立ち聞き
◇
「こっちこっち!」
ミレイアは軽い足取りで廊下を進んでいく。
その少し後ろを、ヒルトがゆっくりと歩いていた。
「そんなに急がなくても、研究室は逃げませんよ」
「逃げないけど、思いついた術式は逃げるの!」
「意味が分かりません……」
《暖脈》のおかげで身体は随分と軽くなっていた。
だが、傷が完全に治ったわけではない。
ヒルトは脇腹を庇いながら、ミレイアのあとを追う。
その時だった。
「その前だ!」
閉ざされた会議室の向こうから、荒々しい声が響いた。
ヒルトの足が止まる。
聞き覚えのある声。
バルガス隊長だ。
「どうしたの?」
ミレイアが振り返る。
ヒルトは人差し指を唇へ当てた。
「少し、静かに」
会議室の中から、再び声が聞こえる。
「ヴォルグで、ヒルトそっくりな奴を見たって言ったのか!」
「……!」
ヒルトの目が見開かれた。
ミレイアも何かを察したように口を閉ざす。
「は、はい……」
今度はアルトの声だった。
ヒルトは無意識に扉へ近づく。
「リヒト・エルナーを見たって言ったのか!」
呼吸が止まった。
胸の奥を、強く掴まれたような感覚。
「リヒト……エルナー?」
「このこと、誰に言った!」
「ヒルトとアーヴェルに言ったか!」
「い、いいえ。忘れていたので……」
しばらく、何も聞こえなかった。
ヒルトは扉の前で立ち尽くす。
ヴォルグにいた。
兄が。
ライと呼ばれた男の隣に。
「……ふぅ」
バルガスの低い声が続く。
「声を荒らげてすまなかった。許してくれ」
「このことは俺から上へ伝えておく」
「坊主は黙っていてくれ」
「はい……」
そこまで聞いたところで、ヒルトは静かに扉から離れた。
「ヒルト君……?」
ミレイアが心配そうに顔を覗き込む。
ヒルトは俯いたまま、拳を握っていた。
「……行きましょう」
「でも」
「研究室に用があるんですよね」
声は落ち着いていた。
だが、その顔からは血の気が引いている。
ミレイアは何か言いかけたものの、結局何も言わずに頷いた。
「……うん」
二人は再び廊下を歩き始める。
ヒルトは一度だけ、会議室の扉を振り返った。
(兄さんが……ヴォルグにいた)
足を止めず、心の中で繰り返す。
(どうして)
(何をしていたんだ)
答えのない疑問を抱えたまま、ヒルトはミレイアとともに研究室へ向かった。




