軍を辞めます
◇
少し前
アーヴェルの執務室。
扉を叩く音が、静かな室内へ響いた。
「ヒルト・エルナーです」
扉の向こうから聞こえた声に、アーヴェルは書類から顔を上げる。
「入れ」
「失礼します」
扉が開き、ヒルトが部屋へ入ってきた。
いつも通りに軍服を着込み、姿勢を正す。
「ヒルト・エルナー。本日より復帰いたします」
「ああ」
アーヴェルは机の上で手を組み、ヒルトの右腕へ目を向けた。
「腕の具合はどうだ」
「ユノ君のおかげで、思っていたより早く治りました」
ヒルトは腕を軽く動かしてみせる。
「まだ多少の違和感はありますが、任務に支障はありません」
「そうか」
アーヴェルは短く頷いた。
復帰の報告を受けたのなら、それで話は終わるはずだった。
しかし、ヒルトは敬礼を解いた後も、その場から動こうとしない。
表情にはいつもの軽さがなく、何かを押し殺すように唇を結んでいる。
「……エルナー」
「はい」
「何かあったか?」
ヒルトの目が僅かに見開かれた。
それから、諦めたように小さく笑う。
「……はは。隊長には敵いませんね」
「話を聞いても?」
アーヴェルが促すと、ヒルトは一度俯いた。
しばらく黙った後、意を決したように顔を上げる。
「アルトがヴォルグで、兄さんらしき人を見たと聞きました」
「……!」
アーヴェルの表情が変わる。
「アルトから聞いたのか?」
「いえ」
ヒルトは首を横へ振った。
「アルトがバルガス隊長と試験をしている時、偶然、話を聞いてしまいました」
自嘲するように口元を歪める。
「立ち聞きです」
「ですから、アルトは悪くありません」
「そうか……」
アーヴェルは椅子へ深く座り直した。
ヴォルグで目撃された、ヒルトによく似た男。
アルトから報告を受けたバルガスが、ノアへ伝えた話。
まだ確証はない。
だが、もし本当にリヒトだとすれば。
「それで」
アーヴェルはヒルトを真っ直ぐ見据えた。
「どうするつもりだ?」
「兄を追います」
迷いのない答えだった。
「駄目だ」
アーヴェルも即座に言い切った。
ヒルトは予想していたように、苦笑を浮かべる。
「そう言うと思いました」
「なら話は終わりだ」
「いいえ」
ヒルトは静かに首を横へ振る。
「終わりにはできません」
「エルナー」
「隊長」
ヒルトは真っ直ぐアーヴェルを見る。
「僕、軍を辞めます」
「……何?」
アーヴェルが椅子から立ち上がった。
「今、何と言った」
「軍を辞めます」
「辞めたところで、リヒトを追えるのか?」
アーヴェルの声が低くなる。
「居場所の当てはあるのか?」
「分かりません」
「だったら!」
机を叩く音が、執務室へ響いた。
「何も分からないまま、一人で探しに行くつもりか!」
ヒルトの肩が僅かに揺れる。
それでも、視線は逸らさなかった。
「でも!」
ヒルトの声が初めて荒くなる。
「もう待っているなんて、できないんです!」
アーヴェルは言葉を失った。
「兄さんが生きているかもしれない」
「ずっと探していた兄さんが、すぐ近くまで来ていたかもしれない」
ヒルトの拳が強く握られる。
「それを知ったのに、何も知らないふりをして命令を待つなんて……僕にはできません」
「捜索は軍で行う」
「いつですか?」
「情報を集めている」
「それはいつ終わるんですか!」
ヒルトの声が震える。
「明日ですか?」
「一月後ですか?」
「それとも、また何年も待てと言うんですか?」
「エルナー……」
「僕は、もう待てません」
アーヴェルは机を回り込み、ヒルトの前へ立った。
「駄目だ」
先ほどよりも、強く言い聞かせる。
「危険すぎる」
「リヒトが今、どのような状態かも分からん」
「人喰らいとなっている可能性もある」
「分かっています」
「分かっていない!」
アーヴェルの怒声が部屋を震わせた。
「一人で追えば、お前まで戻らないかもしれんのだぞ!」
ヒルトの表情が僅かに歪む。
それでも。
「……それでも行きます」
「行かせん」
「隊長の許可をいただくつもりで来たわけではありません」
ヒルトは一礼すると、扉へ向かって歩き出した。
「エルナー」
「失礼します」
「待て!」
ヒルトは扉へ手を掛ける。
アーヴェルは拳を握り締めた。
「エルナー! これは命令だ!」
ヒルトの手が止まった。
だが、振り返らない。
「……もう」
低い声が落ちる。
「命令を聞く必要はありません」
扉が開く。
「エルナー!」
アーヴェルは机を回り込み、追いかけるように声を張り上げた。
「戻れ!」
廊下へ出たヒルトは、足を止めなかった。




