颶風
アルトたちは木々の間を駆け抜ける。
先頭を走る兵士が枝を払い、その後ろをヒルトとアルトが続いた。
西側へ近づくにつれ、森の空気が変わっていく。
鳥の声がない。
虫の羽音すら聞こえない。
代わりに漂ってくるのは、土と血の匂いだった。
「近い。」
ヒルトが呟く。
そのとき、再び風が吹き抜けた。
『ヒルト……』
フィリアの声が届く。
だが、先ほどよりも小さい。
息も乱れていた。
『みんな倒れてる。兵士も、精霊術師も……』
ヒルトの表情が険しくなる。
「生きてる人は?」
返事が聞こえないと分かっていても、ヒルトは問いかけていた。
少し間を置いて、フィリアの声が続く。
『一人だけ……動いてる』
『今から助けに行く』
「待て、フィリア!」
ヒルトが叫ぶ。
当然、その声は届かない。
「急ぐぞ!」
兵士たちが速度を上げた。
アルトも《砕》を握ったまま、地面を強く蹴る。
やがて木々が途切れ、視界が開けた。
その先に広がっていた光景を見て、誰もが足を止める。
地面には、何人もの兵士が倒れていた。
折れた槍。
砕けた盾。
焼け焦げた地面。
切り裂かれた木々。
精霊術師たちのそばでは、契約精霊が不安定な光となって揺れている。
呼びかけるように周囲を漂っているが、誰一人として立ち上がらない。
「……全滅。」
兵士の一人が、掠れた声を漏らした。
「まだだ。」
アルトが前を見た。
倒れた兵士たちのさらに奥。
一人だけ、地面を這うように動いている者がいた。
そのそばへ、フィリアが降り立とうとしている。
木の枝を蹴り、風をまとった身体が軽やかに宙を舞う。
「フィリア!」
ヒルトが叫んだ。
だが、遅い。
フィリアは倒れている兵士のそばへ着地した。
「大丈夫!?」
短弓《遠音》を手にしたまま、片膝をつく。
兵士は震える腕を上げた。
「に……げろ……」
「何?」
「そいつは……まだ……」
その瞬間。
フィリアの背後で、風が止まった。
木々の葉が動きを失う。
舞い上がっていた砂埃が、地面へ落ちる。
フィリアは息を呑んだ。
彼女の頬を撫でていた風さえ、突然消えていた。
「なに……これ。」
倒れていた兵士が、必死に声を絞り出す。
「後ろだ……!」
フィリアが振り返る。
そこには、一人の男が立っていた。
灰色の外套。
擦り切れた軽装。
腰には、細身の片刃剣。
年齢は三十を少し過ぎたほど。
くすんだ灰色の髪が、風もないのに僅かに揺れている。
男は感情の見えない目で、フィリアを見下ろしていた。
「救援が早いな。」
低く、静かな声。
フィリアはすぐに《遠音》を引き絞った。
「誰。」
「答える必要はない。」
「あるよ。」
フィリアの顔から、いつもの笑みが消える。
「この人たちを倒したの、あなたでしょ。」
「そうだ。」
男は否定しなかった。
フィリアの指が弦から離れる。
矢が放たれた。
風をまとった矢は、まっすぐ男の肩へ飛ぶ。
だが。
男が動くより先に、矢の軌道が逸れた。
「え?」
矢は男の横を通り過ぎ、後方の木へ突き刺さる。
フィリアはすぐに二本目をつがえた。
「今の……風?」
「悪くない。」
男は腰の剣へ手を添える。
「だが、流れが素直すぎる。」
フィリアが地面を蹴った。
「《天翔け》!」
足元に風が集まり、身体が一気に宙へ跳ね上がる。
そのまま木の幹を蹴り、男の側面へ回り込む。
三本の矢を続けて放つ。
それぞれ異なる方向から、風に導かれて男へ迫った。
男は剣を抜かない。
ただ、指先を僅かに動かした。
次の瞬間。
三本の矢が互いにぶつかった。
乾いた音を立て、地面へ落ちる。
フィリアの目が見開かれる。
「嘘……」
「風を操るなら、風だけを見ないことだ。」
男の姿が消えた。
フィリアの背後で、外套が翻る。
「空気を見ろ。」
「っ!」
フィリアが振り返りざまに弓を振るう。
男は身を傾け、弓をかわす。
そのままフィリアの腕を掴み、体勢を崩した。
「速――」
フィリアの身体が地面へ投げ出される。
受け身を取ろうと風を起こす。
しかし、風が生まれない。
「どうして……!」
「お前の風は、もう俺の中にある。」
男が静かに告げた。
フィリアは地面を転がりながら距離を取る。
すぐに立ち上がり、《遠音》を構え直した。
だが、その呼吸は大きく乱れている。
「フィリア!」
ようやくアルトたちが広場へ飛び込んだ。
男の視線が、フィリアからそちらへ移る。
ヒルトが《ツインコード》を構えた。
「彼女から離れろ。」
男はヒルトの銃を一瞥する。
ほんの僅かに、その目が細められた。
「ヴォルグ製か。」
「だったら何。」
「いや。」
男は再びフィリアへ視線を戻す。
「珍しいと思っただけだ。」
アルトがフィリアの前へ出た。
「お前が、みんなを倒したのか。」
「そうだ。」
「一人で?」
「見れば分かるだろう。」
アルトは《砕》を構える。
「なら、お前を倒せば終わりだな。」
「アルト、待って。」
ヒルトが制止する。
男の周囲には、風がない。
なのに外套だけが、静かに揺れている。
空気そのものが男を中心に歪んでいるように見えた。
駆けつけた兵士の一人が、男の顔を見つめる。
やがて、その表情が凍りついた。
「まさか……」
男は反応しない。
兵士の声が震える。
「《颶風》……?」
周囲にいた兵士たちが息を呑んだ。
ヒルトが僅かに眉を寄せる。
「知ってるの?」
「知っているも何も……」
兵士は剣を握る手に力を込める。
「十年前に死んだはずだ。」
男は静かに片刃剣を抜いた。
薄い刀身が、日の光を反射する。
「死んだことになっているだけだ。」
灰色の髪が、ゆっくりと持ち上がる。
止まっていた森の風が、男の周囲へ集まり始める。
「元ガイスト軍国境部隊隊長。」
兵士が、その名を口にした。
「《颶風》カイル・レイヴァン……」
カイルは剣先を下げたまま、アルトたちを見渡した。
「退け。」
その声と同時に。
広場全体を覆うほどの風が、爆発するように吹き荒れた。




