誘惑の余裕
◇
アルトと別れたヴェロニカは、中心街を離れ、軍人たちの住居が集まる区画へ向かっていた。
手には、アルトから贈られた黒い靴。
つま先には、小さなリボンが飾られている。
「まさか、試験で靴を贈られるとは思わなかったわね」
ヴェロニカは靴へ視線を落とし、ふっと口元を緩めた。
歩きにくそうだから。
ただそれだけの理由で、自分の足の大きさを聞き、人混みの中を走って買ってきた。
女性へ贈り物をしたという自覚すら、ほとんどなかったのだろう。
「本当に可愛い子」
アルトの試験結果については、軍事局へ報告書を提出すれば済む。
わざわざ担当外の隊長へ直接伝える必要はない。
それでも、アルトを最初に預かっていたのはアーヴェルだ。
きっと結果を気にしている。
直接伝えておいた方がいい。
ヴェロニカはそう自分へ言い聞かせながら、目的地へ向かって歩き続けた。
やがて、飾り気のない一軒の家の前で足を止める。
余計なものは置かず、必要なものだけを揃えたような外観。
質実剛健という言葉が、これほど似合う家も珍しい。
ヴェロニカは黒髪を軽く整える。
それから、玄関の扉を二度叩いた。
「アーヴェル、いるかしら?」
少しして、家の中から足音が近づいてくる。
扉が開いた。
「どうした」
姿を見せたアーヴェルを見て。
ヴェロニカの思考が、一瞬止まった。
軍服ではなく、白いシャツ。
袖は肘の辺りまで捲られ、鍛えられた腕が露わになっている。
普段は後ろへ整えられている髪も下ろされ、前髪が僅かに額へかかっていた。
(えっっっろ)
(何、その格好)
(白いシャツに袖捲り?)
(しかも髪まで下ろしてるの?)
(アーヴェル、エロすぎ)
(イケおじ半端ないんだけど)
「グランディア?」
返事をしないヴェロニカを見て、アーヴェルが眉を寄せた。
「何でもないわ」
ヴェロニカは、いつもの余裕ある笑みを浮かべる。
「アルトの試験が終わったから、結果を伝えに来たの」
「そうか」
アーヴェルは短く答えたあと、少しだけ家の中へ目を向けた。
「……まぁ、上がっていくか?」
「あら。いいの?」
「ああ」
アーヴェルは扉を大きく開き、ヴェロニカを招き入れる。
「何もないが……」
そこで言葉を止め、彼女へ視線を戻した。
「紅茶、好きだったよな?」
「……ええ」
ヴェロニカは僅かに目を見開いた。
すぐに何事もなかったように微笑む。
「覚えていてくれたのね」
「以前、会議の休憩中に飲んでいただろう」
「そんなことまで見ていたの?」
「たまたま覚えていただけだ」
そう言って、アーヴェルは先に家の中へ戻っていく。
ヴェロニカは、その背中を見つめながら胸元へ手を添えた。
(たまたまで、そんなこと覚えてる?)
(もう)
(家に入る前からこれなの?)
(落ち着きなさい、ヴェロニカ)
(私は仕事で来たの)
小さく息を整え、家の中へ入る。
「お邪魔するわね」
「ああ」
居間へ通されると、アーヴェルは椅子を引いた。
「座っていろ」
「今、淹れる」
「ありがとう」
ヴェロニカは優雅に腰を下ろす。
台所へ向かうアーヴェルの背中を、つい目で追ってしまう。
下ろされた髪。
白いシャツ。
袖から覗く腕。
(……駄目)
(やっぱりエロすぎるわ、この人)
しばらくして、アーヴェルが二つのカップを持って戻ってきた。
「砂糖は?」
「一つお願い」
「分かった」
角砂糖を一つ落とし、静かにカップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
ヴェロニカは紅茶を一口含んだ。
香りも濃さも、自分の好みに近い。
(紅茶まで上手なの?)
(本当に何なの、この人)
アーヴェルは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「それで」
「アルトの結果は?」
「合格よ」
その言葉を聞いた瞬間。
アーヴェルの表情が、ほんの僅かに緩んだ。
口元に浮かんだのは、見逃してしまいそうなほど小さな笑み。
けれど、ヴェロニカは見逃さなかった。
(……笑った)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
(何、その顔)
(普段は全然見せないくせに)
(ずるいわ)
ヴェロニカは動揺を隠すように、カップへ口をつけた。
「随分と信頼しているのね」
「オーズィラたちから聞いた話と、俺が直接見たものを考えればな」
「合格すると思っていた?」
「ああ」
アーヴェルは迷わず頷いた。
「戦闘試験だったのか?」
「いいえ」
ヴェロニカは脚を組み直す。
「私を一日、エスコートさせたわ」
「……何?」
アーヴェルの眉が僅かに寄った。
(あら)
(もしかして、少しは妬いてくれた?)
