獣の森③
◇
親子の魔獣を見送ってから、さらに森の奥へ進んだ。
先ほどまで以上に、全員の足取りは慎重になっている。
誰も口にはしなかった。
だが、アルトが感じていた違和感は、全員の中にも残っていた。
魔獣が人間を恐れている。
それも、自分の子を守るためなら傷ついた身体で襲いかかってくるほどに。
「…………」
シオンは歩きながら、周囲へ目を配る。
その時。
「……隊長」
少し前を歩いていたゼンが足を止めた。
「なんですか、フルケ」
「こっち」
いつもの軽薄な声ではなかった。
ゼンが茂みを掻き分ける。
その先を見て――フィリアの表情が強張った。
「……!」
一頭の魔獣が、横たわっていた。
先ほどの魔獣とは違う。
鹿に似た四足の身体。
だが、その胴体には深い傷が幾つも刻まれ、周囲の草は乾いた血で黒く染まっている。
「死んでる……」
アルトが近づこうとする。
「アルト君、そのままで」
「あ……はい」
シオンが一人で死骸へ近づいた。
その場へしゃがみ込み、傷口を観察する。
「…………」
一本ではない。
細く鋭い傷が幾つも走っている。
シオンが傷のすぐ上へ指先をかざした。
「魔獣同士の争いではなさそうですね」
「分かるんですか?」
「少なくとも、牙や爪でできた傷ではありません」
シオンは静かに息を吐く。
「調べます」
指先に小さな水滴が生まれた。
「――《残映》」
水滴が死骸へ落ちる。
ぱしゃり。
そこから薄い水の膜が広がり、傷口を覆っていった。
「……?」
アルトが興味深そうに覗き込む。
水面が微かに揺れる。
やがて、傷の周囲から淡い光の筋が浮かび上がった。
一本。
二本。
何本もの軌跡が、空中へ薄く描かれていく。
「すげぇ……」
「残された痕跡を、水に映しているんです」
シオンは軌跡を目で追う。
「細い刃物」
「複数回、同じ方向から攻撃されています」
「じゃあ、人?」
フィリアが尋ねる。
「可能性は高いですね」
シオンが立ち上がった。
「それと――」
視線が死骸の横へ移る。
「逃げようとしています」
「え?」
「傷を受けた後も、この魔獣は奥へ逃げようとしていた」
水の膜から伸びた淡い痕跡が、森の奥を指している。
アルトの表情が曇った。
「追いかけて殺したってこと……?」
「その可能性があります」
「…………」
フィリアが拳を握る。
その時。
「た、隊長……!」
ルールーの声。
少し離れた場所で、青ざめた顔をしている。
「こっちにも……」
全員が向かう。
そこには、もう一頭。
さらにその奥にも。
倒れた魔獣がいた。
「……三匹」
フィリアが小さく呟く。
だが、三体目は様子が違う。
毛皮が焼け焦げていた。
周囲の木々にも、黒い焼け跡が残っている。
「火……?」
シオンが再びしゃがみ込む。
「《残映》」
水が焼け焦げた地面へ広がる。
浮かび上がったのは。
強い打撃の跡。
そして、その跡を中心に広がった炎の痕跡だった。
「……先ほどとは別人ですね」
「どうして分かるんですか?」
「武器も、攻撃方法も違います」
シオンが焼けた地面へ視線を落とす。
「こちらは重量のある鈍器」
「そして火属性」
「じゃあ……」
フィリアが森を見回した。
「少なくとも二人いる?」
「そう考えるべきでしょう」
「ルールー」
「は、はい!」
「周囲を詳しく調べてください」
「分かりました」
ルールーがしゃがみ込み、片手を湿った地面へ添える。
目を閉じる。
「《澪標》」
一滴の水。
そこから薄い水の膜が、静かに森へ広がっていく。
草。
木の根。
岩肌。
地面の僅かな窪みまで。
水が幾つにも分かれながら、広範囲へ伸びていく。
「…………」
先ほどまでのおどおどした姿が嘘のように、ルールーの表情が真剣になる。
「魔獣さん……います」
「数は?」
「たくさん……」
ルールーの眉が寄る。
「でも……変です」
「どうしました?」
「みんな、移動してます」
「こちらへ?」
ルールーは首を横へ振った。
「逆です」
「私たちから……離れていってます」
「…………」
アルトが息を呑んだ。
「やっぱり……」
魔獣が少ないのではない。
いたのだ。
ただ――人間が来ると逃げていた。
「先ほどの親子だけが例外だったのですね」
シオンが静かに言う。
「幼体がいたため、逃げることができなかった」
「だから俺たちに襲いかかってきた……」
アルトが呟く。
フィリアは倒れている魔獣へ目を向けた。
「こんなの見てたら……そりゃ怖がるよ」
「…………」
シオンの視線が鋭くなる。
「フルケ」
「ああ」
ゼンもすでに地面を見ていた。
「《地眼》」
茶色の瞳に淡い光が宿る。
地面に残る僅かな窪み。
折れた草。
踏みつけられた土。
それらを追っていく。
「…………」
「どうです?」
「三人だな」
フィリアが振り返る。
「三人?」
「ああ」
ゼンは指を一本ずつ立てる。
「一人は軽い。足取りもほとんど残してねぇ」
「もう一人はクソ重い。地面の沈み方が全然違う」
「で――」
三本目。
「こいつ」
ゼンの表情が僅かに変わった。
「ほとんど痕跡を残してねぇ」
「分かるの?」
「だから《地眼》使ってんだろ」
ゼンが立ち上がる。
「でもいる」
「三人で間違いねぇ」
「我々が追っていた一人分は?」
シオンの問いに、ゼンは少し離れた場所へ目を向ける。
「別だ」
「……!」
フィリアの胸が跳ねた。
「こいつら三人とは別に、俺らが追ってた一人分の足跡もまだ残ってる」
「じゃあ……」
フィリアの脳裏に、一人の男が浮かぶ。
「ヒール……」
「まだヒルト・エルナーだと決まったわけではありません」
シオンが釘を刺す。
「……はい」
「ただし」
シオンは森の奥へ目を向けた。
「状況は想定より複雑になりました」
傷つけられた魔獣。
焼けた木々。
人間を恐れ、逃げていく獣たち。
そして。
目的の人物とは別に、この森を進んでいる三人。
「ルールー」
「は、はい」
「《澪標》は維持できる範囲で構いません。周囲の反応に注意してください」
「分かりました」
「フルケは痕跡を」
「了解」
「リーベ君」
「はい!」
「上空からの索敵は控えてください」
「え?」
「今は、相手に我々の存在を知られない方がいい」
フィリアは少し考えてから頷いた。
「……了解です」
「アルト君」
「はい」
「私の近くを離れないように」
「分かりました!」
シオンは一度、倒された魔獣たちへ視線を向けた。
「ここから先――」
静かな声が、森の中へ落ちる。
「魔獣より、人間を警戒してください」
誰も反論しなかった。
再び、一行は歩き始める。
そして。
誰もまだ知らない。
森のさらに奥で。
彼らが追う一人とは別の三人が――
すでに、それぞれ動き始めていることを。




