獣の森②
魔獣が地面を蹴った。
巨体からは想像できないほどの速さで、シオンとの距離を詰める。
「グルァァァァッ!」
振り上げられた前脚。
鋭い爪がシオンへ振り下ろされる。
「……!」
《穿雫》の長い穂先が動いた。
ギィン!
激しい音が森に響く。
シオンは爪を正面から受け止めていない。
穂先を斜めに滑らせ、魔獣の一撃を横へ逸らしていた。
「グルッ!?」
勢いのまま前のめりになる魔獣。
「フルケ」
「おう!」
ゼンが地面を蹴る。
袖の下に隠していた魔器を滑らせ、拳へ装着した。
鈍い金属音。
「おらぁ!」
土を纏った拳が魔獣の脇腹へ叩き込まれる。
ドンッ!
「グォッ!」
巨体が大きく揺れた。
「ちっ、硬ぇな!」
「フルケ、離れてください」
「あ?」
ゼンが反射的に後ろへ跳ぶ。
直後。
魔獣の爪が、先ほどまでゼンがいた場所を薙いだ。
「おっと」
「リーベ君」
「はい!」
フィリアが《遠音》を構える。
弦を引き絞ると、矢の周囲に風が集まっていく。
「そこ!」
放つ。
風を纏った矢が木々の間を駆け抜け、魔獣の前脚を掠めた。
「グルァァッ!」
「浅い……!」
フィリアが次の矢を番える。
だが。
魔獣がフィリアを睨んだ。
「……!」
「リーベ君、来ます!」
「分かってる!」
巨体が地面を蹴る。
フィリアはギリギリまで引きつけ――横へ飛んだ。
「よし!」
突進が横を通り過ぎる。
しかし。
「グルァッ!」
「えっ?」
魔獣が強引に身体を捻った。
巨大な前脚が横薙ぎに振るわれる。
フィリアの目が見開かれた。
「――っ!」
水色の光が割り込む。
ガキン!
「隊長!」
シオンだった。
《穿雫》で爪を受け流し、そのまま柄を滑らせる。
長大な穂先が魔獣の眼前へ突きつけられた。
「下がってください」
「はい!」
フィリアが距離を取る。
「アルト君」
「はい!」
「右側へ回ってください」
「分かりました!」
アルトが《砕》を握り締めて走り出す。
シオンが《穿雫》で魔獣を牽制する。
突く。
逸らす。
踏み込ませない。
派手な動きはない。
それでも、魔獣はシオンから目を離せない。
「今です」
「はい!」
アルトが死角へ飛び込んだ。
《砕》を振り抜く。
「《砕衝》!」
ドンッ!
「グォォォッ!」
衝撃をまともに受け、魔獣の巨体が地面へ転がった。
「やった!」
アルトが声を上げる。
「まだです」
シオンは《穿雫》を構えたまま魔獣へ近づいていく。
「グ……ルル……」
魔獣が起き上がろうとする。
だが、前脚に力が入らない。
シオンが一歩踏み込む。
長大な穂先が、魔獣の喉元へ向けられた。
「…………」
あとは突き出すだけ。
「隊長?」
フィリアがシオンを見る。
だがシオンは動かない。
「……妙ですね」
「何が?」
「この魔獣」
シオンが目を細める。
「先ほどから、こちらへ意識を集中していません」
「え?」
アルトも魔獣を見る。
「グルルル……!」
牙を剥き出しにしている。
こちらを睨んでいる。
それでも。
「…………」
アルトは《砕》をゆっくり下ろした。
「……怖がってる」
「アルト?」
「こいつ、怒ってるんじゃない」
アルトが一歩だけ横へ動く。
魔獣の目も動いた。
だが――アルトを追ったのではない。
アルトが移動したことで見えた、その先。
「……後ろ?」
フィリアが魔獣の背後へ目を向ける。
太い木の根。
その陰から。
「キュゥ……」
小さな鳴き声がした。
「……!」
アルトが目を見開く。
二つの小さな影。
先ほどの魔獣とよく似た幼体が、互いに身を寄せ合っていた。
小さな身体を震わせながら。
こちらを見ている。
「子供……」
フィリアの《遠音》が下がる。
「だから……」
アルトが親の魔獣を見る。
「俺たちに襲いかかってきたんだ」
「…………」
シオンも《穿雫》の穂先を下ろした。
傷ついた魔獣が身体を起こそうとする。
「グル……!」
脚が震える。
一度、身体が傾く。
それでも立ち上がった。
アルトたちと二匹の幼体の間へ。
ふらつく身体で立ちはだかる。
「グルルルル……!」
牙を剥く。
だが。
アルトにはもう、それが威嚇には見えなかった。
「……守ってるんだ」
自分が傷ついても。
立っているのがやっとでも。
二匹の子供を背中へ隠している。
シオンが《穿雫》を下ろした。
「全員、武器を収めてください」
「あ?」
ゼンが眉を寄せる。
「マジかよ。そいつ、俺らに襲いかかってきたんだぞ?」
「子供を守るためです」
「魔獣だろ?」
「ええ」
シオンはゼンを見る。
「ですが、これ以上戦う理由はありません」
「…………」
「フルケ」
「……分かったよ」
「返事」
「はい」
ゼンが渋々、拳の魔器を外した。
フィリアも《遠音》を下ろす。
アルトは《砕》をしまった。
「ルールー」
「は、はい」
「ゆっくり後退してください」
「わ、分かりました」
「アルト君、リーベ君も」
「はい」
「うん」
一歩。
また一歩。
魔獣を刺激しないよう、全員がゆっくりと距離を取っていく。
「グルル……」
親の魔獣はまだこちらを警戒していた。
フィリアが少しだけ眉を下げる。
「ごめんね……」
返事はない。
「びっくりさせちゃったね」
親の魔獣は二匹の幼体へ顔を向ける。
「キュゥ……」
幼体たちが恐る恐る木の根元から出てきた。
一匹。
もう一匹。
親の身体へ寄り添う。
やがて。
親子はアルトたちから目を離さないまま、ゆっくりと森の奥へ歩き始めた。
親は脚を引きずっている。
それでも二匹の子供を庇うように歩いていく。
「…………」
アルトはその背中を見つめていた。
「やっぱり……おかしい」
「何が?」
フィリアが尋ねる。
「あの魔獣」
アルトは親子が消えていった森の奥を見る。
「俺たちが来た時から、怯えてた」
「子供がいたからじゃない?」
「それもあると思う。でも……」
アルトは首を横に振った。
「前に来た時の魔獣と違う」
「…………」
「俺たちを見た時……」
少し考えて。
「人間を見ただけで、襲われるって思ってたみたいだった」
「……人間を?」
フィリアの表情が曇る。
シオンも親子が去った方向を見つめていた。
「先へ進みましょう」
「はい」
「ただし」
シオンが《穿雫》を消す。
水色の光が細かな粒となって散っていく。
「ここからは、先ほど以上に周囲を警戒してください」
「……分かりました」
再び歩き始める。
フィリアは《遠音》を握ったまま、森の奥を見つめた。
静かな森。
姿を見せない魔獣たち。
そして――人間を見ただけで怯えていた親子。
嫌な予感は。
もう、気のせいではないような気がしていた。




