颶風②
フィリアが振り返る。
そこには、一人の男が立っていた。
灰色の外套。
擦り切れた軽装。
年齢は三十を少し過ぎたほど。
くすんだ灰色の髪が、風もないのにわずかに揺れている。
男は感情の見えない目で、フィリアを見下ろしていた。
「救援が早いな。」
低く、静かな声。
フィリアはすぐに短弓《遠音》を引き絞った。
「誰。」
「答える必要はない。」
「あるよ。」
フィリアの顔から、いつもの笑みが消える。
「この人たちを倒したの、あなたでしょ。」
「そうだ。」
男は否定しなかった。
フィリアの指が弦から離れる。
風をまとった矢が、男の肩を目がけて飛んだ。
だが。
男が動くより先に、矢の軌道が大きく逸れる。
「え……?」
矢は男の横を通り過ぎ、背後の木へ突き刺さった。
フィリアはすぐに二本目をつがえる。
「今の……風?」
「悪くない。」
男は腰へ手を伸ばした。
ゆっくりと鞘から引き抜かれたのは、細身の片刃剣だった。
銀灰色の刀身は、風の流れをそのまま鋼へ閉じ込めたように、緩やかな曲線を描いている。
刃元から切っ先へ向かい、幾筋もの細い溝が走っていた。
鍔は左右へ鋭く伸び、その形は警戒する兎の長い耳を思わせる。
だが、そこに愛らしさはない。
危険を察した次の瞬間には姿を消す、野生の獣の鋭さだけが形になっていた。
柄頭には、跳躍する兎を抽象化した小さな紋章が刻まれている。
男が剣を構えると、刀身の溝を淡い翠色の光が駆け抜けた。
「《裂兎》。」
その名が口にされた直後。
剣の周囲で、低い風鳴りが響いた。
フィリアは《遠音》を構え直す。
「その剣……」
「戦場で余所見をするな。」
男が《裂兎》を横へ振り抜いた。
次の瞬間。
広場全体を覆うほどの暴風が、爆発するように吹き荒れた。
「なっ……!」
ヒルトが目を見開く。
アルトも《砕》を構えながら、男を凝視した。
「精霊術……?」
アルトは周囲へ視線を走らせる。
だが、男のそばに精霊の光は見えない。
それどころか、アルトがこれほど近くにいる。
フィリアの契約精霊であるヒバリでさえ近づけないというのに、男は何事もないように風を操っていた。
「どうして使えるんだ……?」
「僕にも分からない!」
ヒルトが叫ぶ。
暴風が地面を削り、土と石を巻き上げる。
兵士たちは咄嗟に武器を構えた。
だが、防ぐことすらできなかった。
視界を奪われた直後、兵士たちの身体が次々と宙へ浮く。
「うわああっ!」
風に投げ飛ばされ、木の幹や地面へ叩きつけられる。
剣を抜く暇もない。
術を発動する暇さえ与えられない。
アルトの身体も、強烈な風に押し流された。
「くっ……!」
地面へ《砕》を突き立てようとするが、間に合わない。
身体が宙へ浮き、そのまま広場の反対側へ吹き飛ばされる。
アルトは地面を何度も転がったあと、フィリアのすぐ近くで止まった。
「アルト!」
フィリアが声を上げる。
暴風が弱まった。
悲鳴が途切れたとき、立っている兵士は一人もいなかった。
ヒルトだけが双銃を地面へ突き立て、辛うじてその場に留まっている。
男は倒れた兵士たちへ一瞥を向けた。
「殺してはいない。」
「だから何?」
フィリアは《遠音》へ矢をつがえた。
額から流れる血を袖で拭い、男を睨みつける。
「このまま通すわけないでしょ。」
「やめろ、フィリア!」
ヒルトが叫ぶ。
「今のを見ただろ。僕たちだけじゃ――」
「だからって、見逃すの?」
フィリアは足元へ風を集めようとする。
「ここを守るのが、私たちの仕事だよ。」
地面を蹴った。
「《天翔け》!」
しかし。
フィリアの足元に風は生まれなかった。
「え……?」
身体は浮かない。
踏み込んだ勢いだけが空回りし、フィリアの体勢が大きく崩れる。
そのとき、彼女はすぐそばに倒れているアルトへ気づいた。
「アルト……!」
ヒバリの気配がない。
先ほどまで微かに感じていた繋がりさえ、完全に途切れている。
アルトが近くへ吹き飛ばされたことで、ヒバリが逃げてしまったのだ。
「フィリア、離れろ!」
アルトが叫ぶ。
だが、遅かった。
男はすでに目の前にいる。
「戦場で足を止めるな。」
《裂兎》の銀灰色の刃が閃いた。
「っ――!」
刀身が、フィリアの腹部へ深く突き刺さる。




