三人目 血戒の場合
◇
翌日。
軍事局内、地下訓練室前。
アルトは腰に下げた魔器《砕》へ手を添え、目の前の重厚な扉を見上げていた。
「軍事局長か……」
次の試験官は、《血戒》ノア・ヴァルハイト。
ガイスト軍事局の頂点に立ち、隊長たちを束ねる人物だという。
だが、アルトはその名前を聞いたばかりで、顔も人柄も知らない。
知っているのは、ヴェロニカから受けた忠告だけだった。
『彼、普通じゃないから』
『とてつもなく強いわよ』
「普通じゃないくらい強い……」
アルトは《砕》の柄を握り、口元を吊り上げる。
「面白そうだな!」
バルガスの試験は座学。
ヴェロニカの試験はエスコート。
どちらも精霊術師になるために必要なことだった。
けれど、まだまともな戦闘試験は受けていない。
「今度こそ戦闘だよな」
期待を込めて、両手で頬を叩く。
「よし!」
「やってやるぞ!」
扉を二度叩いた。
「失礼します!」
「……どうぞ」
中から、掠れた気怠そうな声が返ってくる。
アルトは重い扉を開けた。
その先に広がっていたのは、頑丈な石材で囲まれた巨大な訓練室。
壁や床の一部には古い傷が残り、これまでに行われた戦闘の激しさを物語っている。
そして、その中央。
一脚だけ置かれた椅子へ、一人の男が深く腰掛けていた。
軍事局長、ノア・ヴァルハイト。
骨が浮くほど細い身体。
こけた頬。
目の下には濃い隈があり、眠たげな赤い瞳が半分だけ開いている。
暗灰色の髪は逆立ちながら、不規則にうねっていた。
軍事局を束ねる人物とは思えないほど、疲れ切っているように見える。
今にも眠ってしまいそうなほど生気が薄い。
だが。
その赤い瞳を向けられた瞬間。
アルトの背筋へ、冷たいものが走った。
気力がないわけではない。
必要がないから、動かない。
目の前の男からは、そんな得体の知れない静けさが漂っていた。
ノアの傍らには、一つの淡い光が浮かんでいる。
アルトが訓練室へ入り、扉を閉める。
ノアは椅子へ身体を預けたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「初めまして、アルト君」
掠れた声が、静かな訓練室へ響く。
「今回の試験を担当する、ノア・ヴァルハイトです」
「は、初めまして!」
アルトは勢いよく頭を下げた。
「アルトです! 本日はよろしくお願いします!」
「ええ」
ノアは眠たげな目のまま、アルトを頭から足元まで眺める。
「よろしくお願いします」
数秒ほど、沈黙が続いた。
ただ見られているだけなのに、身体の内側まで探られているような感覚がある。
アルトは僅かに背筋を伸ばした。
「ヴェロニカ隊長から、私について何か聞きましたか?」
「はい!」
「とてつもなく強いって聞きました!」
「……それだけですか?」
「普通じゃないとも言ってました!」
「余計なことまで話していますねぇ」
ノアは面倒そうに目を細めた。
怒っているようには見えない。
けれど、何を考えているのかも全く読めなかった。
アルトは少し緊張しながらも、ノアの傍らで浮かぶ淡い光へ目を向ける。
その瞬間。
淡い光が、アルトから隠れるようにノアの背後へ回り込んだ。
「あの、ノアさん!」
「何でしょう」
「契約精霊の名前と、どんな姿なのか聞いてもいいですか!」
ノアは返事をせず、数秒アルトを見つめた。
「……これから試験を受けるというのに」
赤い瞳が僅かに細められる。
「最初に聞くのが、それですか?」
「はい!」
迷いのない返事だった。
ノアは背後へ隠れた光へ視線を向ける。
「名前は、ノーチェ」
「蝙蝠の精霊です」
「蝙蝠!」
アルトの表情が一気に明るくなる。
「どれくらいの大きさなんですか?」
「アルト君」
「はい?」
「質問は一つだったはずですが」
「あっ……」
アルトは名残惜しそうに口を閉じた。
「すみません…」
「いえ」
ノアは椅子の肘掛けへ両手を置いた。
ゆっくりと立ち上がる。
