しい。
そう思った。
次の瞬間。
「……?」
翼の中に。
何かが浮かんだ。
知らない街。
見知らぬ男の横顔。
笑っている子供。
花畑。
古びた部屋。
読んだことのない文字。
一つ。
また一つ。
まるで。
誰かの思い出を覗いているように。
無数の光景が浮かんでは。
霞のように消えていく。
「今のは……」
レテが目を凝らす。
だが。
もう何もない。
その間にも。
リシェルの変化は続いていた。
髪がふわりと浮かび上がり。
毛先から淡い銀白へ染まっていく。
瞳は。
薄い紫。
その虹彩には。
幾重もの細い輪が浮かび。
ゆっくりと回っていた。
胸元。
小さな光が一つ。
また一つ。
点々と浮かび。
細い光の線で結ばれていく。
乙女座。
さらに。
肩。
胸元。
腰。
白銀の薄い装甲が身体を覆う。
鎧というよりも。
まるで。
白い衣を纏ったような姿。
腰からは半透明の光が長く伸び。
風もないのに。
薄布のように揺れている。
「…………」
そして。
リシェルが《射恋》を持ち上げた。
白銀の鉄杭にも。
淡い桃色の紋様が浮かび上がる。
「……星纏」
レテが小さく呟く。
「あはは……」
六枚の翼が。
ゆっくりと広がった。
その中で。
いくつもの記憶が。
また。
一瞬だけ浮かんでは消える。
「さぁ」
リシェルの薄桃色の瞳が。
レテを捉えた。
「もう一度です」
その瞬間。
レテの胸の奥に。
また。
強烈な違和感が蘇った。




