指名手配
◇
ヒルトは獣の森のさらに奥へ進んでいた。
霜の痕跡は、まだ途切れていない。
木の幹。
岩肌。
踏み荒らされた草の先。
ほんの僅かに残った白い霜が、森の奥へと続いている。
「…………」
ヒルトは足を止めず、その跡を追った。
間違いない。
氷属性は希少だ。
これだけの冷気を残せる人間を、ヒルトは一人しか知らなかった。
「兄さん……」
小さく呟く。
返事はない。
肩に乗ったキャンバスの白い尾が、ヒルトの首元へ少し強く巻きついた。
「大丈夫だよ」
ヒルトは白いカメレオンの頭を撫でる。
「もう少しだから」
そう言ったものの。
身体は、とっくに限界へ近づいていた。
足が重い。
息も浅い。
三日前にガイストを飛び出してから、まともに休めていない。
それでも。
止まりたくなかった。
五年間。
ずっと探していた。
やっと兄へ繋がるものを見つけたのだから。
ザッ。
「……!」
ヒルトの足が止まった。
キャンバスの二つの目が別々の方向へ動く。
右。
左。
そして。
二つの目が同時に、前方の茂みへ向いた。
「…………」
ヒルトの手が、ゆっくり《ツインコード》へ伸びる。
「誰?」
返事はない。
風が吹く。
葉の擦れる音だけが森に響く。
「……出てきて」
ヒルトは静かに告げた。
「そこにいるんでしょ」
「…………」
数秒。
「ちっ」
低い舌打ち。
茂みを掻き分け、一人の男が姿を現した。
大柄な男だった。
汚れた外套。
剥き出しになった太い腕には、いくつもの古い傷。
そして手には。
鎖で繋がれた巨大な鉄杭。
ジャラ……。
鎖を引きずりながら、男がヒルトを見る。
「なんだよ」
露骨に顔をしかめた。
「ガキじゃねぇか」
「…………」
ヒルトは男の顔を見つめる。
見覚えがあった。
軍にいた頃、何度か目にした指名手配書。
「……ラグナ・ヴィゼル」
「あ?」
男――ラグナの眉が動いた。
「俺を知ってんのか?」
「指名手配書で見た」
「…………」
ラグナの目つきが変わる。
ヒルトの服装。
腰の二丁拳銃。
「お前、ガイストの軍人か?」
「……元、かな」
「元?」
「三日前に辞めたから」
「は?」
ラグナが眉間に皺を寄せる。
「じゃあ、なんで俺の前で銃に手ぇかけてんだよ」
「…………」
ヒルトは少し考えた。
「癖?」
「聞くなよ」
「僕もよく分からないんだ」
「変なガキだな……」
ラグナが呆れたように息を吐く。
「だったら話は簡単だ。もう軍人じゃねぇんだろ?」
「うん」
「俺を見なかったことにしろ」
「それは無理かな」
「なんでだよ」
「指名手配犯だって知ってるから」
「だからお前、もう軍人じゃ――」
「それはそれ」
「…………」
ラグナのこめかみが僅かに動いた。
「面倒くせぇな、お前」
「よく言われる」
ヒルトは《ツインコード》から手を離さない。
「でも、その前に一つ聞きたい」
「あ?」
「この辺で――」
ヒルトの表情が変わる。
「氷を使う男を見なかった?」
「…………」
一瞬。
ラグナの目が泳いだ。
「……知らねぇな」
「今、知ってる顔した」
「してねぇよ」
「したよ」
「してねぇ」
「した」
「…………」
ラグナが大きく息を吐いた。
「しつけぇな……!」
「どこにいるの?」
「知らねぇって言ってんだろ!」
「じゃあ、なんでここにいるの?」
「あ?」
「この森で何してるの?」
「お前に関係ねぇだろ」
「…………」
ヒルトの目が細くなる。
ラグナも鉄杭を握り直した。
ジャラ……。
鎖が地面を擦る。
「最後に言うぞ」
ラグナが低い声で告げる。
「見なかったことにして帰れ」
「…………」
「その身体で俺とやるつもりか?」
「……分かる?」
「当たり前だろ」
ラグナが鼻で笑う。
「足取りはフラフラ。息も上がってる。顔色も最悪だ」
「…………」
「死にてぇのか?」
「死にたくはないよ」
ヒルトは答えた。
「帰るって約束したから」
リンゴの木の下。
泣いていたフィリアの顔が浮かぶ。
「だったら帰れ」
「でも」
ヒルトは《ツインコード》を抜いた。
「兄さんを見つけるまでは帰れない」
二つの銃口をラグナへ向ける。
「教えて」
「…………」
「氷を使う男は、どこにいる?」
「知らねぇっつってんだろ!」
ラグナが鉄杭を振り上げた。
同時に。
パンッ!
