血界
アルトは両足へ力を込めた。
ノアとの距離は、およそ十歩。
霊器は鉤爪。
見たところ、近接戦闘を得意とする武器だ。
ならば、先に間合いへ入る。
「いきます!」
アルトが床を蹴った。
一気に距離を詰め、《砕》を横薙ぎに振るう。
狙いは胴。
だが。
「遅いですねぇ」
「なっ!」
ノアの姿が、目の前から消えた。
次の瞬間。
背後で、硬質な音が鳴る。
アルトは反射的に《砕》を背中へ回した。
金属同士がぶつかり、火花が散る。
「くっ!」
凄まじい衝撃が腕へ伝わる。
細い身体からは想像もできない力。
アルトは踏ん張ることができず、そのまま前方へ弾き飛ばされた。
地面を転がり、すぐに立ち上がる。
「速い……!」
「それだけですか?」
ノアは先ほどとほとんど変わらない位置に立っていた。
眠たげな瞳。
乱れていない呼吸。
まるで、何もしていなかったかのようだ。
「まだです!」
アルトは再び駆け出した。
今度は真正面からではない。
左右へ細かく動きながら、ノアの視線を揺さぶる。
右へ踏み込み。
直前で左へ切り返す。
低い姿勢から《砕》を突き出した。
「なるほど」
ノアが半歩だけ身体をずらす。
《砕》が軍服を掠める。
「さっきよりは、いいですねぇ」
その言葉と同時に。
アルトの頬へ、鋭い痛みが走った。
「っ!」
避けたはずだった。
それでも、頬には一本の傷が刻まれている。
ノアの《緋爪》から、赤い雫が落ちた。
アルトの血。
「今の……」
「避けたつもりでしたか?」
ノアは爪についた血を見つめる。
「あなたは相手の武器しか見ていない」
「肩」
「腰」
「足」
「視線」
「戦うなら、全てを見てください」
アルトは頬の傷を手で拭った。
「はい!」
「……素直ですねぇ」
「教えてもらったことは、覚えます!」
「試験中なのですが」
「それでもです!」
アルトは再び《砕》を構える。
ノアは小さく息を吐いた。
「では」
《緋爪》の先端が、ノア自身の掌を浅く切り裂く。
赤い血が滲んだ。
「少しだけ、難しくしましょうか」
血が床へ落ちる。
その瞬間。
赤い筋が、石床を走った。
「……!」
一本。
二本。
三本。
血の糸が蜘蛛の巣のように訓練室へ広がっていく。
壁へ。
床へ。
天井へ。
気づけばアルトの周囲には、無数の細い血糸が張り巡らされていた。
「固有術」
ノアは両手を静かに広げる。
「《血界》」
赤い瞳が、僅かに鋭さを増す。
「ここから先は」
「足元にも気をつけてくださいねぇ」
アルトは周囲を見回し、額に汗を浮かべた。
動けば、血糸へ触れる。
止まれば、ノアに狙われる。
それでも。
アルトの口元には、笑みが浮かんでいた。
「すげぇ……!」
「感心している場合ですか?」
「だって、初めて見る術だから!」
「……あなたは、本当に変わっていますねぇ」
ノアは《緋爪》を構えた。
「ですが」
「好奇心だけで、生き残れるほど戦場は甘くありません」
血糸が、一斉に震えた。
「来ますよ」
「はい!」
アルトは《砕》を握り直した。




