バカヒール
フィリアは執務室を飛び出した。
廊下には、もうヒルトの姿はない。
けれど。
「ヒールなら、きっと……」
心当たりが一つだけあった。
昔から、ヒルトが大きな決意をする時に向かう場所。
臆病だった自分と決別した場所。
フィリアは迷うことなく窓を開けた。
「《天翔け》!」
風が身体を包み込む。
そのまま本部を飛び出し、アカデミアの裏手へ向かった。
◇
アカデミアの裏に広がる、小高い丘。
その頂上には、一本の林檎の木が立っている。
ヒルトはゆっくりと丘を登っていた。
「……はぁ」
溜め込んでいた息を吐く。
「隊長、怖かったな……」
あれほど怒鳴られたのは、いつ以来だろう。
いや。
もしかすると、初めてかもしれない。
それだけ本気で止めようとしてくれていたことも分かっている。
けれど。
それでも、立ち止まることはできなかった。
丘の上に立つ林檎の木を見上げる。
「……ここに来るのも、最後になるかな」
軍を辞める。
ガイストを離れる。
兄を見つけるまで、戻るつもりはない。
そう決めた。
けれど。
目的の木へ近づいたところで、ヒルトの足が止まった。
「……!」
林檎の木の下に、先客がいる。
「ヒール!」
フィリアが勢いよく立ち上がった。
「フィリア……」
どうしてここに。
ヒルトがそう尋ねるより早く、フィリアは駆け寄ってきた。
「アーヴェル隊長から聞いた」
息を切らしながら、ヒルトの正面へ立つ。
「軍、辞めないで」
「……なんで?」
ヒルトは視線を逸らした。
「これは僕の問題だ」
「行ってほしくないから!」
迷いのない声だった。
ヒルトは目を閉じ、深く息を吐く。
「……はぁ」
「それに!」
フィリアは一歩踏み出した。
「退院したら、二人でたまごサンド食べに行くって約束したもん!」
ヒルトの肩が僅かに揺れた。
覚えていた。
忘れたことなど、一度もない。
「……行けない」
「嘘つき!」
「そうだよ」
ヒルトは自嘲するように笑う。
「僕は嘘つきで、臆病者だ」
「それも嘘!」
「……?」
ヒルトが振り返る。
フィリアは真っ直ぐ彼を見つめていた。
「ヒールは、約束を守ってくれるもん!」
「何を根拠に」
「あの時だって……!」
フィリアはそこまで言って、言葉を止めた。
アカデミアにいた頃。
まだ二人が今より幼かった時に交わした、遠い日の約束。
その記憶は、今も胸の奥に残っている。
「……とにかく!」
フィリアは強く拳を握る。
「ヒールは、約束を破る人じゃない!」
「はぁ」
ヒルトはわざと大きなため息をついた。
「本当にうるさいな」
「……」
フィリアの言葉が止まる。
胸が痛む。
それでもヒルトは、冷たい表情を作った。
優しくすれば。
きっと、フィリアはついてくる。
だから。
「君には関係ないんだ」
ヒルトは突き放すように言った。
「さっさと消えてくれよ」
「……」
「もう、僕と君は同僚じゃない」
フィリアの表情が、少しずつ歪んでいく。
それでもヒルトは続けた。
「これ以上、関わらないでくれ」
背を向ける。
「さようなら」
歩き出す。
一歩。
また一歩。
胸の奥が、酷く痛んだ。
それでも、振り返らない。
その背中へ。
「こんなんで嫌いにならないから」
フィリアの声が届いた。
ヒルトの足が、僅かに止まる。
「私のこと、舐めんなよ」
泣きそうになるのを堪えながら。
それでもフィリアは、強く言い放った。
「バカヒール」
ヒルトは何も答えなかった。
ただ一度だけ拳を強く握り。
そのまま丘を下っていった。