銃声が森に響く。
ギィン!
ラグナが鉄杭で弾丸を弾いた。
弾かれた弾丸が、近くの木へ突き刺さる。
「聞かせてもらうよ」
「上等だ!」
鎖が唸る。
巨大な鉄杭が横薙ぎに迫った。
「……!」
ヒルトは身を沈める。
頭上を鉄杭が通過した。
そのまま地面を転がり――
パンッ! パンッ!
二発。
「遅ぇ!」
ラグナが鎖を引く。
戻ってきた鉄杭が一発を弾く。
もう一発はラグナの横を抜け、地面へ突き刺さった。
「ハッ!」
ラグナが笑う。
「どこ狙ってやがる!」
「…………」
ヒルトは何も答えない。
再び銃口を向ける。
「――《加速》」
銃身に刻まれた術式が淡く光る。
パンッ!
「!」
弾丸が一気に速度を増した。
「ちっ!」
ラグナが鉄杭を盾にする。
ギィン!
「ぐっ……!」
衝撃で、鉄杭が僅かに押し戻された。
「なんだ今の……」
「術式」
「あ?」
「《ツインコード》に組み込んでるんだ」
「へぇ……」
ラグナがニヤリと笑った。
「それがお前の切り札か」
「まあ……そんなところかな」
「くだらねぇ!」
ラグナが踏み込む。
鎖が大きく弧を描いた。
「潰れろ!」
「……!」
ヒルトが後ろへ跳ぶ。
避けた。
はずだった。
「っ……!」
身体がついてこない。
鉄杭の先端が右腕を掠めた。
ラグナの口元が吊り上がる。
「《重圧》」
ズンッ。
「――っ!?」
右腕が落ちた。
《ツインコード》を握ったまま、地面へ引き寄せられる。
「なに……これ……!」
「俺の固有術だ」
ラグナが鉄杭を肩へ担ぐ。
「《重圧》」
「…………」
「俺の攻撃が触れた場所を重くする」
ヒルトは右腕へ力を込める。
「っ……!」
上がらない。
「無駄だ」
ラグナが笑う。
「そんな細腕じゃ持ち上がらねぇよ」
「……困ったな」
「今さら後悔したか?」
「右、使えないのは困る」
「そういう意味じゃねぇよ!」
ラグナが駆ける。
ヒルトは左の《ツインコード》を構えた。
パンッ!
ラグナが鉄杭で弾く。
ギィン!
弾丸が岩へ跳ねた。
「また外れだ!」
「…………」
ヒルトは左手を腰へ伸ばす。
今度は銃ではない。
一本の小型ナイフ。
「なんだそりゃ?」
「ナイフ」
「見りゃ分かる!」
ヒルトが投げる。
ラグナが身体を逸らす。
ナイフは横を通り過ぎ――
木の幹へ突き刺さった。
「ハッ!」
ラグナが笑う。
「銃だけじゃなくナイフまで下手くそか!」
「……ひどいな」
鉄杭が飛ぶ。
ヒルトが避ける。
もう一本。
ナイフを投げる。
外れる。
地面へ突き刺さる。
「何本持ってんだよ!」
「色々持ち歩くの好きなんだ」
「ガキか!」
「よく言われる」
「さっきからそればっかじゃねぇか!」
ラグナが距離を詰める。
「……っ」
ヒルトの呼吸が乱れる。
速い。
いや。
ラグナが速いんじゃない。
自分が遅い。
分かっているのに。
身体が動かない。
「ほら!」
「……!」
鉄杭が頬を掠める。
血が飛んだ。
ヒルトは外套の内側へ手を入れる。
取り出したのは、掌ほどの球体。
手榴弾型の魔器。
それを放る。
「そんなもん!」
ラグナが大きく後ろへ跳んだ。
バンッ!
衝撃が広がる。
だが。
距離を取ったラグナには届かない。
「ハッ!」
「…………」
「何がしてぇんだ、お前!」
ヒルトは答えない。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を吐く。
右腕はまだ重い。
額から汗が落ちる。
それでも。
左の《ツインコード》を構え直した。
パンッ!
「また外れ!」
弾丸がラグナの横を抜け、木へ突き刺さる。
ヒルトはまたナイフを抜く。
「まだ投げんのかよ!」
投げる。
今度はラグナの足元へ。
「ハッ! 当てる気あんのか?」
「…………」
さらに。
手榴弾型の魔器を放る。
ラグナが避ける。
バンッ!
「無駄だって!」
「…………」
銃弾。
ナイフ。
小さな魔器。
戦いが続くほど。
少しずつ。
森の中へ散らばっていった。
木の幹。
草むら。
岩陰。
地面。
「……はぁ……」
ヒルトは荒い息を吐きながら。
また。
一発。
引き金を引いた。