「それで、精霊術師として何を見た」
(でしょうね)
(この人がそんな分かりやすいわけないもの)
ヴェロニカは内心で肩を落としながらも、何事もなかったように答える。
「護衛対象に合わせて動けるか」
「周囲へ気を配れるか」
「困っている民間人を前にした時、どう判断するか」
「結果は?」
「上出来よ」
ヴェロニカは、アルトから贈られた靴へ目を落とした。
「私が歩きにくそうにしているのを見て、靴まで買ってきたわ」
「買わせたのか?」
「人聞きが悪いわね」
ヴェロニカは少しだけ頬を膨らませる。
「あの子が勝手に買ってきたのよ」
「靴のプレゼントは、私も予想外だったけれどね」
アーヴェルも黒い靴へ視線を向けた。
「気遣いはできるようだな」
「ええ」
ヴェロニカは柔らかく笑う。
「泣いている子供を見つけた時、一度は試験を優先しようとしたわ」
「だが、戻ったのか」
「そうよ」
「泣き声を無視できなかったみたい」
アーヴェルは静かに頷いた。
「そのあと、模擬の襲撃も行ったけれど」
「人質を守りながら、犯人役を他に被害も出さずに取り押さえたわ」
「迷いは?」
「なかった」
ヴェロニカは断言した。
「私が狙われた瞬間、真っ先に間へ入ったわ」
「そうか」
アーヴェルの声には、僅かな安堵が混じっていた。
しかし。
その表情は、すぐにどこか寂しげなものへ変わる。
「アルト……」
アーヴェルは紅茶へ視線を落とした。
「あいつを見ていると、リヒトを思い出す」
「リヒトを?」
「ああ」
短い返事。
それ以上の言葉はなかった。
だが、その横顔には深い後悔が滲んでいる。
守れなかった部下。
今も人喰らいとして、どこかを彷徨っている男。
ヴェロニカは、黙ってアーヴェルを見つめた。
(あぁ……)
(抱き締めたい)
(今すぐ、その寂しそうな顔ごと)
(後悔も、苦しみも)
(全部、受け入れてあげたい)
けれど、動くことはできない。
そんなことをすれば、この男はきっと困る。
ヴェロニカはいつもの笑みを崩さず、静かに尋ねた。
「アルトが、リヒトと同じ道を進むと思っているの?」
「いや」
アーヴェルは首を横へ振る。
「あいつはリヒトとは違う」
「ただ……」
僅かに言葉を止める。
「無茶をするところは、よく似ている」
「そうね」
ヴェロニカも苦笑した。
「自分が傷つくことを、あまり恐れていないものね」
「ああ」
「でも、アルトには止めてくれる人がいるわ」
「手を伸ばしてくれる人も」
アーヴェルの瞳が静かに細められる。
「今度は、間違えん」
低く、重い声だった。
ヴェロニカの胸が、また締めつけられる。
(もう)
(そんな顔で、そんなことを言わないでよ)
(好き)
(好き好き好き)
それでも、口から出たのは別の言葉だった。
「なら、アルトのことは任せても大丈夫そうね」
「ああ」
「報告は以上よ」
ヴェロニカは紅茶を飲み終え、椅子から立ち上がった。
「わざわざすまなかった」
「いいのよ」
黒髪を肩の後ろへ払いながら、微笑む。
「近くまで来たついでだから」
もちろん、嘘だった。
アーヴェルの家は、次の目的地とは反対方向にある。
それを伝えるつもりはない。
「それじゃあ、私はこれで」
「ああ」
玄関へ向かい、扉へ手をかける。
その時。
「グランディア」
背後から呼び止められた。
ヴェロニカは平静を装い、振り返る。
「何かしら?」
「その靴」
アーヴェルの視線が、アルトから贈られた黒い靴へ向く。
「似合うと思うぞ」
「……」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
ヴェロニカの思考が止まった。
「ありがとう」
どうにかそれだけ返し、静かに扉を閉める。
家を出た途端。
ヴェロニカは胸元へ両手を当て、その場で立ち止まった。
(好き)
(好き好き好き)
(好き好き好き好き好き!)
先ほどまでの《誘惑》の余裕は、どこにも残っていなかった。