長身ではあるものの、その身体はあまりにも細い。
今にも折れてしまいそうに見える。
けれど。
ノアが立ち上がっただけで、訓練室の空気が変わった。
「ところで」
ノアの視線が、アルトの腰に下げられた《砕》へ向く。
「戦闘試験だと思っているようですねぇ」
「違うんですか?」
「いいえ」
ノアは薄く笑った。
「今回は、その通りです」
「……!」
アルトの口元が吊り上がる。
「やっぱり!」
すぐに《砕》を抜き、構えを取った。
「よろしくお願いします!」
「随分と嬉しそうですねぇ」
「はい!」
「そうですか」
ノアは両手を胸元まで持ち上げた。
十本の指へ、赤黒い鉤爪が現れる。
指先を覆う、鋭い爪。
血属性の霊器――《緋爪》。
ノアは爪同士を軽く擦り合わせた。
硬質な音が、訓練室へ響く。
「ですが」
ノアの声が、僅かに低くなる。
「始める前に、一つ伝えておきます」
「何ですか?」
アルトが構えたまま尋ねる。
ノアは眠たげな赤い瞳で、真っ直ぐアルトを見つめた。
「私は、あなたを合格させるつもりはありません」
「……え?」
アルトの表情が固まった。
ノアは感情を変えることなく続ける。
「バルガス隊長とヴェロニカ隊長は、あなたを高く評価しました」
「国王陛下も、あなたへ機会を与えるおつもりです」
「ですが」
《緋爪》を纏った指が、ゆっくりとアルトへ向けられる。
「人柄が良いことと、軍人として信用できることは別です」
「あなたは命令を無視し、ガイストを抜け出した」
「そして、他国へ無断で潜入した」
「それは……」
「結果としてヴォルグを救った」
ノアはアルトの言葉を遮った。
「多くの精霊を助け、戦争を回避するきっかけも作った」
「その功績まで否定するつもりはありません」
「ですが、結果が良ければ独断が許されるわけではない」
「もし、あなたの行動が原因で戦争になっていたら?」
「もし、一緒に行ったガオン王子が命を落としていたら?」
「もし、救出のためにガイストの兵士が大勢死んでいたら?」
アルトは何も答えられなかった。
「あなたは、自分の行動が他人へ与える影響を理解できていない」
ノアの視線が、アルトの背後へ回り込んだノーチェへ向く。
「さらに、精霊はあなたを恐れている」
「理由も分からない」
「契約精霊もいない」
「当然、精霊術師でもない」
再び、《砕》へ視線を落とす。
「それにもかかわらず、常識では説明できない力を持っている」
アルトの脳裏に、ヴォルグで使った《魔脈》が浮かぶ。
「私は」
ノアは静かに言い切った。
「正体の分からない力を、軍へ入れるつもりはありません」
訓練室へ、重い沈黙が流れる。
アルトは《砕》を握ったまま、ゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、この試験は……」
「あなたを不合格にするためのものです」
ノアは迷うことなく答えた。
「戦う前に諦めるなら、今でも構いませんよ」
「ここで帰れば、怪我をすることもありません」
アルトは俯いた。
握った《砕》へ、少しずつ力が籠もっていく。
国王は機会をくれた。
バルガスは、自分に足りない知識を教えてくれた。
ヴェロニカは、自分の行動を認めてくれた。
そして。
アルト自身も、ここまで来て初めて分かったことがある。
精霊術師になりたい。
ただ精霊と仲良くなりたいだけではない。
自分を守ってくれた者たちを。
大切な友達を。
今度は自分が守りたい。
「……嫌です」
小さな声だった。
「そうですか」
「俺は、精霊術師になりたい」
アルトは顔を上げる。
真っ直ぐノアを見据えた。
「友達を守れるくらい、強くなりたいんです」
「だから」
《砕》を構え直す。
「ノアさんが俺を認めるまで、諦めません!」
ノアはしばらくアルトを見つめていた。
「認めることはないと思いますが」
十本の爪が、鈍い光を放つ。
「好きにしてください」




